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ままならぬ欲求/SNS

なぜ『こんな事を感じている私を見て』のような人間が散見されるか。媒体か、教育か、生育過程か、国か。

昨日も家族が知人のInstagramを見せてくれた。片手に持ったワイングラスと注がれたシャンパン、状況を表す背景が写真におさめられていた。

私がたまに読むnoteの方もこのようなタイプで、自分の身の回りで起こる大抵の事に価値があると勘違いしているのだ。
そしてソレは面白く、公表に値すべきで、3歳児の如く『マンマ❗️ マンマ❗️』と気を引こうとする。

よちよ〜ち😊

没個性化を狙う事自体、長い目で見ればアリだとは思う。利他の行為の先に、それでも残るぼんやりとした『温度や色』こそが個性だと考えるからだ……が、安易な表現(さっきのInstagramとか)の先には何が待つか。

……おそらく何の想定もなされていないと思う。

私が文章での表現の先に何を見ているか――に焦点を絞った場合、途端に胡散臭くなるので避けたい。だがソレは神社に行って静かに手を合わせる行為と似ている。

まず【理性】を心の余計な付着物として捉えている。文字は【賽銭】だ。理性を小銭に変換し、賽銭箱に投げ込む。当然見返りは期待しない。この真逆を行くのが承認欲求に取り憑かれたSNSマンではなかろうか。

【その場合】

【欲求】は行動の動機。そのまま出しても構わない。てゆーか何が悪いん? 多様化の社会だからどこまでも【ワガママ】になっていいだろう? 個は皆、重んじられるべきだ。見返りかどうかは知らぬが、安易だろうとどうだろうと不特定多数に公表する権利がある。それを行使しているだけ……文句は?

いや、文句などない。SNSの発信先の相手がママのフリをした幼児かもしれないが、そこは目をつむろう。沢山よちよちしてもらいなちゃい。賛同を得たら、きっと心の霧も晴れるだろうし、ハイハイの速度も上がるだろう。

人類史が生み出した『競争』という概念がなぁ……

noteで見応えがあるのはそうだな――私と同様の文句タレの文句ぐらいだな。安易ではなく秩序を持った文句というのは、そのまま『問題提起』でもある。
だが近寄りがたいのでスキもコメントもしたことない。

(`・ω・´)


翻って状況説明程度のワイングラスに、私は何を思えばいい? 表現物は『静か』であるのが理想だと考えるが、感じ取れる熱量すらないのはいただけない。食卓で鍋でもつっつきながら話しなよ。

一応想像してみるが、さっきのInstagramの人って多分『なんか人生つまんね〜な〜』だと思うんです。
数学者の岡潔氏が『人には表現法が一つあればよいと思っている』と書いている。完全同意だし、ソレさえあればいちいちつまらない写真を不特定多数に見せようという『発想』すら湧かない。

『なんかつまんない』の対処を『なんか/なんとなく』で済ませているサイクルがいかんのですね。こういう人は、たとえ夢を持ったとしても常に他人の目を意識しながらじゃないかな。

現実にも沢山居るだろ?
『いや、自分で決めろよ』って事柄を い ち い ち 聞いてくる人が。

……バカが、墓穴ってのは予め掘りまくっとくもんだよ。墓穴を掘るスコップすら買ってないビビリが多すぎる。アンチ・キャンセルカルチャーの旗でも掲げるか❓

とはいえ、炎上等のもたらす弊害はすっかり定着した時代だろう。お江戸の野次馬精神はこれからも受け継がれるだろうけど。



私がいかに『何を書かないか』を意識しているか、想像してみてほしい

🔔『素直に言えよ、文句だらけの人生だって』



よく他人のnoteで『こんにちは、私の記事にスキをありがとうございます🥰(完)』と、話題に無関係なコメントをしてる人を見かける。

無作為に愛想を振りまいてたら『その程度の事しか言えない人』が集まると、なぜ理解できないのか。それとも、ここから素敵なストーリーでも始まるのかね。残念だが私は前置きの長い人は苦手なんだ。

損得じゃないが、そんな人が人生に関わって……嬉しいか❓

【悪いコメントの一例】

○○さん❗️ はじめまして❗️😁 コメントありがとうございます‼️
確かに私も○○だと思いますね❗️
コメントありがとうございました‼️

うるせぇ

意見なき者無垢な戯言振り回す
社交の事例を見て学ぶ
空白の台本に今日も目を通す

文学者おみゅりこ。 より

🔔『そうですか……』

よし、今日も文句発散欲を解消できたぞ😇⛏

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