26歳を迎えて 《Thanksgiving 25→ 三十路へのゆくえ》
26歳の誕生日を迎えた。
やれ25歳だアニバーサリーの幕開けだと騒いでいたのがつい昨日のことのようである。時の流れは恐ろしい。
この1年間を振り返ると、同年齢の仲間たちとともに “25周年” を掲げて公私ともに大きく成長できたことが何よりも思い出深い。
大学卒業というひとつの集大成や新たな環境での毎日の学びは自らの将来に向けて大きな自信となり、10代の頃の苦い記憶もあれよあれよという間に浄化されていっている実感が確かにある。
ただその傍らで、'24年6月に新型コロナに初めて感染してしまい、それまでのアクティブな生活が嘘のような閉塞感に満ちた療養の日々を1ヶ月以上も経験することとなる。
フィジカルの症状に加えて気力の低下と脳疲労が極めてしんどい状況で、時に将来を絶望視するなど弱気な自分も顔を覗かせた。
幸い後遺症もさほど長引かず、25歳のうちに何とか軽快していったわけだが、療養を経て得られた知見もある。
7月末、諸症状の呪縛から一旦解放されると途端に幸福感が自らを包み、何でもない日常生活そのものに『幸せ』を感じられるようになったのだ。
かつての適応障害の経験から、生きることの尊さはとうに実感したつもりでいた。
でも、半ば強迫観念のように『毎日を大切に…』と思い込ませていた従来とは異なり、1日1日の何気ないシーンに顔がほころび、なんだかじんわりと楽しいのである。
すると、自分のダメな部分を受け入れることさえも容易になり、おのずと心に余裕が生まれる。
悪くないな、としみじみ思った。
そういえば丸1年前、25歳の誕生日に投稿したnoteにこんなことを記していた。
まさに、この1年間で円熟した物事の捉え方によって生きやすい毎日を体得できたことは疑いようがなく、療養の日々がもたらした新たな人生観でさえも私の25周年へのGIFTだったのかもしれない。
とはいえこれが到達点ではない。
浮き沈みがあり、迷うからこその人生である。
再びひょんなきっかけで道を逸れることがあるはずだけど、必ず元の場所へと戻ってこられるから絶対に大丈夫、と信じて止まない。
さぁ、ここから三十路、不惑、半世紀へと続く永い人生の道のりに向け、胸の中の約束の場所を目指して、夢の方へ碇を上げよう。
これまでの人生を支えてくださったすべての皆さまへの感謝とともに。
2024.8.15 やたろ