お金の話(2)
近所に、街の図書館ならぬ街の図書箱があるんです。路上に設置されたガラス戸付きの棚で、本が30冊ほど入ります(詰め込めばもっと)。
読み終えた本を入れてください。読みたい本はご自由にどうぞ。
陽射しがきれいな朝(だけ)、朝の短い散歩をするのですが、その度に、一、二冊ありがたく持っていきます。たぶん、本を持っていける、ということが目的で、散歩と途中で寄るカフェの一杯のアメリカーノはそのついでなのです。
古本屋さんに本をごっそり運ぶのはたいへん。手軽に受け取ってもらえる棚が5分も歩かない位置にあるのは神の恵みと呼びたいくらいで。
本を棚に入れると、そわそわしてきます。翌朝行ってみると「ない!」というのが至上の喜びになってしまい、逆に自分が置いた本がいつまでもそこにあったり、棚がぎっしりで持ち帰るハメになったりするとガッカリしたりという感情の波が煩わしく、本の行方はすべて図書箱がベストタイミングで届くべき人に届く、ということを忘れないで棚に残すようにしています。
誰か読んでくれているかな、などと気にするのは、貸したお金を「有効に使ってくれているのかな」などと思い巡らせるのに似ていて、さもしく感じられます。信頼して手放すのがいいですよね。
棚がいっぱいで持ち帰るハメになり、その本を抱えてカフェに行くとき、コーヒーと戸外の椅子に座り、とっくの昔に読んでもう2度と読み返さないと思っていた本のページを開くと、引き込まれて、その夜もベッドで読んでいたりすることも。
(寝る前にベッドで本を読むのは良くないのはわかってます。でも昔からアメリカ人は読んでいますよね。そうじゃないですか? アメリカのドラマではたいてい読んでいるような。それともウディ・アレンの映画だけがそうだったのかしら?)
日本語の本を持って行ってもいいのかもしれないけれども、小さいスペースに需要の小さいものを置くのは申し訳ないので遠慮します。でも、多和田葉子さんの英訳の本(日本語では出ていない本があります。ドイツ語で書かれた彼女のエッセイや短編は、日本とアメリカでは別々に集めて編集しているようなのです)を持っていったことはあります。
そうでした。お金の話でした。
書籍が高くなったと言う人もいるけれど、本の値段ほど安いものはないと個人的には思っています。執筆から出版、読者の手元に届くまでのプロセス、そこに関わる人たちの情熱を知っているからでもあり、ましてやその本が世界の古典に属するものであれば、古今東西の数えきれない人たちの読書のエネルギーを感じるからでもあるのですが、同時に、大勢の人、特に若い人や子どもが無料で読める本がもっとあちこちにあればいいとも思っています。
(これ、ジレンマです。無料で本が配られるのではなく、一冊ずつ著者に支払いがなければ、その著者の今の執筆活動を支えられないかもしれません。小さい出版社や書店も支えられないかもしれません。でも、無料で簡単に手の届くところにいくらでも選べる本を並べてあげたい、という思いも抑えきれず。)(例えば、古本屋さんの本をわたしたちがたくさん買って、それを街の図書箱に似たところに置いて自由に読んでもらう、というやり方もありますね。)
大勢の情熱によって生み出されるものは、もちろん書籍だけではないでしょう。というより、ほとんどのものがそのようなもので(あるべきで)しょう。それでも、自分がその有り難みを感じないならば、何がしかのお金と交換に自分の手元におくべきではないのではないでしょうか。
飲み過ぎだからこの辺でやめといた方がいいのよね〜と言いながら開けるもう一本のワインは、それが高価なものでも廉価なものでも、無駄で、健康にとってやめておいた方がいいなどというレベルではなく、世界経済のためにやめた方がいいはずです。
お酒を飲まない人でも、「これ食べるとね〜。お腹いっぱいになりすぎ」と思っても食べてしまうこと、あるかもしれませんね。でも罪悪感と一緒に消費するのは最悪です。
「ちょっと買ってみようかな」「ま、安いから買っとくか」(「高いから買おう」という買い物もありますか?)「お金あるからまず土地でも手に入れておこう」などというお金の使い方も、自分を含めた世界の首をますます絞めていくことになると思います。
将来のために買っておく?
なんですか? 将来って。
もう「将来なんて来ない」と言うほどすべてがこんなに疲弊しているときに。
わたしの住んでいるエリアだけではないはずです。ニューヨーク市の地域の活動は活発で楽しい。鷹の夫婦の巣作りを手伝ったり、図書箱だけでなく路上冷蔵庫を設置したり。(冷蔵庫は開けてみたことがありません。胡瓜やトマトが入っているのではないのでは。スナックや缶飲料ではない?と想像していますが)それらの活動を続けるために自分にできることがあれば、そしてそれがお金なら、喜んでありがたく差し出します。
つまり、ありがたい、と心から思えるものにお金を払い、「こんなに安くていいのか」と感じながら胸に抱く、というのが基本だと思っているわけです。
教団にお布施をするのは、たぶん有難いからでしょう。でも、お金それ自体が有難いものには変化しないということを忘れないでいたいですね。また、大枚をはたけば救われると思い込むのは、お金の額によって救われたり救われなかったりするという、大いなる勘違いによっています。そんな勘違いが起こるのは、まやかしの世界に生きている、あるいは、レンズの度が並外れて狂っている色眼鏡で生きてきたか、どちらかではないでしょうか。
その人に、なぜそもそも勘違いが起きたのか、なぜそんな紛い物の色眼鏡をつかまされたのか、と考えるならば、何よりそれを考える自分自身が、眼鏡を外してまっすぐものを見ているかを検証してみる必要がありそうです。
そしてまた、お金と引き換えに何かを差し出す方の側に自分がいるときは、それは例外なしで、いつも命懸けでなければならないと思っています。 小手先でやる、軽い気持ちで提供する、といったことができるのは、そうでもしないと生き延びていけないと信じているからでしょうか。そんな悪循環の中にいるということなのでしょうか。
命懸けで情熱を傾けられないなら、やらない。
「やらない」ということをやる、同時に、命懸けのことをずっとし続ける、ということが、何より大事と思っています。軽い、やっつけ仕事の結果がそこここに転がっているような地球は、無駄が積み上がって窒息しているように見えますね。
お金のことは、また考えたいです。
今回の写真は、コロナ禍の直前、パリからニースへ飛んだ時に、機内から撮ったコートダジュールの朝陽です。翼のロゴが見えるでしょうか? ヨーロッパの格安航空会社です。右側に座った男性が、君はこれ、いくらで乗ってる? と英語で聞いてきました。「たった30ユーロ!」と答えると、彼は「僕なんか12ユーロ」とほくそ笑むではありませんか。すると、その向こう側にいた婦人がそれを聞いていて「ええっ! わたくしはイギリスで購入して110ポンド払ったのよっ」(それぞれ¥4,300、¥1,700 ¥18,000くらい。当時は日本円レートがもっと良かったので値上がりした感覚です)(往復の金額です)。
3人とも、ニースでは大事な人に会う目的があって、だから飛行機代以上の良い経験をしましょうねということで Bon Voyage! となりました。