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花は泥沼にひらく(低音で歌い上げるように)

 花はどこに咲くの。聖なる花はどこに咲くの。泥沼に。怒りの泥沼に。聖なる花は、怒りの泥沼にひらく。

 何それ? 蓮の花?
 なんだか演歌調ですねえ。
 フォークソングじゃないですし、プロテストソングでもない。
 かつてはフォークソングもプロテストソングもよく聴きました。というよりNo! と叫ぶ音楽全部聴きました。パンクはもちろん、ロックも以前は、No! と声を張り上げなくても、「そっちじゃない!すぐに背を向けろ!」というメッセージが必ず含まれていました。Love & Sex はそのまま反戦・反体制のメッセージになり得ていました。愛の営みと政治の関係が容易く可視化できる時代だったのでしょうか。          

 今回は、ジャズの話です。
 ジャズと言っても、マイルスやコルトレーンのことではなく、セレニアス・モンクやサラ・ヴォーンのことでもなく、CRSの誇るM³ のことです。CRSが誇るというのは、わたしたちCRSで全面的に支援しているプロジェクトだからで、つまり4分の1くらいは手前味噌の話になります。

 M³は、世界各国の、女性、ノンバイナリー、及びジェンダーアイデンティティや人種等の理由で差別待遇を受けてきたミュージシャンのためのプラットフォームで、三つのMは、Mutual Mentorship for Musicians=ミュージシャンがお互いに導き合って新しい世界を経験していく、という意味です。
 今まで過小評価されてきたミュージシャンたちが力を取り戻し、意識を高め、正常な居場所に立てるようにと、2020年春の、ニューヨークのロックダウン中に発足しました。パンデミックという閉塞状態から生まれたニューウェーヴの中でもっとも意味のあるグループの一つだと思っています。もちろん、わたしの知るささやかな範囲内でのことですが。
 
 世界市場の音楽の世界も男社会なので、キャリアを高めていく途上で、性的マイノリティ(正確には、女性、ノンバイナリー、LGBTQIA2S)人種的マイノリティ(BIPOC)の導き手がほぼ皆無に等しい。それで大勢のミュージシャンが、孤立して「一人で頑張らねば状態」に陥り、「音楽でやっていくのは難しい、やめる」決断に追いやられたり、「男に媚びて生き残るか、拒んで去るか」の戦場の対決になったり、腕を磨く機会がわずかだったり、仲間との出会いが限られていたり、なにより、ステージに立って、好きな音楽を分かち合えない!というところに追い詰められているわけです。
 ミュージシャンなら誰でも、「この音を聴いて!」「わたしの声を聴いて!」と心が叫んでいるでしょうに。耳を澄ませあって、お互いの音を合わせ、奏であい、リードしたりリードされたり、、、の震えるような至福を、いつも味わっていたいでしょうに。

 それができないのは“自分の足りなさのせい”なんかではなく、「おかしいよねっ!」と怒らなくては、出口なし、です。

 このプラットフォームを立ち上げたJen ShyuとSara Serpa は、世界中から応募のあった性的・人種的マイノリティ(男社会、白人社会から見て)ミュージシャンから12人 x 6ヶ月の単位でグループを作り、zoomを通して皆で出会い、自己紹介し、演奏や歌を聴かせ合い、経験(人生経験も。キャリア経験も)を語り合い、耳を傾け合い、という貴重な機会を重ねました。

 それはもう、出てくる、出てくる、怒り、憤懣の数々。。。マイノリティという理由でブッキングができないなんて、ざらにあること、というより”常識”なのですね。JenとSaraが用意した場所がなかったら、それは怒りとは認識されていなかったものかもしれません。「そういうものでしょ」「しかたないでしょ」「自分の頑張りが足りないのでしょ」で済まされてしまっていたものかもしれません。
 人はやっぱり、安心して怒れる場所がなければ怒れないのですね。聞いてくれる人がいなければ、口をつぐむしかない。

 もちろん彼女たちは(ここでは、彼女とか彼とか、そのどちらでもないとか、面倒な人称分けはしません。そのどれでもない新しい人称、性を超えた人称が欲しいのですが、たぶんいつか見つかると思います。今は“彼女”で通します。)怒りの声を挙げているだけではありません。「わたしもこれがしたかった。この道を探っていた」という声も少なからず上がってきます。

 先に書いたように、それぞれがそれぞれの音楽を披露し合い、すると誰かがそれに合わせて音を出してみたり、、、zoom上のギグが始まることもあります。そのようにして心をオープンにし、友となったミュージシャン同士が、今度は一緒にプレイする準備をし、リサイタルを行うのです。初めて出会う遠方のビオラ奏者とフルーティストが、ドラマーとラテンジャズシンガーが、ベルリンのトランペッターとアルゼンチンのバイオリニストが、刺激いっぱいの初体験をするのです。そこにインドネシアのビデオグラファーが加わったりとか。そして次は一緒にレコーディングしてリリースして、と。

 M³の活動はこのzoomだけではありません。Jen とSaraは、サポーターを募り資金集めをし、メディアにも積極的にアプローチし、(しかもそうしている間にも、二人はそれぞれの新しい作品を創作し磨きをかけ、CDリリースもしました。)(しかもSaraは子育て真っ最中です)第4期が終わった今年の春、初めてのフェスティバルをニューヨークのウエストヴィレッジで開催しました。五日間にわたるこのイベントには数えきれないくらいの国々からミュージシャンが続々と結集し、大事に育ててきたシスターシップの中で、めくるめくステージが展開されました。

 このM³の支援とフェスティバルを通して感じているのは、わたしたちは(わたしたち、というのは、いちいち面倒ですが、女性、ノンバイナリー、LGBTQIA2SとBIPOCのことです。ここに、このわたしたちと心つなげている男性も含めています)今までの男性支配社会のやり方をいっさい踏襲しないという固い決意と結束です。

 フェスティバルの最中、CRSに一人の男性が訪ねてきました。メンタルヘルスケアが要る、助けてくれないか、と。ニューヨークで会計士をしているウクライナ人で、兵役のために祖国に戻り、期間が終わって無事に帰ってきたばかりなのでした。彼の従兄弟もまた戦地に行っていて、「生きていれば来週ニューヨークに戻るはず。でも生死はわからない」。

 そんなことも重なって、ジャズのアドリブを聴きながら、大量の聞き書きを集めた貴重な作品『女は戦争の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシエービッチ著)を思い出していました。
 この本の中で、女たちは「わたしだって戦える!」と自ら志願して戦地に赴きます。あるいは、人なんか殺せない・・・と慄いていた女たちが、「三日ほどで慣れて」いきます。自分の心の襞の震えより、男たちの姿への憧れの方が強いのです。力は自分の内にではなく、男の中にあると思い込んでいるのです。
 彼女たちを批判しているのではありません。自我のメカニズムはこんなふうにできています。力があるとみなしたもの(刷り込まれたもの)に同化しようとするのです。これが、自我の生き延び方なのです。
 もう、うんざりです。
 もう、ヤだからっ! と怒りたいです。
 もう、わたしたちは、「女も立ち上がれ!」という掛け声には耳を貸しません。「男以上に頑張る」などというセリフは聞きたくありません。

 どんなに自分が無力に見えようと、愚かしく、未熟で、怠け者で、アタマも悪いと思い込んでいようとも、力は自分の中にしかないのです。そしてその力は、実は、限りなく強いのです!

 わたしたちは、今まで男性支配社会がしてきたやり方は選びません。新しい道を行きます。
 わたしたちは、自分の内なる柔らかさや、傷つきやすさを、守ろうとしたり制覇しようとしたり避難したり恥じたりする代わりに、かけがえのないものとして抱きしめます。
 やわらかさは、強さだからです。
 わたしたちは、もう決して戦場に足を踏み入れません。代わりに、創造の海を泳ぎます。いいえ、泳ぐというよりも、海水に浮かんで、波に乗って、心ゆくまで戯れます。
 そうやって、お互いにつながっていたいのです。

 M³が見せてくれ他のはそれです。海に戯れる彼女たち(しつこいですが、再度、彼女たちというのは、女性、ノンバイナリー、LGBTQIA2SとBIPOCのこと。おまけに手を挙げた男性諸君。)の、聖なる(と言わせてほしい)花のような笑顔が、彼女たちが共にたどり着いた場所と決意を差し出していました。

 戦場の泥沼から顔を出し、花びらを開いたとき、その花は、もはや戦場とは何の関係もなくなります。それが自由というものでしょう。

 ジャズのインプロビゼーションは、共演者の心の力がつながって、自由なうねりが生まれ、、、客席に届き、、、はい、完全に巻き込まれました。

***画像は、Sara(左)のエッセイ「子育てしながらミュージシャンでいるには」を紹介するJen(右)。2022年5月開催のフェスティバルにて)





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