220623-28(4)幼少期の自宅周辺
まだまだ2日目。花北→広峰小学校周辺と進み、いよいよ当時の実家付近へ。
1〜12歳まで住んだ家(現在空き家)ここは元々母方の祖父が別宅として所有していたものなので父的にはずっと自分の家を持つまでの仮住まい。なので子供の頃からモデルルームにはものすごく頻繁に行ってた。そしてバブル崩壊後まだ生活レベルはバブル状態の崖っぷちでいよいよ父設計の家を新築し中学を転校、その後は景気も徐々に悪くなり俺の上京後に家族は解散するのですが。
この駐車場に縦に2台、塀のギリギリまで斜めにもう1台突っ込んで常時3台置いてた。
野里駅のサムネからスタートしているが(3)の最後の地図で言うと広峰小学校よりさらに左側なので直接ここから鉄道に乗る機会はほぼ無かった。
この(4)は住宅地ばかりなのであまり経路に沿って細かくは載せられないけど、これは自分が通っていた広峰幼稚園の裏あたり。私有地なのか当時はもっと障害物感が強くて一番最初に乗った自転車ではかなりの難関スポットだった道。
北平野南の町育ち。これは公園の住所
子供の頃、花火をやろうとしたがライターが見つからず、9V電池をショートさせて火がつかないか色々試した(あかん)
何があった
もっと自信もって
保育園バスはこのあたりで待ってた
当時はとても急坂だと思ってた土手から自宅に続く道。
何となく三角公園と呼ばれていた公園。ゴミを捨てに来たり町内の祭りが開催されたり。
いつからか砂場が埋められ御神輿倉庫になってしまったし他にも物置きだらけでそういえばブランコや滑り台も無い。画像左側の家の塀と平行に滑り台があって、右側にブランコ、中央奥が砂場だったのに。
当時無かった神輿倉庫なのに壁にはどこかから移植したらしい大昔の消化器入れが取り付けられていて歴史が歪んだ感じする。恐らく神輿倉庫は1990年前後くらいに作られているはず。
自分で撮った写真を見直すまで目の前に居てもクリーニング屋だと思っていた。
サクセス。ちなみに向かいの家は同級生なのだが表札は当時のまま。他にもここ〇〇の家だったよな、、と見るとそのままの名前の家は結構あったけど誰にも遭遇することはなかった。
確かこの建物前にコスモスが置いてあって、どうやら投入口にガムでも詰まっていたのかよく100円玉が戻らなくなっていた。悲しい。
いつかここでピアノを習うようになるのかなと思っていたら空手の道場に入れられたのだ。
小5〜6くらいに通っていた塾。一切勉強しないで中で講師を巻き込んで遊んだりする事もあって本当に今思うと他の生徒にも申し訳なかった。
城北新町方面へ。その昔、床屋の息子だった保育園から中学まで一緒だった同級生は今同じ場所で美容室、さらにその向かいで床屋をやっているらしい。恐らく夫婦でそれぞれ。
野里って地名、フラットに見るとすごいよね。プラレールとかの駅に書いてありそう。都会←→野里 みたいな。
この景色そのまま。
よく喘息で診てもらってた病院も綺麗になってた。
ところで完全に梅雨の予定で雨の心配ばかりしながら来たら、この日あたりのワイドショーで関東は異例の梅雨明けとか言ってて、雨も降らないまま梅雨が明けてしまった。姫路も曇ったり晴れたりだったけど雨は一切降らず、この日も12km歩くにはあまりにも暑くて昔ウエルマートとブックバーンがあった場所でコレ買った。
兄の同級生の実家だった場所。当時は写真館と現像とかやってるお店でうちの写真は基本的に全部ここでやってもらってた。さらに隣には自分の同級生も住んでた。
播磨の里。とっくに無いのかと思ってたら普通に営業してた。できたばかりの頃よく食べに来た。
立ち寄った記憶はないけど当時のままの景色。と画像を眺めていたら、まだ深夜営業のコンビニなど無い頃、父方の祖父母が東京から来た際に夜遅くにお酒を買いに来たような気がしてきた。
反対側から花北方面に。ここも完璧に当時のままの景色
元ダイエーの裏側。この駐車場もオープン当初めちゃくちゃ車が行列してた。
播但線の野里駅。去年だったか全国区ゴールデンのバス旅番組で急に出てきてびっくりした。
播但線 野里駅は先述のような理由で鉄道の駅としては最寄りではあるけど恐らく10回も利用したことがないと思う。
何それPUMA?反転して見比べたら予想以上にPUMAでした。
暑い暑い
一貫楼の焼売と豚まん
母らがお土産として買ってきてくれたもの。
あと、深夜に鍋の蓋とったらずっと食べたかったコンニャク捻ったやつがあったので無限に食う。
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