線から始める(3)ベースライン
Stop! In the Name of Loveのベースラインにあっと思った—Remember me—1本の線が辿らなかった場所を何で辿る/埋めるか?
Stop! In the Name of Loveのベースラインにあっと思った
1960年代にモータウンレコードのソングライティングチームとして数々のヒット曲を生み出したホランド=ドジャー=ホランド(Brian Holland, Lamont Dozier, Eddie Holland)のインタビュー記事をガーディアンが掲載していた。記事では私がまだ生まれてなかった頃のヒット曲が数曲回顧されていて、読みながらリンクをたどって歌が聴けるようになっている。
その中の、スプリームス(The Supremes)の『Stop! In the Name of Love』を聴いて、あっと思った。キャッチ―な出だしのベースラインがこうなっている。
Am-Gというコード進行だけど、2小節目はルートの「ソ」ではなく、「シ」になっている。歌詞のちょっと切迫した感じ(別の女のもとに通う男に「ちょっと考えなおしてよ」と呼びかけている)にベースラインが呼応していると言える。
クラシックでは切迫感を出すためにベースラインを上行させるのはよくある。上行させただけで切迫感が出るというわけではなくて、和声やリズムや繋がり(文脈というか)も必要だけれど。ベートーヴェンにはしつこくやる例がある。
けれど、このスプリームスの歌の場合は音階の階段をたったひとつ昇るだけだ。
3-4小節目はF-Gというコード進行で、ベースもルートを弾いている。Amで始まるけれど、Cメジャーのキーが強調されると言える。2小節目のベース「シ」は普通「ド」に進みそうだけれど、たとえば
というような処理はしない。ましてや
というような息の長い進行を作ることはしない。かと言ってAm-G-F-Gの進行を普通に
とやるわけでもない。では不自然かというと、別に不自然ではない。私にはこのベースラインがこう言っているように聞こえる。
あくまでオーディエンスが一緒に口ずさんで踊れる曲でなければいけない。歌い手のキャラクター(当時まだ20歳前後のダイアナ・ロス)にも合っていなければいけない。飽きっぽくてろくに歌詞もメロディも聞いていないオーディエンスに歌を覚えさせなければいけない。
この歌が「小さな悲劇」についてのポップソングであることを最初の2小節で示す。そのためにヴァース(歌詞の主人公の状況を説明する部分)とコーラス(決めセリフ)の順番を逆にしてコーラスから始めてしまう。最初の10秒で聞き手をつかむ(ビートルズの『She Loves You』などもそういう構成だ)。このベースラインは最初の2小節でそのコーラスに、この歌がこの歌でしかないという特徴を与えるのに役立っている。
Remember me
同じモータウンでも、後のスティーヴィー・ワンダーだと狙いも周りを取り巻く事情も違ってくる。歌を通じて言いたいことがもっと複雑になる。もっと深刻なことやパーソナルなことや、もしかしたら政治的なことも言いたい。あるいはそういうものがたとえヒットチャート上位に来るような歌にも求められてくる。ターゲットオーディエンスが違うとも言える。
自分を裏切る友人たちを去ってどこまでも遠くへ(この後歌のキーも5度圏をずっと遠くへ行ってしまう)。ベースラインは音階を上るけれど、切迫感というよりは、地上を離れてどこかに行きたいという感じを表しているのだろう。マイケル・ジャクソンの葬式でも歌われた歌だ。こうなってくると、パーセル(Henry Purcell, 1659-95)のオペラ『ディドーとエネアス(Dido and Aeneas)』で主人公が死ぬときに歌う『When I Am Laid in Earth』に雰囲気が近くなってくる。ベースラインの方向は逆だけど。
先日亡くなったジェシー・ノーマンが歌う映像がYouTubeにある。この曲では同じ5小節のベースラインが11回繰り返されるのに、メロディーがずれたり和声に変化が付けられているので繰り返しをあまり感じさせない。美しいというだけでなく、その造りが面白いのでよく分析される曲だ。指揮者クリストファー・ホグウッドによる講演がYouTubeにある。
アリアは2部に分かれる。When I am laid in earth, may my wrongs create/No trouble, no trouble in thy breast;と歌われる部分が前半、Remember me, remember me, but ah! forget my fate./Remember me, but ah! forget my fate.が後半。それぞれが2回繰り返される。前半は単純な繰り返しなので通常リピート記号で済まされる。下の譜面(実際には弦とハープシコードで伴奏される)はベースのフレーズの頭に番号を振る都合上、リピート記号は使っていない。後半の繰り返しがない楽譜もある。繰り返される場合、2回目は本来より1小節遅れて入ることになる(仕方ない)。but ah! forgetのところで辻褄を合わせている。
前半も後半もひとつのフレーズ(歌詞2行分)の中で2回ベースが繰り返される。その2回目のベースのフレーズの冒頭を目立たせないようにすることが必要になってくる。また前半と後半の間に差をつける(前半と後半では旋律の構造、動向が違う)のもベースに注意が行き過ぎないようにするのに役立つだろう。
メロディの頭とベースの頭がずれるようにすることも重要だ。When I amはベースのフレーズの最後の音(強拍)に合わせている。次の行の頭No troubleはベースのフレーズの最初の音(弱拍)に合わせてあり、アクセント(前半のメロディのピークでもある)が置かれている。後半のフレーズRemember meのReはベースのフレーズの最終音の手前(ドミナントの上)アウフタクトで入り、このフレーズは次のベースのフレーズの頭にまでかぶっている。最後のRemember meはベースのフレーズの途中IV+の和音の第1転回(C7/E)のアウフタクトから始まり、全体のピークを作る。
ベースのフレーズの冒頭の和声を変えるという手もある。前半When I amのところはI(Gm)の和音だけれど、No troubleのNoはVIの第1転回(Eb/G)になっている。後半forget myのgetのところでII7の第3転回(Adim/G)になっている。
歌詞も重要だ。may my wrongs createとNo trouble in thy breastは文法的にはひとつの文なので、may my wrongs create (何をcreateするの?)No(あ、)trouble(そうか!それならわかる)というように歌詞に気を取られるのでベースに注意が行かないということもある。大雑把な分析は以上。分析は退屈かもしれないけれど、それで音楽が退屈になるわけではないのがいい。
失恋も死もそれだけでは悲劇にも喜劇にもならない(本人にとっては大事でも)。ひとつの音、ひとつのコードだけではドラマにならないように。恋も死も物語化されはじめて思い出されるものになる。物語を完結させるお膳立てが整ったとき、Remember meとディドーは歌う。
1本の線が辿らなかった場所を何で辿る/埋めるか?
Stop! In the name of love(これは悲しい歌です)before you break my heart(あくまでエンターテインメントですが)とベースラインは囁く。but ah! forget my fateとディドーは歌うが、ベースラインは下降するフレーズを繰り返し、それが逃れられない運命であることを語る。
メロディとベースラインはそれぞれ違うことを言いながら互いに補足し合う。ウディ・アレン『アニー・ホール(Annie Hall)』の有名な字幕付きシーンのように。でも1本の線を補足する方法はもう1本の線(ベースライン)によるものだけとは限らない。
視覚的に説明すると—前回の投稿で紹介したクレーの『教育スケッチブック』の、本文冒頭の見開きは上のようになっている。図1では1本の線が当てのない散歩に出る。図2では別の線が元の線を、図3ではたくさんの線(面)が元の線を補完する。図4では1本の線が自分で自分を補完するように動く。図5ではどちらかが主従ということなく、2本の線が描かれていないもう1本の線の周りを巡るように進む。
音楽とのアナロジーで言えば、図1はモノフォニー、図2はポリフォニー、図3はモノディー、図4はバッハの無伴奏器楽曲のような、1本のメロディでベースも和声も表してしまう、あるいは2本以上のメロディが1本のメロディに含まれているコンパウンド・メロディ(compound melody)、図5はヘテロフォニーか。
これらの分類は何か固定されたスタイルとして理解するよりも、いろいろな線の組み合わせの基本的な様態、として理解したほうがいいと思う。特にコンパウンドメロディはほかの様態の中にいくらでも現れる。ヘテロフォニーも例えば伴奏付歌曲(モノディ)で楽器が声によるメロディラインを装飾的になぞるときなどによく現れる。コード楽器が歌を伴奏しているところにカウンターメロディが重なることも多い。またモノディでもベースラインは結局第2のメロディぐらいの重要さが与えられることが多いだろう。
次回も線の散歩を続ける。
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