無敵の人と女子高生
あらすじ
『彼はもう救われた。次はあなたの番だ。』
犯行現場に不可解なメッセージを残す〝無敵の人〟は、この三ヶ月間で二十人を病院送りにした凶悪犯で、二葉の兄はその最初の被害者だ。〝無敵の人〟に襲われた被害者は、どういうわけか全員が軽い記憶障害になり、〝無敵の人〟のことを思い出すことができず、警察はその足取りをつかめずにいた。そんななか、意識が正常に戻った兄からヒントを得て、二葉は〝無敵の人〟の正体を突き止める。しかし、犯行現場に居合わせてしまった二葉は、〝無敵の人〟に襲われ、他の被害者同様に記憶を失い、自分が事件を調べていたことすら忘れてしまう――――。
無敵の人と女子高生
はい、どうぞ。そばかす顔の彼女は、薄水色の小さな紙を差し出す。そこには手書きで、彼女のクラスと氏名、それに〝症状〟が記されていた。
『 2年B組 出席番号2番 一二二葉 症状: いつものやつ 』
通称〝水色きっぷ〟と呼ばれるこの紙は、授業を受け持つ教師や担任が持ち歩いているもので、保健室での休憩を許可する証として、教師から生徒に渡すものだ。保健室を生徒の溜まり場としないため、例え放課後であっても、緊急時を除き、原則としてこの紙を持たない生徒を保健室で休憩させない決まりになっていた。
受け取った〝水色きっぷ〟から目を逸らし、桐谷真理愛はフウッと小さくため息をつく。真理愛がその紙を机に伏せて、それから何か言い返そうと振り返ると、すでに二葉は真理愛に背を向け、ベッドの方へと歩き出していた。
彼女の動きに合わせて、桃色のインナーカラーの入った黒髪がふわりと揺れる。二葉が背負っている鞄は学校指定のものとは違っていて、白十字の描かれた黒棺のシルエットの本体に、コウモリを模した羽のアクセサリーが生えていた。
二葉の実家はそこそこ裕福な家庭で、学校外の塾や習い事が土日を含めて週に四日ある。それゆえ、部活動には入っていないが、習い事の日以外は暇を持て余していて、放課後になるとよくこの保健室に現れた。
「今日はどこか具合が悪いの?」
真理愛が尋ねると、えー、知りたいですかぁ、と二葉は顔だけ振り返り、その細い指を唇に当てる。それから、フフッと彼女は意味深な笑みを浮かべた。
二葉がこの温守高校に転校してきたのは、真理愛が短大を卒業し、養護教諭として採用されて一年が経つ前で、もうかれこれ四ヶ月以上の付き合いになる。
「用事がないなら帰りなさい。今日はもう、私も上がるつもりだから」
真理愛はそう言いながら、二葉の来室日時をパソコンに打ち込む。すると、用事ならありますよ、と二葉は自信ありげに答えた。
「今日は目の保養に来ました。美しいものを見てドーパミンを量産して、勉強で疲れた脳を癒そうと思って」
二葉は笑顔でそう話し、ぴょんと軽く跳ねる。その小ぶりなお尻をベッドに預け、それから青緑色のプリーツスカートをはたいた。衣替えしたばかりの白を基調とした半袖のセーラー服は、それをまとう彼女の若さと相まって、よけいにまぶしく見える。
そういえば、と二葉は真理愛をじっと見つめながら切り出す。
「私と同じ二年生の、二原くん。先生に告白してましたよね」
二葉に指摘され、えっ、と真理愛は顔を引きつらせる。
「昼休みにお昼寝しようと思ってここに来たら、二人が真剣な顔で話し合ってるもんだから」
おかげでお昼寝し損ねました、と二葉は笑う。真理愛は顔をしかめて、あなたね……、と責めるようにつぶやいた。
「ああでも、盗み聞きは悪いなと思ったんで、ちゃんとすぐに立ち去ったんですよ」
二葉は少し顔を上げ、フフンと鼻を鳴らしてどこか自慢げに話す。それから真理愛に視線を戻し、でも、と付け加えた。
「やっぱり気になるじゃないですか。何て答えたんですか?」
くりっとしたその双眸を輝かせて、二葉は真理愛を見つめる。
真理愛は目を伏せてため息をついた。
答えるまでもないことだった。しかし、もしここで真理愛が答えなければ、その沈黙が二葉の好奇心を刺激する。いつもみたいに「ねえ、なんでなんで。何で答えてくれないの?」と質問責めにしてくる二葉の姿が、目に浮かぶようだった。
「丁寧にお断りしたわ」
真理愛がそう答えると、えっ、と二葉は驚いた様子で声を上げる。
「なんでなんで!」
二葉はベッドから身を乗り出し、お決まりの台詞を吐いた。真理愛がそれに答えるよりも先に、だって、と二葉がまくしたてる。
「サッカー部のエースですよ。イケメンですよ。親が医者のお金持ちですよ!」
「そういう問題じゃないでしょう。私は教師で、彼は生徒。そんな目で見たことはないし、これからも見ることはないわ」
ふーん、そういうもんですか、と二葉は鼻で相槌を打ち、どこか納得いかない様子で小首をかしげる。それから、話は変わりますけど、と二葉はつぶやき、真理愛の足元へと視線を落とす。
「先生って、アシンメトリーが好きですよね」
真理愛の履いている黒いヒールは、左足にだけ足首を一周するアンクルストラップがついていて、左右でそのデザインがわずかに異なっていた。真理愛が着崩して羽織っているその白衣も、いつも利き腕の左腕だけ少し多めに袖を捲っている。
「そういう、こなれた感じというか、自然なテイストのオシャレがまた、みんなの目を惹きつけちゃうんですよねぇ」
二葉は一人納得してうなずきながら言った。
本心でそう思っているのだろう。二葉の口調には嫌味がない。真理愛は白衣の襟を正し、ありがとう、と苦笑して応える。
「でも、現役の女子高生に言われても、実感が湧かないわ」
年齢だけでいうと、真理愛はもう二十二になる。
温守高校は私立の共学だが、数年前まで女子校だった影響と、青緑色の特徴的なカラーのセーラー服を目当てに受験する生徒も多く、女子生徒の数は生徒全体の八割を超えた。若い女の子に囲まれるこの環境だと、さすがに若さには勝てないと自分では思っているのだが、その真理愛の思いに反して、就職してからの一年三ヶ月で、すでに何人もの生徒が真理愛に告白していた。
先生のことが好きです、いつも目で追ってしまいます、恋人になってください、と真理愛に想いを告げて迫ってくるのが、いつも男子生徒だとは限らない。同僚の教師はもちろん、備品を運んでくる業者の営業マン、ときには女子生徒から告白されることもあった。
「ファンクラブを持つお方が、何を言ってるんですか?」
二葉はそう言って、からかうように笑う。真理愛は顔をしかめて二葉を睨んだ。養護教諭はアイドルではない。ファンを持った覚えはないし、その存在を認めた覚えもなかった。
「それ、ほんとの話なの?」
真理愛が尋ねると、もちろん、と二葉は胸を張って答える。
「私が嘘つくわけないじゃないですか」
平然とそう話す二葉に、真理愛は沈黙を返す。しかし、二葉はそれを気に留める様子もなく、そういえば、と人差し指を立てて続けた。
「ファンの子から聞いた話によると、今年の誕生日プレゼントにはかなり気合を入れているらしいですよ」
二葉の話を聞きながら、真理愛は少し顔をこわばらせる。
それをありがたいと思う感情は、もう何年も前に失ってしまった。
真理愛を崇めるファンクラブの存在は、以前から、他の生徒からも噂程度には聞いたことがあった。二葉の話によると、初めに設立を言い出したのが誰なのかは、もはやわからなくなっているが、賛同した者たちでSNSのチャットグループがつくられ、最近ではクリスマスやバレンタインなど、四季折々のイベントごとに真理愛への貢物を用意することを計画していた。しかも、無断で撮影した真理愛の写真をグループ内で共有していたりするというのだから、真理愛からすればあまり気分のいいものではない。
学生時代から、真理愛にとって盗撮は日常茶飯事だった。だからといって慣れるものではないが、痴漢行為や過度なストーキング行為のような警察沙汰でもない限り、そのたびに注意したり相手にしていてはきりがない。
言い方は悪いが、ああいうのは害虫と同じだ。一匹潰したところで、またどこかから必ず湧いて出てくる。
真理愛の経験上、深刻な実害がないなら相手にせず放っておくのが一番だった。
養護教諭という今の社会的立場は気に入っているし、できるなら平穏に長く続けたい。
「ありがたいけど、お金のかかったものは受け取れないわ。まだこの学校で仕事をしていたいから」
真理愛は苦笑しながら返し、二葉に聞こえない程度の小さなため息をつく。
外資系の商社で働くイギリス人の父と、元モデルの日本人の母との間に生まれた真理愛は、性というものを意識し始めた頃から、自分の容姿が他人より秀でているという自覚があった。美しい、キレイだね、可愛いね、なんて言葉は、その頃から真理愛は毎日のように浴びていて、言われてうれしいなどという感情はとうに薄れ、波風立てないよう、うまくあしらわなければならない日常に辟易していた。日常生活では芸能人さながらにサングラスや帽子などで顔を隠して歩かなければ、ナンパしてくる男に邪魔されてまともに買い物もできない。
コンコンッ、とドアをノックをする音が聞こえて、桐谷先生、と言いながら教頭が姿を現す。淡いブルーのワイシャツにグレーのスラックスを合わせ、フォーマルな格好をした中年の男で、白髪を染めないままどんぐり帽子みたいな髪型にしているので、生徒たちは陰で教頭のことを〝脱色どんぐり〟と呼んでいた。
「随分前に発注したベッドだけど、やっと手配がついたみたいで、週末にでも入ってくるって」
あー、涼しい、と話しながら手で自分を煽ぐ教頭に、ほんとですか、よかった、と真理愛は椅子から立ち上がって答える。
「校長先生とも話したんだけど、自腹で買ってもらうのは悪いから、やっぱりこっちで経費で落とすことにしたよ」
「すみません、お気遣いいただいて。ありがとうございます」
真理愛が深く頭を下げると、いやいや、気にしないで、学校の備品だしね、と教頭は自分を煽ぐ手をいっそう早く動かしながら言った。
「ベッドって、二つあるのにまだ買うんですか?」
二葉がそう声をあげると、いやいやキミね、と教頭は顔をしかめる。
「うちは文武両道でしょ。部活動も盛んだから、急な怪我とか病気でベッドが埋まることもあるんだよ。二つじゃ不安だから、自腹でもいいので買ってもいいですか、って桐谷先生が提案してくれたんだ」
こんな生徒思いの先生そうはいない、と教頭はうなずきながら拍手する。真理愛は、そんなことないですよ、と首を横に振った。
「キミも元気なら、先生の手を煩わせたりしないで早く帰りなさい。保健室はコンビニじゃない。学生の溜まり場じゃないんだ」
教頭は二葉を指さしてそう言い残し、保健室を出て行った。あー、暑いなぁ、と廊下で嘆く教頭に向けて、べー、と二葉は舌を出す。
真理愛は苦笑しながら、ところで、と二葉に話かける。
「一也くんの調子はどう?」
真理愛にそう問われ、相変わらずですよ、と二葉は肩をすくめた。
一也とは二葉の兄のことで、この学校の数少ない男子生徒の一人だ。朱里とは年子で、学年でいうと一つ上になる。
「知ってます?」
二葉はベッドへ仰向けに寝転がり、天井を眺めながら尋ねる。
「また被害者が出たみたいです。今回もこの学校の関係者じゃなくて、まったく無関係のサラリーマン」
「それも、例の事件?」
真理愛が聞き返すと、みたいですね、と二葉が相槌を打つ。
「被害者は鈍器で頭を何度も殴られて、ほとんど死にかけた状態で発見されました」
真理愛はデスクのパソコンでニュースを検索する。二葉が今話したのとまったく同じ内容の記事が、一時間ほど前にネットに上がっていた。
倒れている被害者を発見したのは、河川敷で日課の朝ランをしていた男性で、犯行時刻はおそらく深夜。街灯がないその河川敷は、日が落ちてからはほとんど無人となるため、犯行に気づいた者や目撃者はいなかった。発見されたときの被害者は、足をそろえて両手を真横に広げ、身体を十字架に似せた格好で気絶していた。またしても〝無敵の人〟の犯行なのか――――。
〝無敵の人〟とは、ここ最近この辺りで話題になっている連続暴行犯につけられたニックネームだ。もともとはネットスラングで、自暴自棄になって見境なく問題を起こす人物のことを指すが、この犯人は無差別に被害者を選んでいるだけで、本当に精神が錯乱状態になっているのかまでは、まだわかっていない。
「山奥の駐車場とか、深夜の公園とか、いつも人気のない時間と場所を選んでます。しかも、これまでの事件と同じように被害者のスマホはバーナーで炙られてる」
間違いないですよ、と二葉はため息混じりに断言する。
ネットの記事によれば、被害者のスマホは画面を粉々に破壊された上で、基盤がドロドロに溶けてデータの吸い出しが不可能なくらい徹底的に焼かれていた。おまけに、これまでの〝無敵の人〟による暴行の被害者は、頭を強く殴られたせいなのか、誰一人として犯人のことを覚えていなかった。被害者が二十人もいて、その全員が生きているのに、犯人の足取りがつかめないのはそのためだ。
被害者がアルコール中毒になるほど泥酔していたわけではないし、脳震盪になるほど強く殴られたからといって、全員が都合よく犯人のことを忘れてしまうのも不自然だ。しかも、被害者たちから消えた記憶は犯人のことだけに限らない。彼らは事件が起きた日の、ほとんどの出来事を思い出すことができなかった。被害者が犯人と接触するまでどういう行動を取っていたのか、どこにいたのかということを含めて、思い出せた被害者は一人もいない。
あまりに不自然。あまりにミステリアス――――!
被害者のその謎めいた共通点は、評論家やコメンテーターの妄想力を大いに刺激し、犯人は宇宙人だとか、超能力者だとか、そういった憶測が飛び交い、誰も捕まえることなどできないという意味も込めて、いつしか〝無敵の人〟などと呼ばれるようになった。
「被害者の多くが、過去や現在進行形で何らかの問題を抱えていることがわかっています」
これまでの事件の被害者は、この三ヶ月間で実に二十名に上る。その中には、この学校の関係者も含まれていて、男性教諭一名、男子生徒二名が被害に遭っていた。そして、浮気や不倫、痴漢や盗撮、ストーカーや家庭内暴力など、被害者二十人の内の半数以上が、何らかの問題を起こしている。
〝無敵の人〟には、そういう不届き者を見分ける嗅覚か、誰が不届き者なのかを知ることができるネットワークがある。
〝無敵の人〟が現れ、二カ月が過ぎたころから、次第に人々の間で妄想が広がり、最近では〝無敵の人〟は『真の悪人から一般市民を守るヒーローだ』と神聖視する声まで上がり始めた。
「今回も『書き置き』があったみたいね」
真理愛はネットの記事を読みながら話す。
今朝発見されたサラリーマンの背広の胸ポケットには、手書きのメッセージカードが挟まっていた。
『 彼はもう救われた。次はあなたの番だ。 』
これまでの三ヶ月間に起きた暴行事件で、最初の一件を除くすべてに、〝無敵の人〟はいつも同じような文言のメッセージを残していた。
二葉はむくりと起き上がり、ねえ、先生、とつぶやく。
「犯人はいったいどんな奴だと思います?」
今から約三ヶ月前の四月二日、〝無敵の人〟の最初の被害に遭ったのが一也だった。何かの鈍器で頭を激しく殴られ、校庭の真ん中で気絶しているところを、早朝に出勤してきた教頭によって発見された。メッセージカードこそなかったものの、〝無敵の人〟による後の被害者と同じように、発見されたときの二葉の兄は、身体を十字架に似せた格好で倒れていた。
二葉が病院で見た一也の顔は、その原型がわからなくなるくらいに腫れていたが、頭以外に目立った外傷はなく、手足を拘束された痕もなかった。ワイシャツの胸ポケットが引きちぎられていたくらいで、その他に襲われて抵抗した際にできる防御創は見当たらなかったため、一也はほとんど抵抗できないまま一撃で気絶させられたと警察は考えている。
「なんで、一也を最初に選んだのか?」
疑問が尽きません、と二葉は口を尖らせる。
「一也は女好きで軽い性格ですけど、高嶺の花ばかり狙ったりして根本的に頭が悪いので、モテたことはなくて、彼女ができたこともありません。だから、たとえば浮気とか不倫とか、そういう問題とは縁遠かったはずなんです」
二葉は首をかしげて、眉間にしわを寄せる。
今のところ〝無敵の人〟の犯行で死亡した者はいない。個人情報を警察に調べられ、抱えている異性問題が明るみになることにより、辞職や退学を強いられた者もいるが、身体は回復して今も元気に生きているはずだ。
一方で、一也は事件から三ヶ月が経った今でも、一日のうちほとんどの時間を眠って過ごしていた。一也はいわゆる植物状態で、脳の機能回復は意識レベルⅡと呼ばれる状態で足踏みしていた。完全に意識がないというわけではない。ただ、物音に反応して瞬きしたりとか、握手を促すと握り返してくれたりとか、ほとんど赤子に近いコミュニケーションしか取ることができなかった。
病院で延命治療を続けた場合、長くて数年生き続ける者もいるが、植物状態になったほとんどの人間は半年以内に命を落とす。
「このまま寝たきりになんて、ならないといいんですけど。もしかしたら、一也だけは、事件のことを覚えてるかもしれないし」
根拠はありませんが、と二葉は話して苦笑する。
「最近はほんの少しだけど、前とは違った反応を見せてるんです。名前を呼んだら、見つめ返してくれたりとか」
二葉はそう言って、そうだ、先生、と思いついたようにつぶやく。
「もう一度だけでいいので、一緒にお見舞いに来てもらえませんか。いつも同じ人が会うより、刺激になると思うので」
二葉に頼まれ、それは……、と真理愛は聞き返す。
「事件の謎を解くため?」
真理愛が尋ねると、そうですけど、と二葉は平然と答えて首をかしげる。それから、真理愛の問いの意味に気づいて、ああ、やだなぁ、と二葉はつぶやき、首を横に振った。
「もちろん、心配してますよ。兄のこと。バカだけど、一応家族ですから」
二葉は苦笑しながらそう言った。
入院した直後、真理愛が二葉と一緒に行った見舞いでは、一也はただぼうっとして天井を眺めていただけで、真理愛に対しては何の興味も示さなかった。しかし、二葉がさっき、最近は前とは違った反応を見せていると言っていた。おそらく、それは回復の兆候で、一也の意識が元に戻るのは時間の問題だ。
きっと近いうちに一也は意識が元に戻る。
二葉やその家族は根拠なくそう思っているかもしれないが、真理愛にはその確信があった。そして、真理愛には、意識が正常に戻った一也に、どうしても確認しておきたいことがある。
「断る理由がないわ。可愛い生徒のためだもの」
真理愛は笑顔でそう答えた。
二葉はまだ事件の真相には気づいていない。もしかしたら、こちらから教えなければ一生気づかないかもしれない。
真実を知ったとき、二葉はいったいどんな顔をするのだろう?
ああ、ダメだ。まだダメだ。
真実を早く打ち明けたいという気持ちを、真理愛は必死に堪える。二葉が経験すべき絶望は、一也が受けたものよりも、さらに深刻であるべきだ。そのためには、できるだけ時間をかけて、私のことを信頼してもらう必要がある。
そうわかっていても、真理愛の脳内では妄想が止まらなかった。
悲しむだろうか、怒るだろうか、絶望するだろうか。
打ちひしがれた二葉の顔を早く見てみたいという欲望を、真理愛は懸命に堪える。
ああ、早く彼女に教えてあげたい。
一也を病院送りにしたのは他でもない。
二葉が理想の美人だと崇拝してやまない、真理愛だということを――――。
真理愛の勤める温守高校の校訓は〝文武両道〟。偏差値高めの私立の進学校で、大学進学を目指す普通学科と、プロのスポーツ選手を目指す体育学科に分かれていた。土日でも部活動のほとんどは休むことなく行われ、長期休暇は受験対策に特化した補習授業も開かれているため、夏休み期間であっても、学校に来ている生徒や教員の数は決して少なくない。
生徒が来ている以上、保健室を開けないわけにもいかないので、真理愛は夏休みもほとんど連日出勤していた。
夏休みが始まってすぐの土曜日の昼下がり、真理愛が愛車の赤いスポーツカーの前で待っていると、校舎の方から制服姿の二葉が駆けてくる。
「今日はよろしくお願いしまーす」
二葉はそう言ってぺこりと頭を下げ、それから額の汗を手で拭った。二葉は受験対策の集中講義に出ていて、さっきまでエアコンの効いた教室にいたはずだが、彼女のセーラー服には、すでに汗が滲んでいた。
「わー、かっこいいですね。左のサイドミラーだけ、白いラインが入っててオシャレ」
しかもこっちだけミラーが青い、と車を見ながらはしゃぐ二葉に、暑いから早く乗ろう、と真理愛は促し、運転席のドアを開けて素早く乗り込みエンジンをかける。失礼します、と言いながら、二葉は助手席に座った。
一也の入院場所は、事前に二葉から教えてもらってナビに登録していた。真理愛は学校から出ると、そのまま幹線道路を走って市街地の中心部を横切る。それから、バイパスを経由してトンネルに入り、山間部にある入院施設を目指した。
植物状態と医師に判断された患者は、最初に運ばれた病院での短期間の入院を経て、その後は退院して在宅介護か、専門の施設に転院かの二択を迫られる。二葉の家は大富豪とはいかないまでもそれなりに裕福だったこともあり、一也の場合は後者だった。隣町の山を切り開いた土地に建てられた大きな医療センター。一也は、今もそこで入院生活を続けている。
アスファルトで綺麗に舗装された広い駐車場に車を止め、二葉に案内されながら真理愛は目的の病室へと向かう。
見舞いに来て欲しいという二葉の誘いに真理愛が乗ったのは、善意や興味本位からではない。真理愛は自分の完璧な計画のために、今の一也の状態を確認しておく必要があった。
桐谷真理愛には秘密がある。
それは父方の桐谷家の血によって、先祖代々続く呪いのようなものだ。
桐谷家の女性は二十歳を境に、摩訶不思議な力を使うことができた。
最初にそのことを祖母から聞いたときは、いよいよお迎えが近いのだと思ったものだが、実際に真理愛が二十歳になり、祖母から教えられた通りに、当時しつこく言い寄ってきた男にその能力を行使し、祖母の話が本当だったと実感する。
真理愛は他人の記憶から、自分の存在を完全に消してしまうことができた。
被害者全員から犯人である〝無敵の人〟の記憶が消えているのは、真理愛がその特殊能力を行使したからだ。記憶から存在を消すというのは、単に真理愛の名前や姿だけが消えるわけではなく、その人物の記憶から真理愛に関連した出来事がまるごとすべて消える。もちろん能力を使った途端、その者の頭から真理愛に関する記憶が一瞬ですべてが消えるわけではない。およそ十数分かけて、食べ物を消化していくみたいに、ゆっくりと消えていく。この能力の効果で完全に記憶を失った者からすれば、例えば、真理愛と一緒に行動していたことや、最後に一緒にいた場所、真理愛に初めて出会ったときのことですら思い出すことができなかった。
真理愛がこれまで〝無敵の人〟として犯行に及んだ相手で、記憶を消すことができたかどうか、その確認が取れていない唯一の人物が二葉の兄、一也だ。
病室のドアを二葉は二回ノックしてから開く。
「一也、お見舞いに来たよー」
その病室はビジネスホテルに似た個室で、一也の他に患者はいない。一也は二葉の声かけに応じることなく、目をつむったまま眠っていた。
植物状態とはいえ、自発的に呼吸はできる。食事は管を通して胃に直接入れるが、内臓は生きているため排泄は自然に行われる。食事や排泄用の管は布団の下に隠れていて、ベッドの脇にある大きな機械まで、そのチューブが伸びていた。
殴られた傷痕は残っているが、顔の腫れは治癒しているため、ベッドに寝ている姿だけでは病状の良し悪しはよくわからない。
「一也」
二葉はもう一度名前を呼ぶが、兄の方に反応はない。
真理愛は二葉の背後に立ったまま、ぎゅっと唇を噛んだ。それから、爪が食い込みそうなくらい、自分の両の手を強く握る。
なぜだ?
なぜ、二葉は〝二度〟もノックをした?
なぜ、二葉は一也の名前を〝二度〟も呼んだ?
「もう一度、呼びかけてみたら?」
真理愛はできるだけ冷静な声を装いながら、二葉に促す。一也、と二葉はもう一度声をかけるが、兄の方はさっきと変わらず眠っていて目を覚ます様子はない。真理愛はフウッと二葉に聞こえない程度にため息をつき、その胸を撫で下ろした。
これで、二葉は〝三回〟兄を呼んだ。立て続けに〝2〟という数字が並ぶ事態は避けられた。本当にこの子は油断も隙もない、と真理愛は声に出さず、内心で思う。
真理愛にとって〝2〟という数字には特別な意味があった。
世間一般的には、縁起の悪い忌み数として〝4〟や〝9〟が挙げられる。4番ゲートが存在しない空港があったり、鉄道やバス会社は〝49〟が車両のナンバーに入ることを嫌うが、そんなものは迷信だ。
実際に悲劇が起きる数字は〝2〟なのだ。
某国の貿易センタービルは二つあり、それに二機の飛行機が突っ込むテロが起きたのは有名な話だ。同じように、真理愛の身の回りで起きる悲劇には、いつも数字の〝2〟がつきまとった。
真理愛が幼い頃に住んでいたマンションの222号室は火事で全焼し、この火事で二人の重傷者が出た。真理愛と母親が二人で旅行に出かけたとき、母親の運転する車に衝突してきた車のナンバーが2222。その事故の影響で、真理愛の母親と相手のドライバーの二人が亡くなったのが2月22日だった。そして、去年、病気で亡くなった真理愛の父親の病室が、2丁目の総合病院の第2入院棟202号室で――――とにかく、〝2〟が重なったとき、何かに呪われているのかと思うくらい、真理愛の周りではろくなことが起きない。真理愛にとって毎月22日は細心の注意を払ってやり過ごす一日で、出勤してもできるだけ屋内に留まり、部屋から出ないよう心がけていた。
「久しぶりね、一也くん」
真理愛が声をかけても、やはり反応はなかった。
ここに来る途中の車内で二葉から聞いた話によると、見た目にはわかりにくいが一日のうちに何度も睡眠と覚醒を繰り返していて、健常者と同じように目を開けて瞬きをしていたり、視界に映るものの動きに反応して視線を動かすこともあるのだという。
一也を襲ったあの日のことを、真理愛は今でもよく覚えていた。薄着だと少し肌寒く、月明かりのきれいな夜だった。
一也を最初の相手に選んだ理由は単純だ。
彼が懲りずに〝二度目〟の告白をしてきたからだ。
本当に不運なことが起きる数字は〝2〟なのだと、真理愛はそれを経験的に知っていた。
だから、ノックは二回してはいけないし、名前を呼ぶときも二回でやめてはいけない。価格が二百二十円のものは買わない方が賢明だし、浮気や不倫で二股すれば身を滅ぼすのは見え透いたこと。それらと同様に、同じ人物に二度も告白をするなんて、真理愛からすれば、ありえないことだった。
真理愛は〝2〟が真の忌み数であることについて、友人や家族に話したことがある。しかし、精神科の病院を真理愛に勧めてくるだけで、誰もまともに取り合ってくれなかった。
だから、私が守ってあげるしかないのだ。
〝2〟が重なると、必ず何か不幸な出来事が起きる。真理愛の両親が死んでしまったように、〝2〟が引き起こす不幸は、最悪の場合、死に至る。
〝2〟の不幸に取り憑かれた人を救うには、〝無敵の人〟として襲うことで、その人たちに起きるはずだった不幸を〝違う形で強制的に再現する〟ことくらいしか、真理愛にできることはなかった。そうしなければ、彼らには〝無敵の人〟に襲われるよりもっと酷い不幸が起きていたかもしれないし、最悪の場合、死んでいたかもしれない。
一也が二度目の告白をしてきた四月二日は、真理愛の二十二歳の誕生日だった。おまけに一也の苗字は〝一二〟で、しかも彼の着ていたシャツの胸ポケットには数字の〝2〟のワッペンまでついていた。真理愛が〝無敵の人〟になって襲わなければ、他に何か悪いことが起きて、一也は死んでいたかもしれない。
一也は真理愛に惚れていたので、彼を夜中に一人で誘い出すのは簡単だった。真理愛は闇サイトで購入したテーザー銃で、まず一也を失神させる。その後、〝2〟のデザインのワッペンをポケットごと引きちぎり、彼のスマホと一緒にバーナーで燃やした。最後に仕上げとして、真理愛が〝無敵の人〟として一也にしたことは、ご覧の通りだ。凶器として用いた木製のバッドは真理愛の自宅にあり、今でも〝無敵の人〟として愛用している。
二葉の存在を知ったのは、〝無敵の人〟として一也を襲ったその後だった。
一二二葉というその名前でわかる通り、彼女は生まれながらに最悪の運命を背負った女の子だ。
二葉が好奇心旺盛な女の子で、家族が巻き込まれた事件を自らの手で調べずにはいられなかったのは、真理愛にとってはむしろ好都合だった。二葉が真理愛を信頼すればするほど、真犯人が真理愛だという真実にたどり着いたときの二葉の精神的なダメージは大きくなる。その不幸が、真理愛の裏切りが、いつか必ず起きる最悪の出来事から二葉の命を救う鍵なのだ。
そのためにも、真理愛はこれからも二葉の捜査を手伝い、〝無敵の人〟であり続けなければならない。
二葉を救うためには、一也に邪魔をされるわけにはいかなかった。
彼が〝無敵の人〟のことを覚えていてはならないのだ。
「一也、ほら起きて。あんたの大好きな美人が目の前にいるわよ」
二葉はベッドの端に手をついて声をかける。
すると、驚いたことに一也は目を開けて、しかも、少しだけ振り向いた。一也の視線は、真理愛のほうを向く。二葉は少し驚いた様子で、嘘……、とつぶやき、それから真理愛と一也とを見比べる。
「見てください、先生。一也が、こっち見てます……!」
二葉が少し興奮気味に話すと、一也は真理愛をじっと見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「誰?」
かすれた声で一也が話した。二葉は驚き、えっ、と聞き返す。
「意識が戻った!」
先生、意識が戻った、と二葉は大声で繰り返し、喜びながらぴょんぴょん跳ねて、それからベッドの兄へと向き直る。
「私、二葉だよ。それにほら、桐谷先生」
二葉がそう話すと、一也は彼女を見ながら、二葉、と小声で名前を口にする。それからもう一度、真理愛を見て少し目を細める。
「誰?」
その言葉を聞いて驚く二葉とは対照的に、ああよかった、と真理愛は二葉の背後で思わず安堵の笑みを浮かべた。
真理愛の記憶を消去する能力は、正しい二つの手順を踏まなければ使うことができない。その手順とは銃の安全装置のような簡単なもので、まず第一に、記憶を消したい相手に直接触れている必要があった。それも衣服越しでは効果がなく、直に肌に触れていなければならない。
そしてもう一つの条件は、真理愛が記憶を消したい相手に「あなたは私のことを忘れる」と耳元で囁くというものだ。これについては真理愛が検証した結果、大声では意味がないことがわかっている。その上、ある程度音量を絞り、囁くような声で言ったとしても、相手に聞こえていなければ能力の効果は発動されない。
真理愛が気になっていたのは、気絶した相手にも声が届くのかわからなかったからだ。目蓋や口の開閉など、運動機能を要する感覚に比べて、聴覚は死の間際でも最後まで残る感覚だといわれている。しかし、すでに意識が完全になくなっていて、真理愛の声が聞こえていなかった場合、『耳元で囁く』という二つ目の条件が達成されないかもしれない。
真理愛はそう心配していたのだが、それは杞憂に終わった。
今の一也の反応を見れば明らかだ。一也は真理愛のことを一切覚えていない。真理愛の能力は有効だった。
「先生のこと、本当に覚えてないの……?」
怪訝そうに眉をひそめて二葉が尋ねると、一也は黙ったまま、何のことかわからないといった様子で首をかしげた。
「まあいいじゃない、私のことなんか。家族のことを覚えているだけで十分よ。事件であれだけ酷い衝撃を脳に受けたんだから、それで記憶が混乱しているのかも」
真理愛はそう言って苦笑する。それより、意識レベルに変化があったことを担当医に伝えた方がいい、と真理愛が促すと、二葉は急いで部屋を出て行った。病室に残された真理愛は、一也と部屋で二人きりになる。
「ねえ、私のこと本当に覚えてない?」
真理愛は少し前屈みになって、彼の顔を覗き込むようにして尋ねる。一也は数秒の沈黙の後、ぼうっとしたその表情を変えないまま、わずかにうなずいた。
嘘をついているようには見えない。もっとも、彼の頭の中にはまだ靄がかかっていて、嘘をつくという発想すらない状態かもしれない。受け答えができるようになったとはいえ、まだ意識が完全に回復したわけではないのだ。一也は自分がどうしてこの部屋で寝ているのか、今置かれている状況すら理解できていないに違いない。
じっと彼の瞳を見つめた後、そう、と真理愛はつぶやき、微笑みながら顔を離す。すると、彼はもう疲れてしまったのか目を閉じて、再び深い眠りについた。
すべては予定通りだ。一也は記憶を一部失ったが、もうまもなく意識は元に戻り、その命は救われる。
残る問題は、二葉を救うため、そして最後には自分をも救うため、真実をいつ打ち明けるかということだった。
夏休みも、もうすぐ折り返し地点になる。ちょうどお盆に入ったことで、ほとんどの部活動は休みになり、受験対策の講義も休みになった。八月十二日からの五日間、校門は開いているものの、登校してくるのは大会前の運動部や自習に来る受験生くらいのもので、出勤する教員の数もかなり減る。
そのため、今では物置としてしか使われていない旧校舎には、真理愛と一人の男子生徒を除いて、他に誰もいなかった。
真理愛は握りしめていた野球バッドを手離す。音を立てて転がったバッドが、焦茶色の教室のフローリングに血の痕をつけた。真理愛のすぐ目の前、教卓の横には一人の男子生徒が倒れていた。まだ息はあるが、すでに気絶している。その頭は何度も殴られたせいで血まみれになっていた。
白昼堂々、〝無敵の人〟として現れることにはリスクがある。いつもより生徒や教師が少ないとはいえ、たまたま旧校舎の近くを通りかかった誰かが物音を聞きつけ、ここまでやってくるかもしれない。
真理愛が潜在的に持っていたその能力は、他人の記憶から自分の存在を完全に消してしまうことができる。それゆえ、ここまで誰にも知られることなく犯行に及んでこれたのだが、この能力にも一つだけ欠点があった。
能力の発動には、相手に触れて耳元で囁く、という二つの条件を満たす必要がある。そのため、この能力は二人以上を同時に相手にすることはほとんど不可能に近かった。
警察に通報されると厄介なことになる。教員や警官など複数人で押しかけられると、真理愛の能力では対処しきれないのだ。
真理愛は上がった息を整えながら、血まみれの男子生徒の寝相を整える。彼の手足を十字架に似せて伸ばし、それをスマホで撮影した。これで実に二十一人目になる。これまでの連中の例にもれず、この男子生徒も真理愛が少し色仕掛けをすると簡単にここまでついてきた。
時刻は午後五時で、日は傾きかけているが、まだ空は十分に明るい。真理愛は写真が綺麗に写っていることを確認し、満足して笑みを浮かべる。〝2〟がゾロ目になって不安になったとき、こうやって保存した写真を見返し、〝無敵の人〟として救った人々のことを思い返すと、少しは心を落ち着かせることができた。
真理愛は血まみれのバッドを拾い、それを白衣で拭う。それから教室を出ようとして、廊下に女子生徒の姿があることに気づいて立ち止まる。
「先生、何をしてるんですか……」
教室の入り口に立っていたのは、制服姿の二葉だった。彼女はその手に、赤と白のストライプ模様の入った紙袋を携えている。
「あなたは、どうしてここに?」
真理愛はいつもの口調で冷静に尋ねる。
今日二葉が登校していたことを、真理愛は知らなかった。補習授業もないはずなので、彼女は学校に用はないはずだ。
「先生にお礼を渡そうと思って。保健室にいなかったから探してて……」
二葉はそう話し、それから真理愛の背後に倒れている男子生徒の姿に気づいて、そんな……、とつぶやく。しかし、二葉は悲鳴をあげたり、取り乱したりする様子もなく、じっと真理愛を睨みつけた。
「彼は生きているんですか?」
二葉に尋ねられるが、真理愛は黙ったまま答えない。
「学校で罪を犯すなんて大胆ですね。でも、いつか必ず〝またやる〟と思っていました」
二葉はそう言って、右手を前にまっすぐ伸ばす。
「桐谷真理愛には秘密がある」
二葉は真理愛を指差しながら言った。その秘密は、と二葉は続ける。
「あなたが一也を病院送りにした人物だということ。二十人以上を傷つけた連続暴行犯。〝無敵の人〟は、あなただった」
そうですよね、と二葉に問い詰められるが、真理愛はそれにも答えずに押し黙る。それから、腰の後ろに隠していたテーザー銃へと手を伸ばした。
ここまで見られてしまったら、自分は関係ないと白を切ることはできない。
この距離ならテーザー銃も十分に射程圏内だ。今ここで二葉の記憶から真理愛の存在を消去すれば、安全に逃げ切ることができる。
しかし、いったいどういうこだ?
真理愛には、この四ヶ月間、二葉との信頼をそれなりに築いてきた自負があった。しかし、今の二葉からは、真理愛が期待していたような絶望した様子がほとんど感じられない。
この凄惨な現場を見ても、二葉はそれほど動揺した様子を見せなかった。それどころか、『いつか必ず〝またやる〟と思っていました』と、真理愛のことを睨みつけてきた。
まさか、彼女は事前に真理愛の正体に気づいたというのか。しかし、いったいどうやって――――。
「答えて、桐谷真理愛」
二葉に催促されて、真理愛は首を横に振る。
「ち、ちがうわ。何言ってるの。もしかして、私を犯人と勘違いしてる?」
真理愛は苦笑しながら言い返す。
「たまたま近くを歩いていたら物音が聞こえて、気になって来てみたら、こんなひどいことになってたの」
真理愛はそう言って二葉に近づく。しかし、二葉は真理愛から距離を取るように後退った。
「いいえ、それは嘘よ。そんなわけない!」
二葉は首を横に振って言い返す。
「私には、あなたが犯人だという確信がある」
断言する二葉に、どうして、と真理愛は首をかしげて聞き返す。
「それは、一也の意識がもとに戻ったから」
二葉は静かにそう打ち明ける。この前、真理愛が見舞いに行って以来、一也は徐々にまともな受け答えができるようになり、今では二葉のことや、家族のことをほとんど思い出せるようになった。
「事件のこととか、犯人のことは、まるでそこだけ記憶が切り取られてしまったみたいに一切思い出すことができないのに」
二葉は再び真理愛を指さす。
「もし犯人ではないというのなら、この事実をどう説明しますか?」
「事実?」
真理愛が聞き返すと、ええ、と二葉はうなずく。
「一也があなたのことを、一切思い出すことができないという事実を」
二葉に指摘され、真理愛は口を閉じて押し黙る。
見舞いに行ったとき、たしかに一也は真理愛のことを覚えていなかった。一也が真理愛に好意を寄せていたのは事実で、家族のことは思い出せたのに、真理愛と〝無敵の人〟のことだけ思い出せないというのはあまりに不自然だ。
真理愛は、なるほど、とつぶやき不敵に微笑んだ。それから、素早くテーザー銃を取り出し、二葉に向けて構える。
「やっぱり、あなたが――――!」
二葉がそれ以上話すよりも先に、真理愛は引き金を引いた。銃声とともに銃口から弾丸が飛び出す。弾丸の先端には針があり、弾の中には小型のバッテリーが内蔵されていた。
突き刺さった針から、二葉の身体に強力な電流が流れる。
電流が流れる時間はわずか1秒に満たないが、人の身体の自由を奪うには十分な威力があった。最大装填数は五発で、大抵の人間は二発も撃ち込めば、それだけで気絶してしまう。
二葉は短い悲鳴をあげて、その場に倒れた。ご名答、と真理愛は銃を腰の後ろに差して、電撃の痛みに悶える二葉に歩み寄る。
「あなたの推理どおり、私が〝無敵の人〟よ。一也くんを襲ったのも、私で間違いない」
でも、がっかりね、と真理愛は肩を落とす。
「もっと失意のどん底になって、あなたが壊れる姿が見たかった。なのに、その目は何?」
真理愛は尋ねる。二葉は床に倒れたまま、その目は真理愛をじっと睨んでいた。
「ちがうちがう。そうじゃない。私が欲しかったのは、あなたのそういう顔じゃない。そんな顔をされたら、あなたを〝救う〟ことができないじゃない」
真理愛は二葉を見下しながらため息をつく。
〝2〟のもたらす脅威から二葉を救うには、真理愛との関係を一度リセットして、もう一度初めからやり直す必要があった。
「私を、殺すの……?」
全身の筋肉が痺れて動けない二葉は、息も切れ切れになりながら尋ねる。
「いいえ、殺さないわ」
真理愛は首を横に振る。
彼らを真の苦しみから救う方法として、真理愛が自らの手で、できるだけ苦しまないように殺すという選択肢も考えたことはある。
しかし、そもそも人殺しには常にリスクがつきまとう。証拠を残さず殺す方法を考えなければならないし、連続殺人犯になれば、警察の捜査はいっそう厳しくなり、〝無敵の人〟として活動を続けるのが難しくなる。
それに何より、わざわざそんなことをしなくても、真理愛には、もっと確実な方法があった。
「なぜなら――――」
真理愛はその場に膝をつき、前のめりになって二葉の耳元で囁く。
あなたは私のことを忘れるから――――。
学校であった事件のことを、被害者の男性生徒はもちろん、その場に倒れていた二葉も何も思い出すことができなかった。二葉に至っては、犯人のことどころか、自分がどうやって学校に来たのかすら覚えていなかった。
〝無敵の人〟の信奉者たちは二葉が無傷だったという事実から、被害者の男子生徒のことをろくに知りもしないくせに、またしても〝無敵の人〟が悪人を裁き、か弱い女性を守ったと騒ぎ立てた。マスコミや警察は〝無敵の人〟がいかにして完全犯罪を成立させたか、目的は何なのか、次の犠牲者は誰なのか、妄想を膨らませている。
この四カ月間、真理愛の能力のことはもちろん、その犯行を暴いた者は一人もいない。容姿が整っているというのは、それだけで得だ。普通にしていれば、まさか真理愛のような美しい女性が犯罪者かもしれないと疑う者はいなかった。
昼休みに職員室で流れるテレビのニュースを、真理愛は横目に見ながら、フッと鼻で笑って通り過ぎていく。
〝無敵の人〟の信奉者たちの主張は、的外れもいいところだ。捕まるリスクを冒しながら人助けをしているというのに、誰もその真相に辿りつくことはなく、真理愛が正しい賞賛を浴びることはない。それは、実に不幸なことだった。しかし、真理愛が二十二歳という最悪の一年を生き延びるためには、まだしばらく〝無敵の人〟として活動を続けるしかない。
真理愛は一人で昼食を取るため、旧校舎へと向かった。一階の鍵を開けて、ゆっくり階段を上る。八月になって蒸し暑くなったとはいえ、四階まで上がれば風通しがよく、黒板の上にある古めかしい扇風機を回せば、それなりに快適に過ごせる。この前の事件以来、生徒は旧校舎には原則立ち入り禁止で、普段は鍵がかけられていた。保健室と違って、ここなら生徒に邪魔されることなく、一人の時間を過ごすことができる。
真理愛は机に手作りの弁当を広げて、それから小さくため息をついた。
記憶を消して無事に関係をリセットできたとはいえ、二葉から十分な信頼を得る前に素性がバレてしまったというのは、反省しなければならない。
一二二葉というその名前からして、生まれながらに不吉な運命を背負った彼女は、このまま放っておけば、いつか必ず二葉自身が元凶となる大事件を起こし、大勢を巻き込みながら悲惨な最期を迎える。二葉を救い、未曾有の大事件を防ぐには、それが起きるよりも早く、彼女をできるだけ不幸な目に遭わせて、その運命を浄化してあげる必要があった。
さて、二葉のことは、どうしたものだろうか……。
そんなことを考えながら、真理愛が弁当をフォークでつついていると、いきなりノックもなく教室の後ろのドアが開いた。入り口に立っていたのは二葉で、彼女以外に人影はない。
「桐谷真理愛には秘密がある」
二葉が口にしたのは、真理愛にとって既視感のある台詞だった。この前の事件のとき、真理愛の正体を見抜いた彼女がそう口にした。
どういうこと……?
真理愛は声には出さず、心の中で疑問に思う。
この前の事件のとき、二葉は真理愛に関するすべての記憶を失ったはずだ。彼女の中では関係がリセットされているはずだった。事件以来、二葉とは会っていなかったため、彼女にとっては、実質今が真理愛との初対面になる。
真理愛の秘密どころか、好きな食べ物だとか音楽だとか、ちょっとした趣味や嗜好についても、何一つ知らないはずだった。
「そうじゃないなら――――」
二葉はそう話しながら、ゆっくりと腕を持ち上げ、真理愛を指差す。それから、彼女はまっすぐ真理愛を見つめて言った。
「あなたに関する記憶を失った説明がつかない」
真理愛は驚いて目を点にする。
――――記憶を失った説明がつかない。
それはつまり、自分が部分的な記憶喪失になったことついて、真理愛のことを思い出せないことについて、二葉はその事実を認識しているということだった。
「私に関する記憶がない?」
真理愛が聞き返すと、そう、と二葉はうなずく。
「あなたがどうやって私の記憶を消したのか、その方法については皆目検討がつかない」
でも、と二葉は続ける。
「あなたに関する記憶が消えていることは、紛れもない事実」
まるで確信があるかのように、二葉は大きな声で断言した。一方で、真理愛は黙ったまま首をかしげる。
彼女が何を言っているのか、まったくわからない。
二葉に対しては、間違いなく能力を行使できたはずだ。彼女に直接触れていたし、その耳元で適切な音量で囁いた。真理愛の能力の発動条件は満たしていた。
最初から存在しない記憶に、彼女自身が気づけるはずがない。真理愛に関する記憶がすべて消えているのだから、過去に真理愛と関わっていたことすら思い出すことができないはずだ。
「それは、たぶん事件に巻き込まれたせいじゃない?」
真理愛はいつもの笑顔で聞き返す。
「あなた気絶していたんでしょう。きっと犯人に殴られたのよ。頭部外傷による記憶障害はよくあることで――――」
「証拠はもう一つあります」
二葉は真理愛が左手に握っているフォークを指さす。
「さっきから気になってたんですよ。白ご飯を食べるのに、フォークって、おかしくないですか?」
二葉は首をかしげ、それから、弁当箱へと視線を落とす。
「通気と調湿性にすぐれたわっぱの弁当箱で、手作りのおかずは品数も多くて彩りも豊か。そのお弁当は全体的にすごくこだわりを感じるのに、手にしている食器はフォーク」
二葉がそう話すと、「いけない?」と真理愛は聞き返す。
「普段なら、気にも留めないかもしれません。でも、〝無敵の人〟かもしれない容疑者なら、話は別です」
二葉は肩をすくめてそう話し、それから、知ってますか、と尋ねる。
「〝無敵の人〟が犯行に及んだ日は、二日か十二日か、二十日から二十九日の間で、毎月二十二日は必ず被害者が出てます。被害者については性別も年齢も職業もまちまちで、共通しているのは〝2〟がつく日に襲われているということ」
「それがなに?」
真理愛はフォークをご飯に突き刺し、二葉に聞き返す。
「〝無敵の人〟が事件を起こした日が、たまたまそうだっただけ」
真理愛がそう話すと、そうかもしれません、と二葉はうなずき返す。
「おそらく警察もそう考えています。被害者の命を奪うまではしなかったり、十字架の格好で寝かせたり、〝無敵の人〟はそういう署名的行動の方がよく目につきますから」
でも、と二葉は右手の人差し指をぴんと天井に向けて立てる。
「事件のときに着ていた一也のシャツは、胸ポケットが引きちぎられていて、そのポケットに縫い付けてあったワッペンが数字の〝2〟だった。偶然なんかじゃありません。犯人のその〝2〟という数字へのこだわりが、あなたと犯人を結ぶ大きなヒントになる」
二葉は真理愛の足元を指差す。真理愛の下半身は、タイトスカートもストッキングもヒールも、黒色で統一されていた。そのせいでよく見ないとわからないが、ヒールはそのデザインが左右で微妙に違っていた。左足には足首を一周するアンクルストラップがついているが、右足のヒールにはそれがない。
「先生はアシンメトリーがお好きですよね?」
二葉に言われて、えっ、と真理愛は聞き返す。
「だって、そのヒールは左右で微妙にデザインが違うし、白衣の袖も、着崩しているから分かりにくいけど、左腕の方をいつも少し多く捲ってる。あと、車のサイドミラーも左右で色が違いましたよね」
「それは……」
真理愛は言い返そうとするが、それ以上は何も口にしないまま押し黙る。
「最初は単に、アシンメトリーのファッションが好きなんだと思ってました。でも、そうじゃなかった」
二葉は話を続ける。
「保健室のベッドが二つだったのを、自腹で三つに増やそうとしてましたしたよね」
「それは、ベッドが埋まっていたときがあって、そのとき他の子を休ませることができなかったから」
反論する真理愛に、じゃあこれはどうです、と二葉は言い返す。
「見舞いに行って、私が一也に二回声をかけたとき、先生は「もう一回」って、私が和也に声をかけるよう催促しましたよね。よく考えれば、それって変じゃないですか。自分で声をかければいいのに。そのために先生に来てもらったのに」
「さっきから、何言ってるの。あなたちょっとおかしいんじゃない?」
そう言って首をかしげる真理愛に、いいえ、と二葉は言い返す。
「おかしいのは私の推理じゃない。あなたの行動です」
二葉は真理愛を睨む。
「見舞いのときは、あなたが声をかけるんじゃ意味がなかった。私が声をかけることに意味があったんです。箸を使わず、フォークでご飯を食べるのも同じ理由。なぜなら、あなたは〝2〟という数字を恐れているから」
二葉はまっすぐ真理愛を見ながら言った。
「それが、あなたの推理?」
真理愛は二葉をじっと見つめ返しながら尋ねる。
まだ夏休み期間中とはいえ、本校舎には多くの生徒や教員がいる。いくら普段は誰も足を踏み入れない旧校舎とはいえ、このまま彼女に騒がれたら人が集まってくる可能性があった。
すぐにでも能力を使い、再び二葉の記憶を消すべきだ。しかし、真理愛にはその前に確認しておきたいことがあった。
「どうして覚えているの?」
真理愛は尋ねる。二葉は真理愛に関する記憶をすべて失っているはずだ。一緒に見舞いへ行ったときのことを、彼女はあんな詳細に覚えているわけがないのだ。
「過去の私から、メールが届いたから」
「メール?」
真理愛が聞き返すと、そう、と二葉はうなずく。
「差出人のアドレスは、間違いなく私と同じアドレスでした。そして、そのメールには、これまで私が推理してきた事件のことが書かれていた」
メールは通常、送信ボタンを押すと同時に送信されるものだが、マニアックなアプリを使わなくても、パソコンを使えば簡単に未来の日時を指定して送信することができる。
そのメールには、と二葉は話を続ける。
「『もし桐谷真理愛のことが完全に記憶から消えていたら、桐谷真理愛が〝無敵の人〟で間違いない』と書かれていた」
二葉はそう話して肩をすくめる。
「未来の自分宛にこんなメールを打った覚えはなかったけれど、それも〝無敵の人〟のせいであるのなら説明はつく」
だから、と言って、二葉はスマホを鞄から取り出す。
「もうこれ以上、私はあなたを逃がさない」
二葉はそう言って、スマホを耳に当てた。
「〝無敵の人〟を見つけました。場所は、温守高校旧校舎の四階。今目の前にいます。早く捕まえに来てください」
二葉は早口にそれだけ言って、スマホを鞄の中に戻す。
「まさか、警察に電話したの?」
真理愛は椅子から立ち上がり、二葉に尋ねる。ねえ、答えて、と催促する真理愛に対し、二葉はからかうような笑みを返す。もったいぶるように少し間をあけてから、知りたいですかぁ、と二葉はつぶやいた。
電話は最寄りの交番に繋がったはずだ。イタズラかもしれないと疑っていたとしても、警察が通報を無視することはない。今から十分もしないうちに警官がここにやってくるだろう。
しかし、この前のときのように、犯行現場に直接居合わせたわけではない。真理愛に手錠をかけるに足りる材料がここにはなかった。
「証拠がない」
真理愛は言う。
「仮に私が〝無敵の人〟だったとしても、その証拠がないわ。警察を呼んだところで、証拠不十分で私は逮捕されない。全部、あなたの妄想で片付けられる」
真理愛の指摘を受けて、たしかにそうですね、と二葉は肩をすくめた。
「物的証拠はまだありません。でも、もし警察が私の話を少しでも信じてあなたを調べれば、あなたはすぐに有力な容疑者として浮かび上がるはずです」
二葉はそう言って自分の頭を人差し指でさす。
「被害者全員が共通して、あなたのことを覚えていないはずだから」
被害者の中には、二葉と一也を含めて学校関係者が五人いた。しかも、二葉を除く全員が男だ。こんな美人の養護教諭の存在が、全員の記憶から完全に消えてしまっているというのは、あまりにも不自然。
〝無敵の人〟の犯行による被害者も、誰もが共通して犯人のことを思い出せなかった。その事実と比較したとき、真理愛のことが容疑者として浮かび上がるのは必然だ。
真理愛はとっさに二葉の手をつかむ。警察が来るまで、もうあまり時間はなかった。もう一度、私のことを忘れさせてしまえば――――。
「そうやって、手を握っただけで人の記憶を操作できるんですか?」
二葉は真理愛の手を握り返し、身長差のある真理愛を見上げる。
二葉は過去の自分からのメールで、真理愛が犯人だと確信した。それなら、真理愛に会うことで、もう一度真理愛に関する記憶を失ってしまう可能性も考えているはずだ。すでに手を打っていて、未来の日時でメールを送信していたり、手書きの書き置きだとか、自分にしかわからない形で自宅にメッセージを残していてもおかしくない。
真理愛は右手を白衣の中に忍ばせ、腰の後ろの、スカートのベルトに挟んで隠しているテーザー銃へと手を伸ばす。
悠長に考えている時間はなかった。警察が来る前に真理愛にできることは一つ。ここで二葉を――――。
「あれ、桐谷先生。こんなとこでどうしたんですか?」
廊下の奥の方から声がして振り向けば、そこには白髪のどんぐり頭の教頭が立っていた。
「なんで……?」
真理愛は思わずつぶやく。教頭はきょとんとした表情で首をかしげる。
「いやぁ、たまたまね。そこの彼女が旧校舎に入っていくのが見えたんですよ。この前の事件以来、生徒は原則立ち入り禁止ってことになってるでしょう。だから――――」
のんびりした口調で話す教頭の声を聴きながら、真理愛は唇を噛む。まずい。これ以上、ここにいるべきではない。万が一、警官が二葉の話しを信じ、この場で身体検査を受けることになれば、違法に購入したテーザー銃が見つかってしまう。
かといって、これ以上学校関係者の記憶を消すのが利口とは思えないし、能力を使うにしても、あと数分でこの二人を片付けるのは無理がある。
ならば、どちらか一人。いいや、二葉だけでも――――。
真理愛はくるりと身を翻し、教頭が現れたのとは反対側の階段へ向かって走り出した。
「逃げるんですか!」
背後から声をかけてくる二葉を無視して、真理愛は廊下を走る。
あとでもし教頭に聞かれたら、急に腹を下したとか適当にごまかせばいい。こういうとき、真理愛は自分の容姿がすぐれていてよかったと本当に思う。容姿が整っていると、堂々と振る舞っているだけで、オーラがあるだとか、一般人とは佇まいが違うだとか、相手は勝手にいいように解釈し、ささいな嘘ならば簡単に信じてしまう。
「教頭先生は来ないでください。これは女性の問題ですから!」
教頭を巻き込まないために二葉がそう言い放ち、ええっ、と教頭は少し困った顔で立ち止まった。
後ろから追いかけてくる足音が聞こえ、真理愛は急いで階段を駆け下りる。しかし、タイトスカートもハイヒールも走ることには向いていない。真理愛は階段の踊り場を曲がったところで足がもつれて、うわっ、と声に出したときには、前のめりになった身体が宙に浮いていた。
こんなときに、こんなときに限って――――!
真理愛は大きな音を立てながら、盛大に階段を転げ落ちる。髪は乱れ、ストラップが千切れて左足のヒールが脱げ、ストッキングは伝線し、擦りむいた左足からは大げさに血が滲み出ていた。階段の上の方から足音が一つだけ追いかけてくる。この足ではもう逃げられない。真理愛は追いつかれる前に急いで立ち上がり、足を少し引きずるようにして手近な教室へ入った。
教室の中から、窓の外へと目を向ける。まだ警察は来ていない。この旧校舎にいるのは真理愛と二葉と教頭、その三人だけだった。
こうなった以上、もう手段は選んでいられない。
この私の正体に迫り、ここまで追い詰めたことこそが罪だ。
真理愛は、まだ捕まるわけにはいかなかった。二十二歳という最悪の一年で、最も不幸な出来事が起きるのは、間違いなく二月二十二日だ。その厄日まで〝無敵の人〟を続け、最後に世間に真犯人が誰だったのかを自ら明かし、この学校関係者や真理愛と関わってきた多くの人々の信頼を裏切り、真理愛は不幸のどん底に落ちる。
そこまでして初めて、私の死は回避できるのだ。
そのためにも、今日ここで二葉を始末する……!
真理愛は腰の後ろから、スカートに挟んでいた銃を取り出す。教室の後ろ側のドアから二葉が入ってきて、真理愛の手にしている銃を見て少し驚いた顔をする。
「隠す気がなくなったんですね」
彼女に問われ、真理愛は黙ったまま銃を二葉に向けて構えた。
「その引き金を引く前に、二つだけ質問をさせてください」
二葉はそう話しながら、教卓の前に立つ真理愛のもとへ、ゆっくりと歩み寄る。
テーザー銃は通常の銃の弾丸とは異なるため、弾道がぶれやすく、近距離で胴体を狙わなければ当てにくい。時間は惜しかったが、二葉が少しでも近づいてくれるなら、真理愛にとっては都合がよかった。
「いいわ。でも、答えてあげる質問は一つだけ」
真理愛は二葉の警戒を緩めるために、銃口を少しだけ下げて答える。二葉は教卓を挟んだ向かい側で立ち止まり、真理愛を見上げる。
「どうして、まず初めに一也を狙ったんですか?」
二葉の質問に、真理愛はきょとんとして首をかしげる。
「四月二日という私の呪われた誕生日に、彼が二度目の告白をしてきたから」
真理愛の言葉を聞いて、二葉は眉をひそめる。
「そんな理由で?」
二葉が尋ねると、「いけない?」と真理愛は真顔で首をかしげる。
「あなたにはわからないでしょうね。でも、〝2〟のゾロ目には、とんでもない不幸を引き起こす力があるの。一也くんは、いくつも〝2〟をつくってしまった。だから、彼が目も当てられないような不幸に遭う前に、私が救ってあげたのよ」
真剣にそう話す真理愛を見ながら、二葉は絶句する。それから、ありえない、と二葉は首を横に振る。
「人を殴って、気絶させて。一也は植物状態になったのよ。あんなものが救いだっていうの?」
「そうよ。〝無敵の人〟として、私はこれまで何人もの不幸な人々を救ってきた」
真理愛はうなずき、たしかに、と肩をすくめて続ける。
「私のせいで彼らは酷い怪我をした。それは、とても不幸なことかもしれない。でも、私が彼らを殴り、そうやって強制的に不幸を再現しなければ、彼らは別の方法で必ず不幸な目に遭って、最悪な死を迎えてしまうのよ」
二葉は首を横に振り、ありえない、と静かにつぶやく。面食らった様子の二葉を見て、真理愛はこらえきれずに、フフッ、と笑みをこぼした。以前に二葉を襲ったとき、真理愛が見たいと思っていたのは、彼女のそういう顔だ。
「やっとその顔を見せてくれたわね。絶望に歪む表情。私がどれだけ、その顔を待ち望んだことか」
真理愛がそう話すと、二葉は怪訝な顔をする。どういうこと、と尋ねる二葉に、真理愛はフフッと再び笑って返す。
「言葉では言い表せない快感っていうのかしら。これも、あなたにはわからないことかもしれないけど」
被害者の絶望した表情を見るのは、真理愛にとって、密かな楽しみだった。自信家で威勢がよかったり、権力を持っていて威張り散らしている奴、それに、二葉みたいな小生意気な子を裏切って、普段は絶対に見せない表情を引き出せたときの快感は、他には例え難いものがあった。
真理愛の話を聞いて、二葉は驚いた様子で目を見開く。それから、少しうつむき、二葉は歯を食いしばった。
「私のことはどうするの。殺すの?」
二葉のその問いに、真理愛は答えずため息で返す。
自暴自棄になっているのだろうか。無理もない。兄の事件の真相など放っておいて、真理愛のことを詮索しなければ、未来の自分にメッセージを残すという方法さえ見つけなければ、彼女が今日ここで〝死ぬ〟ことはなかったのだ。
そう考えると、真理愛は急に二葉のことが哀れに思えてきた。
「私も残念よ、本当に」
真理愛はそう話し、ため息をつく。でも勘違いしないで、と真理愛は話を続けた。
「仕方がない、やるしかない。だから私はあなたを殺す。ここまで私を追い込んだのは、他でもないあなた自身。言ってみれば、これはあなたの自殺よ」
真理愛は銃を握った左手を少し上げ、真正面に立つ二葉に銃口を向ける。
テーザー銃は殺傷能力が低いだけで、人を殺せない武器ではない。警察に採用されているアメリカでは、実際に年間で何十人も死者が出ていた。しかも、真理愛のテーザー銃はバッテリー内蔵の弾丸が五発も装填してあり、予備の弾薬は白衣のポケットに入っていた。大柄な男でも一発で身体の自由を奪い、二発目で確実に気絶させるほどの威力がある。三発、四発と電撃をお見舞いした場合、相手がどうなるのかは想像に難くない。
「さあ、これでお別れね」
真理愛は引き金に乗せた人差し指に、少し力を込める。二葉はうつむいたまま、ねえ、先生、と口を開く。
「理由を知りたくありませんか?」
二葉が口にしたその問いの意味がわからず、「何の話?」と真理愛は聞き返す。
「たった今、あなたは私を殺す必要がなくなりました」
二葉は顔をあげて真理愛を見た。その瞳には何かを確信しているような光があった。
これまで真理愛が銃を突きつけた連中は、たとえ大柄な男でも、撃たれる前は動揺してその目を濁らせた。しかし、今の二葉は、どういうわけかまだ失望も絶望もしていない。
何で、どうして、という疑問が、真理愛の頭の中を駆け巡る。
「その理由を、知りたくないですか?」
二葉はそう言って、鞄からおもむろにスマホを取り出した。それから、もう話して大丈夫ですよー、と二葉が言うと、そのスマホから男性の声が聞こえてくる。
『桐谷真理愛さんですね。おとなしく生徒を解放しなさい』
何を……、と真理愛は顔をしかめる。
『連続暴行事件の容疑者および、殺人未遂の現行犯で、あなたを逮捕します』
スマホからもう一度同じ男の声が聞こえてきた。
「そのスマホで何をしたの?」
真理愛はつぶやく。
「その男は、いったい何を言っているの!」
真理愛が声を荒げて説明を求めると、二葉は手にしていたスマホを見せながら言った。
「ここに来る前、警察の方に事前に電話をしました。〝無敵の人〟の正体を知っていて、彼女に犯行を自白させるので、私が次に電話をしたら切らずに待っていてほしいと」
二葉がそう説明すると、廊下の方から男の声が聞こえてきた。
「落ち着いてください」
教頭のものとは違う、さっきスマホから聞こえてきた声だった。
真理愛は廊下に向かって銃を構え直す。教室の入り口に制服警官が姿を現すと、真理愛は何の躊躇いもなく、間髪入れずに二度引き金を引いた。銃声と共に発射された弾丸のうち、その一発が命中して、警官は悲鳴を上げながらその場に倒れる。倒れた警官を助けようと入ってきたもう一人にも、真理愛は迷うことなく、その弾丸を叩き込んだ。銃声が響き渡り、火薬の匂いが教室の中を漂う。
シリンダーに装填されている弾丸は残り一発。真理愛は白衣のポケットから、急いで予備の弾丸を取り出す。弾丸を持つ手が震えた。
目の前の二葉の記憶を消すのは簡単だ。しかし、警官の記憶はどうやって消せばいい。いいや、そもそも、今この場にいる全員の記憶を消しても、真理愛の自白がすでに警察内部に漏れていて、記録されている可能性が高い。
二葉は前のめりになって教卓に肘をつき、両手でその顎を支えながら真理愛を見上げる。
「『言葉では言い表せない快感』でしたっけ。たしかに、ちょっと病みつきになりそう」
二葉はいたずらっぽい笑みを浮かべながら言った。
「私も見たかったんですよ。桐谷真理愛の、そういう顔」
それだけ言うと、二葉は身体を起こし、真理愛に背を向けて歩き出す。真理愛は放心したまま、銃を取り落とした。それに気づいた警官たちが、二葉と入れ替わりで教室になだれ込んでくる。「確保、確保!」と叫ぶ警官たちの声を聞きながら、二葉は廊下の壁に背中を預けて目をつむる。フウッと深くため息をつき、ゆっくりとその胸を撫で下ろした。