差別は無意識にしているもの
ここ最近書きたかったことがあるんだけど、それに近しいニュースがタイムリーで入ってきたので書くかどうか迷いましたが、せっかくなので書いてみようと思います。
あまり世間のことを絡めた発信はしていなかったので、関係のない話題だと思って読んでほしいです。
こんな話聞いたことありませんか?
海外で、褒め言葉のつもりで「鼻が高いね」と言うと不快に思われるそうです。
それは鼻が高い=美しいという感覚が日本人の観点であることと、
海外では個性の部分や体の話題に触れるのがタブーという、価値観の違いがあるからです。
差別って無意識なんだよね。
人権用語?とか学校とかで書かされたことあるから差別は良くないことだってみんなわかってるんだけど、
それは有意識であって、実際は意識していないところで誰しもが持ってるものなんだよ。
これは、国際結婚をして知りました。
韓国籍を持つ元夫と話していくうちに知ったことです。
例えば私は韓国に抵抗はないですが、抵抗のある人もいるからあまり公にしていなかったと言うので、そんな人いるの!?と驚きだったのですが
「ヤスコ(私)のお父さん・お母さんや、おじいちゃん・おばあちゃんくらいの年代になると、朝鮮人って言ったら苦手な人は苦手だと思うよ」
と言うのです。
でも何に対してなのかわからなかった。
でも徐々に実感していきました。
たとえば私は、ある肌の色の赤ちゃんを見るとギョッとします。
それが肌の色に驚いているのか、自分と違う色の瞳の美しさになのか、理由はわからないけれど“ギョッと”するんです。
それ以外に言いあらわしようのない感情なんです。
またある時は、街で買い物をしている時に大声でゲラゲラ笑ったり会話している団体客を見ると、少なからず不快感を覚えます。
その人々から日本語でない言語が聞こえてくると、あぁやっぱり外国人か、だよね。って
これが差別なんです。
日本人がこんな大声で話したりしないだろうっていう、他国への差別。
差別はしない、良くないと心で思っていても、自分と違うってだけで自然と感じてしまう違和感や不快感は、無意識のうちに起こることなんですよね。
ちなみにこの大声で話す人たちが外国人だから不快なのではなく、日本語だとしても同じように不快に思ってしまうので、育った環境の違いとか、心地いいと感じる環境の違いなんだと思います。
うちの息子は、最近プリンセスブーム(?)なのか、キレイな衣装への憧れがあるようで、スカートを履いてみたいと言います。
洋服も女の子が選びがちなデザイン、色味を好んでいる気がします。
私は、それもこの子の個性だと思っています。
でも周りの大人は、
「おいおい、やめてくれよ〜?」とか、
「根性叩き直すか!?」と好き勝手に大きなお世話をやいてくれます。
そんなの、アンタが決める事じゃない。本人の自由であり権利です。
気持ちはわかるんですが、自分の大事な子を受け入れてもらえていないような気がして、胸が苦しくなったりもします。
でもね、こんな事を言ってくる大人たちも、職場へ行くと自分はLGBT肯定派の立場をとり、自分は偏見はないと、受け入れられる自分だと思い込んでいるものです。
社会生活の中で自分がしている顔と、内側の声は違ったりすることのほうが多いです。
あなただって、男性的な要素と女性的な要素のどちらも持った人を街中で見かけたら見ちゃうでしょ。どっちなんだろう?とか、どっちもなんだろうな、とか。
同性同士っぽい人が人前で堂々とキスしていたら驚いて見ちゃうでしょ?(もしくは目を背けるかね。)
それは普段目にしない光景を見たらみんな絶対、一瞬ビックリはするんですよ。
不快な人だっているかもしれないし、反対に、センシティブな問題とされている今だから認めようって努力する人もいるかもしれない。
あなたは本当に自分が差別を一切しない人間だと言い切れますか?
たぶん絶対に無理です。
何故なら意識せずとも浮かんでくる感情だから。
性差でなくたって差別はある。
私は田舎の出身ですが、都会の大学に進学した時は、ド田舎者だとよく笑われました。
これは部落差別だと知っていますか?
性差別はダメで、部落差別がアリだとおかしいんです。
都会の人が偉くて、田舎の人はバカにしていいとか、出身地が笑いのネタになるのはおかしいんです。
もし仮に私の故郷が海ひとつ越えた場所なら、日本という国境を越えた場所だったとしたら、人種差別になるってわかってるから誰も笑いはしないはず。
そういうもんです。
だから差別はいけません、とかそこの区切りじゃなくて、
差別をしない意識よりも、差別と思われかねない発言と行動に気をつける事のほうがよっぽど大事なんじゃないかなって。
無意識の感情でいいなと思ったものはいいし、不快だなと思うときはどう頑張っても不快なんです。
だけどそれを思うがままに発言したり態度に出してしまうと、相手や周りの人を嫌な気持ちにさせるかもしれない。
有意識の部分で、しっかりと思いとどめるんです。
声が大きい人たちへの不快感は、日本で生まれ育った私個人の感じ方であって、静かな田舎で育ったからこそより強く感じた不快感です。
彼らにとっては、声が大きい=快活で清々しく、好ましい印象なのかもしれません。
そんなことを考え出したら、自分が正しいと思うことは誰かにとって間違いなのかもしれないし、
自分は褒めているつもりでも相手にとっては馬鹿にする言葉になったり。
『自分にとっての正義は、誰かにとっては悪だ。』
この言葉を思い出しました。
noteには基本的には思ったことをそのまま書くつもりですが、
なんでもかんでも思いのままにできない窮屈さも感じている今日この頃です。
ヤスコ