楽譜のお勉強【42】カジミエシュ・セロツキ『シンフォニエッタ』
カジミエシュ・セロツキ(Kazimierz Serocki, 1922-1981)の名前は、一部の西洋音楽シーンでとてもよく知られています。トロンボーンのためのソナチネ(1954)と協奏曲(1953)は現在もトロンボニストの重要なレパートリーで頻繁に演奏されています。また彼はポーランドの現代音楽作曲界の草分けとも呼べる作曲家で、その名を冠した国際作曲コンクールは作曲家の間でよく知られています。とくにイギリス在住の日本の作曲家・藤倉大が1998年に最年少で優勝したエピソードで日本人作曲家には馴染みのコンクールかもしれません。
セロツキはそれほど多作ではなかったのですが、規模の大きな管弦楽曲が多く、20世紀のポーランド音楽史を語る上では外せない作品がいくつもあります。室内楽作品や声楽作品にはそれほど意欲を発揮しなかったようですが、いくつかの作品を残しています。本日は彼の初期の代表作『2群の弦楽オーケストラのためのシンフォニエッタ』(Sinfonietta per due orchestre d’archi, 1956)を読んでみたいと思います。
2つの弦楽オーケストラはそれぞれは中規模ですが、両方合わせるとかなり大規模な人数のオーケストラになります。第1オーケストラと第2オーケストラが左右対称に配置され、それぞれ同じ人数を要します。第1ヴァイオリンx10、第2ヴァイオリンx9、ヴィオラx8、チェロx7、コントラバスx5という構成のオーケストラが一つのユニットです。特筆すべきはチェロ、コントラバスの多さでしょう。チェロが全部で14人というのはとても多いですし、コントラバス10人なんてそうそうお目にかかるものではありません。曲はとても快活で古典的魅力に富む音楽なのですが、この編成の大きさがレパートリー定着を妨げているのかとすら思えます。人数指定が厳密ですが、この曲の前年に発表されたヤニス・クセナキスの『メタスタシス』のように弦楽セクションを極端に分割して用いるということもないので、各声部の最大分割は2声までですので、少しオーケストラを縮小して演奏することもできそうですし、今日のオーケストラ運営の現状に適っていそうです。まあレパートリーに定着しきらないのは、オーケストラのサイズの問題だけではなさそうですので、その辺りも検討していきます。
第1楽章はアレグロです。まさに新古典主義という趣の曲で、ヒンデミット風の4度と2度の組み合わせを多用した楽想が、2つのオーケストラで対位法的に呼応しながら展開していきます。冒頭の主題は第1オーケストラの全合奏であたかもモーツァルトの交響曲の開始部のようにユニゾンで堂々と主題提示が行われます。高音から下行する主題の着地点から、楽器ごとに上行・下行する素早いパッセージと共に曲の幕が開きます。第2オーケストラが受け継いでトッカータ風の疾走する16分音符のメロディーを演奏し、そこに第1オーケストラが冒頭主題を被せてくるので、第2オーケストラは伴奏型へと姿を変えます。このように2つのオーケストラの異素材の呼応が中心になって曲は展開していきますが、もちろん両オーケストラが同様の音楽を同時に演奏する箇所も挟まって、2群のオーケストラならではの立体的な響きの交錯と全合奏による音圧の充実をうまくコントラストとして構成している音楽です。響きの設計も秀逸で、とりわけその素晴らしさは全合奏の時に特徴的です。まず、全合奏の箇所でも同じ音をユニゾンで弾いている声部がないのです。そして、16分音符の素早いパッセージでは、高音部担当のオーケストラが自在に入れ替わって、左から聞こえていた旋律線がいつの間にか気付いたら右から聞こえているというような仕掛けがあります。これは高速パッセージで複雑に対位法的に絡む書法だから効果的ですが、強奏の音がじっくり伸びているような箇所では聴衆から見て右側に配置された楽器群はサウンド・ホールが客席を向いていないので不利です。このような箇所ではセロツキはしっかり第1オーケストラを高音部に置きます。快活な楽想に相応しいオーケストレーションで、見事に立体的な響きが、自然に耳に届く工夫がたくさん見られる好感度の高い音楽でした。特殊な奏法は何も用いませんが、運弓の指定や弓のどこを使って弾くかなど、基本的な音質をコントロールする指示は丁寧に書き込まれています。
第2楽章はアダージョで、古典的な緩徐楽章が置かれます。第1オーケストラの第2ヴァイオリンから曲が開始し、4度を下行するモチーフが奏されます。チェロが受け継いで4度を上行していくモチーフで応えます。これだけ擬調性を感じさせる書法はあまりにもヒンデミット的です。筆の達者具合もヒンデミットを意識しているように感じます。少しずつ楽器が重なっていき、ゆっくりとした時間の中で全楽器が出揃うと、音域の拡張が起こります。第1オーケストラの高音楽器群がどんどん高音へと上昇していき、第2オーケストラの低音楽器群はますます低音を拡張していき、弦楽合奏の醍醐味とも呼べる大きな響きが生まれます。そこからは旋律に細かな装飾的な音符が加わり、畳み掛けるようにな32分音符を奏したところでハッと息を飲む瞬間が作られるのです。そこからロングトーンの旋律ゆっくりと減衰していきますが、初めて伴奏にトレモロが現れてニュアンスたっぷりに減衰していくのです。どんどん弱まっていく音楽は、段々と各楽器が弱音器を付けて演奏することで神秘的です。第2楽章の冒頭の音の選定があまりに即物的で驚いてしまいましたが、曲が進行していくと気になりませんでした。逆にこの楽章は和音の選び方が素晴らしいと感じました。とくに後半、小休止の後にヴァイオリンとヴィオラが2オクターブのユニゾンでG-D-A-Es-F-F-Fisという旋律を無伴奏で演奏するのですが、到達したFisで和音が添えられます。この和音はバスからF-E-A-Eというシンプルなものですが、このEの長9度上に旋律のFisが鳴っていることで、びっくりするような美しい響きになっています。他にもドキリとする和音が散りばめられていて、セロツキの耳の良さを確認しました。
第3楽章はヴィヴァーチェ、最も速い楽章です。疾走する楽句によるトッカータのような趣で、次々に変わっていく自由な楽想が魅力的です。この楽章もヒンデミットみたいな音の選び方が散見されるのですが、こちらはアクセントなどのアーティキュレーションに少し民族色があってバルトークのような味わいもほんの少し感じました。しかし民族音楽的アーティキュレーションはほんの少しでやはりネオ・クラシカルな佇まいの中にある音楽です。この楽章のとりわけ面白い仕掛けは、2音や1音からなるごく短いモチーフや音を各楽器に割り当てている箇所がたくさん出てくるところです。断続的、点描的に聞こえそうかもしれないと思うような楽譜の見た目をしているところでも、パズルのように上手く組み合わされて、音楽の疾走感、フレーズ感が失われないように書かれています。おそらくライブ演奏で左右対称配置のオーケストラの面白さを最も強く感じる楽章かもしれません。おそらく第1楽章は左右から音が来るコントラストを余裕を持って楽しむ感覚で、第2楽章では弦の響きに包まれる感覚、最後の楽章では目まぐるしくステレオの渦に呑まれる感覚なのではないでしょうか。
私はこの作品の持つ快活さがとても好きで、今でもライブで演奏されてほしいとよく思います。しかし、何度も文章中で書いたように、この作品は成立した時期を考えるとあまりにも古典的です。ヒンデミットの影も見えすぎます。だからといってこの音楽は魅力的だと思うのですが、プログラムを決める際にこういった要因は足枷になるのかもしれません。立体的な響きを上手く仕込んでいく態度は単純に新古典的であるとだけは言えないかもしれません。響きの空間性を作曲家たちが強く意識し始めた頃に成立した作品です。セロツキはこの後いくつも楽器の様々な空間配置を試みていきます。ただ、初期のこの作品の持つ古典的佇まいから響きの空間性を考えた時に思い起こすのは、シュトックハウゼンのそれではなく、ブラームスやチャイコフスキーのオーケストレーションに見られる両翼配置を生かした空間性にも思えるのです。私は音楽を新しさや古さで考えるのが好きではないので、どちらでも良いし、どちらも良いし、シンプルに『シンフォニエッタ』の実演に触れる機会があればと願うだけなのですが…。
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