私はおみゅりこ。です
誰にも感知できない嵐のような感情の荒れは、また静かに去り痕跡だけを残します。日常の中の空っぽな【 凪 】として。
夏、草むしりに使った麦わら帽子に一瞬目がいきました。みなさんも、その一瞬を『なんとなく』で済ませず意味を考えてみるのも……いいかもです。
あれは わたしだ
そんな脳内音声が流れます。
棚の上部にひっかけられた帽子は、はたして私なのでしょうか。繰り返し使える代物なのに、あたかも使い捨てのように忘れ去られているのが……似てる?
これまた気まぐれのように、涙腺が疼きました。風邪ひき始めのクシャミのようです。そうですねぇ、草むしりの最中に家族と交わした、覚えのない言葉や雰囲気が、今の身に少し染みました。
人は 探します
生きてる意味を
――しかしです。
そういうのはある種の受動性と、見逃さない意識だけが必要かなと、今思いました。諸条件が偶然か必然か揃い、麦わら帽子を見ました。その前に電気信号が私の中に走っているのです。
生物と世界のカラクリの中で【 不図 】――が起きる。そして人体が行為する。それだけです。だから私は積極的に生の意味を探るのを一旦やめようかなと思います。これも、凪の功績です。
考えてみてください。
押し潰されそうな不幸が起きた時、私たちはまず最初に不図を感知しようと努めるでしょうか。それよりも、どこか、レールのような、おおよそ間違いないであろう解決を引っ張るのでは? 死への弔いの歴史も、蓄積と模倣のやり取り。
ですが世界は、模倣程度では解消できない不幸で溢れています。そのような人が眼前に居たら、きっと言葉を失うでしょう。つまり、ナニカの模倣など意味を成さないと強く自覚しているのです。
歴史が沈黙する出来事に、ただのイチ個人がどうするのでしょう。
【 凪 】は幸福です。
は
代え難い。
あぁ、大きな不幸に対する対処を考えていませんでした。あの夏の帽子が、いつか私に力を与えてくれたらいいのですが。
そして信じるしかないですね、『不図』は、いかなる状況にも偏在していると。五感の大体を占める視線には、言い知れぬ意味があると。