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いつも心にあることを書きました。

久々の投稿になります。

11月に入りましたが、日中は体感温度としてはまだ夏の名残りがある感じがして、なんだかちぐはぐな感覚になってしまう日もあります。

日によって温度差は大きいので、風邪をひいてしまったりしないように気をつけたいですね。


人とお話をしていて思ったのですが、短い言葉で自分の気持ちをスパンと伝えたい場面があったのですが、初対面だったりすると、相手の方がそれをどのように受け止めるかわからなく、配慮をして、やわたい変化球にして投げてみると、結局、何が言いたいのかが伝わらなくて、しどろもどろと、えっとですね。つまりはですね。と言葉をぐるぐると繰り返すというようなことになってしまう時ってあるなあと思いました。

ですので、今日はなるべく率直に書いてみたいと思います。

今日は朝、時間があったので、人と会うためにあるお店に立ち寄ってきました。

そのお店の方は元気いっぱいな人で、60才は超えておられる方だと思うのですが、日本だけに留まらず、世界各国に行かれています。

私は珈琲をいただいていたのですが、お客さんもそこそこはおられたのですが、席につかれてお話してくださっていて、私も口数は少なくない人なのですが、元気いっぱいに旅行先の話をされていました。

海外旅行中に個室が開かずの扉になる公衆トイレがあって、一人ぼっちで誰もこなく、仕方がないから下の隙間20cmぐらい開いていたから、そこから這うように出ようとしていたけれど、特別に細い人ではなかったので、身体のお肉が挟みこまれる形になって、出るにも引き下がることもできなくなったことがあるというお話をされていました。
しばらくたって入ってこられた方がいて、足だけが下から出ていたのが恐ろしかったらしくいなくなり、もうしばらくしたら、警備員の方が来られてやっと救出されたのよ。という話でした。

いろいろな意味で、凄まじい話だなと思いました。


そんな感じの方なのですが、海外に行くと、日本のよさも、逆によくないというどころか悪なところも、よくわかってくるのよね。ということでした。

確かに、そこについては、発信をしておられる方も少なからずおられます。
歴史であっても、戦争についても、国によって、全く違う内容になってしまっていたりするもので、真実はひとつのはずだけど、動機でさえ塗り替えてしまうことも、どちらかだけを悪とすることも、意図をを持って書き換えてしまっているんだということを思います。

ただ、そのような話になると、やはり、あらゆる問題に対して焦点をあて、解決をしようとしていくだけでは、どれだけ多大な労力をかけても、剥がれたメッキを塗り替えているようなものにしかならず、どうやっても、どのような問題であれその根は、人の内側にあり、それが現れとなっているのだということに焦点を置いて本気で取り組んでいかなくては、ずっと根本的には変われない歴史を繰り返していくということにしかならない。ということになります。


途方もなく遠回りのように感じますが、外だけではなく、内に対しての問題解決をしないことには、この闇で覆われてしまった世界を変えることもできないし、自分自身も、身近にいてくれる人たちの闇も取り去ることはできないです。
どうしたらいいんだと思うところですが、取っていかなければ、これから先、いつまでも闇を抱えていかなくてはならないです。その力は、実は誰にでも備わっています。

私は、外側の動きを鎮めて、焦点をあてきれていなかった自分の家族と向き合うことで、子どもたちの問題と自分の問題が直結していることが鮮明になってきているものがあります。


知っていましたし、わかっていたつもりだったのですが、思っていた以上に、私の心に取り除かれずに在るものと、目に見えている課題は、密接なものなんだということが少しずつわかってきたように感じています。

私自身、ここに対しては努力を続けてきたつもりでした。まだ、こんなに根深いものが残っているのか。。と、顔をしかめる気持ちにもなってしまうのですが、それでもひとつひとつ、自分の心には本来はなかったものだということは、わかるとは今は感じられていて、それに気づき、解いていく、放していくということは、何にも換えがたいものであるというような、深いところが安堵をしていくような感触があります。

自分というものの一番近くにいて、一番長く付き合っているのは、間違いなくこの自分であるのですから、自分の良いところや素敵なところも知っている代わりに、どうもよろしくない。なくしたほうがよいとはわかっている。と思うところはあると思うんです。自覚、というものになるのですが、これが、自分のいのちにとって、本当に大切なものになるんです。

できることや得意なところを伸ばすより、苦手なところ、人にみせたくないなと思うところをどうにかすることのほうが、力だったり、覚悟が必要になります。

ただ、それを決めてしまうことは、恒久的に自分を助けることになるということだけではなく、自分の大切な人に対しても、また、世界という大きな視点にたってみた時にも、その影響は計り知れないものになります。
もがいて苦しかろうが、そこに着手するしか、実のところ、私たちが存在させていただいている場所をどうにかする方法はないんですね。

人に知られていないところで、その意味をわかり、ひとつひとつ、取り組んでいる人たちは実際にいます。

それによって、なんとか均衡は保たれているところもあるのか、、それとももう破綻をして均衡は破られてしまうのか、というようなところの位置にあるのが現状です。


珈琲を飲みながら、今日、トイレからの脱出話の後に、そこまでの話を直接的にお伝えすることはさすがにできませんでしたが、そこについて、本当に少しだけはお話しました。
すごくよく聞いてくださっていた後で、難しいね。。と呟かれてもいました。
空気が重くならないように、ひとつ話題を挟んでお別れしました。

どうして目の前のことをどうにかするのではなく、心のことをどうにかする話になるんだと、なるかと思いますが、実のところは、特別なことではなく、日々、ごく普通のことの連続の中でもほころびが、見え隠れしているそれぞれの日常の中に、そのこたえはあるものであり、今までのたくさんの経験の中でも、自分に対するいくつかの弱点に対してもの気づきがあり、よくないところや傾向を発見して、改善をしてきたものもある中で、さらにより、心というものへの関心をあげて、自分というものはどのようなものなのかと向きあっていく。ということになるかと思っています。


人の助けとなる仕事や人との濃い関わりがあってこそ、自分自身の発見が大きくあるもので、何もかもを行うということは、どれだけ働きやれということなのかということになる場合もあるかもしれませんが、現時点で、それぞれの人が持ち合わせている力量や性質は本当に千差万別で違いますから、アグレッシブに動きながらも、あれもこれも行うことも人によっては可能だと思います。


無責任な言い方をしたくはないのですが、同じ生き方の人がいないように、自分との向き合いや闇とりに本気になって、そこが加えられたところで、やはり、人の生きる場所や生き方は人それぞれですし、人というものについてどのようなものであるかを学習をし、結果、どのようになっていくのかはわかっていかなくてはどうにも出来ないものですが、基本的には1人でやっていくのか、または、チームとして言語化しながら共に行っていくのかなども、人それぞれになります。

ざっと、ずっと心にあることを書いてみました。

本当は、対面で、負担もないように、少しずつその方に合わせた内容でお伝えするほうがよいのですが(このような話は人によって、聞きたくもない場合もあるかと思いますし)なかなか、お会いできる方ばかりでもありませんので、書きました。

何を本当とするのかは、押し付けることは他の人がしてよいことでもないですし、またできることでもないように、どこまでも、聞いたこと、知ったことについて、どう思うのかは、その人自身のことでしかありません。

ただ、自分自身が、ちょっとおかしい人であるのではないかとか、自分はできているのかとか言われたくないというようなところから、言わないということを選んでいるということであれば、それは、それでよいのか?と自分に問えば、それでよいとできるものではないです。


このような内容のことを書いてみて、こういうと怒られてしまうかもしれませんが、何事もトライアンドエラーで、やっていく中で、上達もしていくというものではどうしてもあり、今の自分ではこれが力の限りであるということは、許していただきたいと思っております。

そんな感じです。

私自身が今、佳境の中にいて、ひとつの課題が終わらないうちに、次の課題が現れてくるというような状態でして、しっかりと自分のいのちを発動させないと、これはどうにもならないなというようなところであったりしています。

何のために、であるとか、この先には何があるのかというようなことを知っていても、どうしてもなんともいえないもので、自分というものが、いかにたくさんのものを持ち合わせてきてしまったのかであるとか、この持ってしまったものが、今まで気がつかないところで、どのようにまわりの人や様々なところに、影響を及ぼしてきたのだろうかとも思います。


それでは、今日はここまでで終わります。
これを読んで頂いて、思うことや感じることがあれば、いつでもお伝えしていただけたらありがたいです。


長く濃くなりました。
ご負担がないように願います。。










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