心地よい判断を繰り返していく
中庸という言葉に触れる機会がありました。
「中」とは、偏りがなく、調和していること。「庸」とは、一定であること。
中庸であるということは、変化し続ける環境や関係性の中で、積極的に動いていく時も静かな時も変わらぬ一定の心で、物事をみて判断ができます。
人との関係性においても、偏りはなく、常に円満です。・・・これが変わらずにできるのは、人心に引っ張られることがなく、本性にのみ従えている状態であり、まさに聖人君子であるといえます。。目指していくべき姿です。
人心というものは欲といえますが、例え、聖人君子がおられたとしても、自分の生命を守るために、適切な欲は必要です。
貪欲にならない、欲どおしく過度にならない、ということが大切で、欲だと認識することはやり過ぎないことですね。やってしまったと苦い想いをすることになりますし、実際に心に曇りがかかり、本性の声からも遠ざかってしまいます。
貪欲といえば、、子どものゲームや携帯の依存というのは、親にとって悩ましいものですが、何故、やり過ぎたらよくないのかということをよく話合って時間を決める。親も一緒にその時間を守る、ということだったりするでしょうか。
親の立場としては、自覚と習慣への働きかけが必要ですね。子どもの様子をみながら、寛容さと忍耐と工夫がいります。
自分のことに関しても、今、自分は何をしようとしていて、何によって動かされているのか、を識別する。
一点集中ではなく、まわりの人のことも考えた視点が広い行動をしているのか、それとも、視点が狭まった行動をしているのかを、冷静に観ることです。私は視点が狭くなっていることがまだまだあります。
だんだんと、調整や配慮が自然なことになってくる。どのような動きをしても行き過ぎることはなく、調和の中に自らが在るようになっていく時間が増えていくのが、実感できてくると思います。