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内なる声(直球)

よく、このように表現される。

人は物事を都合よく解釈しながら生きていると

タチの悪い想像ばかりしている人には悪いが、私は極めて楽観的に人生を捉えている。その方が気持ちがラクだからだ。

最悪の未来を想定し、備え、怯える。
周到な準備にしたたかな勇気が伴うだろうか。
革命の炎はいずれ消えると頭で了承しつつ、勝利の旗印を編むのか。
莫大な金をシェルターと私兵を揃えるのに使うのか。

どのような選択を取るにせよ、見たい未来を見ようとする意志が今の行動を作り上げる。
そして夢に向かう者は歓迎され、より強く地面を踏みしめるだろう。

だが
その一歩一歩が
小さな声をかき消す足音だとしたら

……こんなに悲しい事があるか。



私たちは、当然に憂う。

明日も太陽がのぼり、身支度をし、雑踏の匂いを嗅ぐからだ。
自身の生み出した夢であれ、誰かの要請であれ、仕方ないという諦めでさえも、未来だ。

望みが【死】だとしても、その寸前まで解釈の枝は伸び続ける。真っ暗な断絶を咀嚼しようと首を絞める。

マーク・トウェインが『人間の行動原理の根底は利己的』と書いた。機械運動の如く、解釈の枝は自分の為に伸び続ける。いくら取り繕おうとも。

なら、この指先を握る動作ですら、真っ黒な枝に規定された結果なのか。人に優しくするのも、涙を流すのも、繁栄の為身を捧げるのも、愛や信仰すらも。

人はなぜ、墓を拵え祈るのか。生きて、明日の太陽を拝む為なのか。心の区切りは、誰の為にある。

やはり全ては……

ならば冒頭の通り、人は自分の為に自分に都合のいい解釈を生み出し続けているのだろう。
その解釈の先の行動が一般的に見て不合理/不利益だろうとも、本人の根底には利己的なものがあるのか。

絵画のような献身も、先に美しいという錯覚があり、後から利己心を知覚する。ははは。



周囲の眼光に怯えながら、黒い枝の中をかき分け進む。森の先には生き物の死滅した遠浅の海があり、とうに夕日は沈んでいた。

太陽は、どこから昇るのだったろうか。

集めた細い枯れ木で頼りない火を焚く。止水に映りもしないその光をひとり、じっと眺めている。

そんな瞬間の話をしたいんだ

なぜなら人は覆い隠すからだ……内なる声を。
どうにも私には『経験と知識の総体の中』にソレがあるとは思えない。
親の言葉、学校の勉強、友人との距離、先人の知恵……様々を取り入れながら解釈し、未来を想定し進む。

これは『そうせざるを得ない』という当たり前を含んでいるように思えるだろう。

……たとえば『歌を聴き琴線が揺れ動き心が震えた』としよう。これは何故だ❓

一体どこ産のナニが震えている

何らかの過程(経験)を経て培われたナニカ……その材料にどこまでも他人の思想が混ざっていたら。それは本当に本当の心の震えと言えるだろうか。

私はただ見たいだけだ。
手垢だらけのすりガラスの向こうにある光を。どのような前提も解釈も受け付けない声を。

見ようとしないから見えない。
なら内なる声も――

聞こうとしないと聞こえない





手段の話に移ろう。

……

ごめんわからん

🔔『おい』

そうだな、たくさん書いて『おめぇどこ産だよ? あ⁉️』と確認する。他人っぽいなら捨てる。自分っぽいならギリ残す。

うらごし完了‼️

🔔『う〜ん……』

まぁ……その……

🔔『……がんばれ』

うん……



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