(その2)ご破算で願いましては
「ささやかだけど、とてつもないこと」(その2)です。
とてつもないと言えば、まずキース・リチャーズのことから。(念の為、彼は、ローリング・ストーンズのギタリストです。ローリング・ストーンズは結成60年のイギリスのロック・バンドです。)
BBC制作のドキュメンタリー:My Life as a Rolling Stone が始まり、この週末キースの回を観たところなのです。
ローリング・ストーンズのコンサートは、自慢しているわけではありませんが、世界のあちこちで50回以上観ています。(いや、50回じゃきかないかも)(自慢してるじゃないかって? いえいえ、半分は、恥ずかしがっているのですよ。)
番組の中で、音楽プロデューサーのドン・ウォズが、キースがどんなふうに作曲するかについて、コメントしています。
***キースは、二つのコードを繰り返し爪弾くんだ。何も考えず、延々とやっている。そのうちに “次” が降りてくるんだよ。それは必ず降りてくる。彼はそれを知っていて、だから完全に任せきってる。***
シビレますね〜。キースだって、「バラードがいいな」とか「ポップなのをいっちょ作ってやるか」とか「ブルースをこの辺りで一曲」とか、“そうしたい”という方向性、計画のようなものは、頭の中にあるのではないかと思います。でも、ギターを抱えた途端に、それは何か大いなるものに委ねられてしまって、または、単純に忘れられて、キースの中が空っぽになって、ただ受け取る準備ができていることを、二つのコードが知らせていて・・・そして、それは、来る。
二つのコードは祈りの言葉。
その音は信頼の呼び声。いつでもどうぞの招待状。
招待された未知の“次”のコードは、真っ直ぐに、キースの手元に舞い降りる。さらに次が。そして次が。
もしかしたら最初は、糸のように細いせせらぎで、だんだん太い流れになって、ついにどこかで、別の渓流が合流してきて流れが速まり、水かさが増して盛り上がり、飛沫を上げて滝となって落ちて・・・というような具合に。
なんてスリリングでしょうか!
なんて完璧な関係でしょうか!
これしかない、と思ってしまうのです。人生のステージは理不尽そのものであるとしても、キースのように、日々、祈りのコードを爪弾き、降りてくるものを受け取るという繰り返しを人生の基調にしたら、理不尽なステージなんて、どうでもよくなります。静かな、祈りの心の状態と共存できるものはそのステージには一つもないのですから。
こんなふうに、「絶対」のものは確かにあります。呼べば必ず応える。それも完璧な答えが来る。唯一無二のタイミングで来る。しかも、いくらでも来る。限りがないことがわかっている。
それほど信頼できるものがあれば、理不尽なものに、不要な力を与えて闘いを挑む、などということをしなくて済みます。信頼が強いほど、理不尽なものの儚さが見えてくるので、楽になります。
常識と思い込んでいるものだって実は儚いもので、不変の基盤にはなりません。考えなしに前提としてしまっている”常識”の一つ一つを、本当にそうなのか、それを前提として決めているのは誰なのか、いちいち点検していたいです。
――――他人という概念は、不変の事実?
A. 人を他者と決めつけるのは、そもそも間違いじゃない?
B. 他人は他人に決まってるでしょ。血縁があったって、やっぱり他人でしょ。違う個体なんだから。
A. もちろん、この個体(身体)=自分。その個体(身体)=あなた、ならば、その“あなた”はわたしにとって他者でしょう。でも、本当に、この個体がわたしなの?
ーーーーこの前提は、正しいの? わたしとは、この身体のことなの?
A. だとしたら、あなたは差別主義でいかなければね。
B. なにさ。差別にはもちろん反対!
A. ホントかな? 無差別の方が怖いくせに。
怨恨殺人よりも無差別殺人の方が社会を震撼とさせるでしょう。
弱者であるはずの人(グループ)が自分たち(少しは強いと思っている自分たち)を脅かすような“力”を見せると、大騒ぎになるでしょう。
反対に、自分(たち)が崇拝する、最強であるべき人が弱さを見せると、落胆を隠さないどころか怒り出すでしょう。
――――自分では常識的と思い込んでいても、矛盾だらけなのです。そしてその矛盾に自分が縛られているのです。
動かしようのない、変わらない事実なんて、この世には一つもないのでは? 身体が朽ちたからといって、その人のいのちが消えたとも言えないわけですし。岩は動かないように見えるけれども、中国には、岩が削れる「傍」という数の単位があるそうな。鳥の羽根で岩を撫でていって、ほんの少し岩が削れたら、一傍。
しばらく前に、「事業が行き詰まってどうしようもなくなり」「スピリチュアルな解決を求めている」と言う若い実業家に会いました。わたしが、読んでみたらと本棚から引き出した小さい薄い日本語の本は、斉藤幸平氏『人新世の資本論』(ひとしんせい、と読みます)。
自分が日頃感じていること、思っていることを、その道の専門家が、より詳しく状況を教えてくれ、我が意を得たり、と感じつつ素直に学べ、さらにそれがベストセラーで多くの読者(わたしの仲間たち!)がいると知ることは、やはり幸せの要です。わたしにとって、「降りてきてくれた本」の中の一冊と言えます。
“人新世”とは、著者によると、わたしたちの経済生活が地球を破壊し尽くす環境危機の時代のことです。著者は、環境破壊は深刻な状況まで来ているが、救いの道はある、ということを提示しています。
わたしは本を差し出しながら、
「この本を読むと、資本主義じゃなくてもいいんだ、ということがわかるよ」
と言いました。
「資本主義じゃない世界を展開する可能性があるとしたら、あなたの成功哲学、成功しなきゃという焦りやお金を貯める方法のお勉強は、全部、ご破算になるよね」
今までとは違うやり方で生活していく道は、細々とでも、でき始めているのですね。まだ、道とは言えないほどの道かもしれませんけれど、誰かが枝葉をかき分けて歩いたところを、次の人がたどり、少しずつ土が踏み固められていく、そうやって、利潤の追求、という常識が、常識ではなくなってきているところがあちこちにあるのですね。わたしは、『人新生の資本論』で著者が示す新しい道について読みながら、山中を走り抜けるサンカ、はたまた忍者を想像していました。密やかな木陰。草いきれ。枝葉を掻き分ける音。口を結んだまま、ただ走る人。走りながら、力がどんどん溜め込まれていくような。今まで常識だったものがあっけなく砕けるほどの力がその人に降りてきているような。そのイメージが、半年以上続いています。
「ご破算で良いのじゃない? 思い込みを全部外して空っぽになって、そこに何が流れ込んでくるか、待ってみたら?」
あの人は、ギターを弾く人だったかしら、とテレビでキースを観ながら思い出していました。キースの真似をしたらいいのにと。
ギターを弾いても弾かなくても(わたしは弾けません。下手っぴです。)キースのように、2コードでいきたいではありませんか。息を吸って。息を吐いて。それで2コード。
死をゴールとするステージ上を駆け抜ける身体、ではなく、
降りてくるものを受け取る器でいたいです。