『HELLO WORLD』二次創作 『一緒に』
第一章 笑顔
仕事からアパートの部屋に帰ってくると、部屋に入るなり俺のスマートフォンがピコンと鳴った。まるで見ていたかのようなタイミングだ。
「今からお宅にお伺いしてよろしいですか?」
一行さんからのメッセージだった。
夜のデートか!
もちろん異論はない。むしろ大歓迎だ。彼女がスマホを使えるようになってくれた以上に歓迎する。
返事を打とうとしたら、もう一度ピコン。
「三鈴も一緒です」
俺の部屋にやってきた一行さんと三鈴は、二人とも両手に大きなスーパーの袋を下げていた。
「今日はパーティーだよぉ」
三鈴ははしゃいだような声で宣言する。スーパーの袋をテーブルに置くと、持参した大段幕を壁に貼り始めた。
そこには、「祝・京斗大学合格!」と、大きく書かれていた。
昨日は、一行さんの大学受験の合格発表日だった。
十年間眠り続けた一行さんは、二十六歳の夏、十六歳の記憶のまま回復した。それから二年後の夏、高等学校卒業程度認定試験に合格し、そのまま冬に京斗大学医学部を受験したのだ。
「合格おめでとう。よかったな」
実質、一年飛び級をしたようなものだ。一行さんの集中力には、感嘆させられる。
「ここからがスタートです。これで気を抜いてはいられません」
どこまでもまじめな彼女だ。
続けて、三鈴はふたつめの大段幕を取り出した。まだあるのか。
二枚目には「祝・国際記録機構研究所移籍」と書いてあった。
俺のことか。
「堅書君もおめでとう。内定出たんだってね」
「クロニクル京都」を主導していた歴史記録事業センターに勤めている俺は、先日、その成果を活用した新規事業、国際記録機構研究所から招待された。
国際記録機構は、国連の下部組織にあたる。「クロニクル京都」の技術をより広範囲に適用し、最終的には地球全体を新たな量子記録装置に保存していくプロジェクトだ。
規模、予算共に今までの事業とは比べ物にならないほど桁が違う。一行さんが回復した今、俺は新たな挑戦をすることにした。
「かんぱーい!!」
三鈴の掛け声と共に、グラスを合わせる。
そういえば、ビールを飲む一行さんを見るのは初めてだ。
「苦い」
一行さんが呟く。
「るりるー、お酒初めてなんだよねー」
「年齢的には二九なので、問題はないはずです。それより、それやめてください」
精神年齢一九の一行さんが答える。
一行さんが酔ったら、どうなるのだろう。興味深い。
「飲み過ぎちゃだめだよー。
そうそう千古教授、大学辞めちゃったんだってね」
三鈴が話題を放り込んでくる。
「あぁ、いちおう定年だからな。クロニクル京都は、リストア中だし、興味もなくなったんだろう。でも、何か別の研究を続けるみたいだぞ」
無限の量子記録装置を作り上げた教授は、新たな興味分野を既に見つけていた。そのための研究活動に、大学も歴史記録事業センターも適さなかったのだろう。今年2040年、ちょうど定年の時期でもあったので、これ幸いと辞めて、個人の研究所を立ち上げてしまった。
「何をやるのかなぁ」
「さぁ、俺にも教えてくれなかった」
おそらく、また何か常識はずれな無限装置を作るのではないだろうか。例えば、永久機関とか。
「るりりんがさぁ、千古教授に教われないのは残念だよね、せっかく京斗大学入ったのに」
「残念なのは、そのとおりですが」
教授の授業は、とてもわかり易かった。難解な理論も、とても平易な表現で説明された。本質をわかってないとできることはない。授業が終わったあと、自分が頭が良くなった気がするのだ。本当にすごい人だった。
「これ、なんですか?」
一行さんが俺の机の上を指差して尋ねる。机の上には、基板や電子部品、銅線といったパーツ類と、ハンダゴテ、ラジオペンチなどの工具が散乱している。
その机の真ん中に、銀色の鉄の球が異彩を放っていた。直径十五センチほどのチタン製のボール。野球のボールよりも一回り大きいが、それより軽い。
「コロネコっていう一種のロボットだ」
「ボールにしか見えないけど、動くの?」
三鈴が立ち上がって見に行く。
「横にあるカラスのバッチ、手に持って」
三鈴は、そっと小さな基板の付いた缶バッチを手にとった。缶バッチにはカラスのイラストが描いてある。
「そして、むこうまで歩いてみろ」
部屋の反対側を指差す。
三鈴は、黙って一行さんの背を通り抜け、部屋の反対側まで歩いた。
銀色のボールが僅かに震える、そして、机の上から転がり落ちた。
ドン。
乾いた音が響く。
「何事ですか?」
一行さんも驚いている。
「まあ、見ていろ」
床に落ちたボール、コロネコは、三鈴を目指し転がりっていく。机を避け、一行さんを避け、三鈴が持ったバッチに近づいていく。
そして、三鈴の足元三十センチくらいのところで、止まる。
「バッチを持った人についていくロボットだ。どこまでもついていくぞ」
「おもしろーい」
三鈴は、机があった側に跳ねるように戻る。
コロネコもコロコロ転がってついていく。
「かわいいですね」
一行さんにも好評だ、よかった。彼女のために作ったのだから。
「外に連れて行っても大丈夫だ」
「盗まれたり、蹴飛ばされたりしちゃいますよ」
「バッチから十メートル以上離れて、三十秒経つと、大音量で盗難防止アラームが鳴る。
それに、チタン製だからとても頑丈だ。ちょっとやそっとでは傷も付かない」
三鈴はコロネコを手にとって、手の中で転がしている。
「おもしろいけど、外に連れて行って何か役に立つの?」
もっともな質問だ。
「Wizクライアントを入れた。音声で使える。
ま、転がって移動できるスマートスピーカーと思ってもらえばいい」
一行さんがスマホを使いたがらないので、せめて連絡用にと思って作ったのだ。
彼女について回り、メッセージがあれば音声で伝える。送りたい時も、誰々に何々と送って、と言えばすむ。だが、最近の彼女はスマホの使い方を覚えはじめた。いらないかもしれない。
それを説明すると、一行さんは。
「部屋の中でなら・・・使ってみます」
動けるように作ったのに残念だが、至極まっとうな判断をした。
「だってそれ、階段、登れないですよね」
外で、ちょっとした段差があると引っかかってしまう。足を出すような複雑な仕組みは組み込めなかった。
「だからうちの中でなら、と思いまして。かわいいので、嬉しいんですけど」
受け取ってもらえるのなら、俺も嬉しい。作ってよかった。
「部屋でなら、ふつうのスマートスピーカーでよかったじゃん」
三鈴が呟く。
酔いも回ってきて、三鈴は赤い顔になっている。
一行さんは、変わらずちびちびとグラスを舐めている。
「一行さんは変わらないな、お酒強いんだ」
「こんな苦い飲み物を好き好んで飲むのは、なぜなんでしょうか」
難しいことを軽く聞いてくる。俺は少し考えて答えた。
「辛いことを忘れるためだ」
「忘れたいのですか」
「俺は、忘れなかった、忘れたくなんかなかった。だからあの頃、一度も酒は飲まなかった」
「私のこと、ですね」
過去の事情を掌握している三鈴は、すかさず話題の方向転換をする。
「お酒を飲むのはね、笑うためだよ。
ほらほら、なんか楽しくなって、笑いたくなってくるでしょ」
けらけら笑い出す。
「るりるるーもね、飲むときは笑うんだよ」
ちびりちびりとグラスを眺めつつ舐めている一行さんは、顔を上げて俺を見た。
昔から彼女は笑わない人だった。
だけど、回復した彼女は。
入試に合格した彼女は。
ぼくと一緒にいる彼女は。
幸せに向かっている彼女は。
その笑顔は、太陽のような輝きに見えた。
第二章 ふたりで
一行さんは市の図書館で勉強をしていた。大学の図書館は、日曜で休みだったからだ。
俺は、隣の席に座る。
「今晩、食事を一緒にどうだ?」
週末、仕事のない日は夕食をいつも一緒に食べている。本当なら聞くまでもないことだ。だが、今日は改めて聞いておきたかった。
「いいですよ。どこかお目当てはあるのですか?」
ノートから顔を挙げずに、ひそひそと答える。
「レストランを予約してある。七時に」
「わかりました。一緒に行きましょう」
図書館は五時で閉館だった。
夏の五時は、まだ明るい。
予約の時間まで、京都駅前のショップを二人でぶらぶらする。
「これ、カラスですね、かわいいです」
ガラスのクリスタルでできた鳥の置物だった。デフォルメされているが、インコよりはくちばしも胴体も長い。おそらくカラスで間違えないだろう。松本伊代か。
俺は一行さんに聞いてみた。
「八咫烏(やたがらす)って、知ってるか? 三本足のカラスで、導きの神だそうだ」
「いいえ、神話ですか?
そういえばコロネコのバッチもカラスでしたね。コロネコを導く印だったのですね」
「ほんとは、ヤタに俺を導いてほしかったのかもしれない」
彼女が回復する前の自分を思い出す。
「どこに導いてくれるのでしょう?」
俺はちょっと考えて答える。
「きっと新しい世界だ」
一行さんのいる、と付け加えたかった。
この置物のカラスは、二本足だった。
「なら、私たちには必要ないですね。
導きを求めるのは、今に満足できない人です。私たちは今、幸せを感じている」
二人で交際をなし得ている。
勉強は辛いけど、仕事も大変だけど、一緒にいる。二人でいられる。
彼女も同じことを感じてくれている。
「そうだな」
レストランに着いたのは、予約の五分前だった。
席に案内され、向かい合って座る。
杖をテーブルに掛け、適当に料理に合うワインを持ってくるように頼む。
俺は一行さんをしばらく見つめた。これから話すことに、驚くだろうか。怒らないだろうか。悲しまないだろうか。
ワインが注がれ、グラスを軽く合わせる。
「国際記録機構研究所に行くことになったのは知っていると思うが・・・」
彼女はまじめにうなずく。いつもまじめだ。
「そこが研究所を月に作ることになったそうだ」
言葉を切ると、グラスの白ワインをひとくち含む。
「月・・・ですか。お空の?」
「そう、あの月。うさぎが餅つきしているところ」
一行さんもワインを飲む。
「それで?」
「月に行くことになるかもしれない、というか、たぶんなる」
一行さんは目を見開き、そして伏せる。
「それは、堅書さんの仕事が認められているということですか」
「ああ、そうだ。アルタラの知識、クロニクル京都の功績、そして、きみを目覚めさせたこと」
一行さんを回復させた手段、経緯については、千古教授に結局見破られてしまった。そして、その件については、論文発表をすることになった。人体実験じゃないか、という批判もあったが、回復した事実は動かし難く、脳神経修復の成功例として公表をした。
「機構は、月に新しい量子記録装置を作る。アルタラIIだ。その開発を主導することになるだろう」
「いつから・・・?」
「まだわからない。でも、ムーンベースが完成してからだ。早ければ二年先くらいで移住が始まるだろう」
俺は、月には行きたかった。宇宙に行くのは夢だった。
宇宙に行ける、そう聞いたとき俺は最初、舞い上がった。だけど、一行さんと別れるわけにはいかなかった。離れ離れになりたくはなかった。
「でも俺は、四年後からの移住を希望する」
一行さんが大学を卒業するのは四年後だ。彼女はすぐにそれに気づいた。
「私のせいですか?」
「半分は、そうだ。
でも、もう半分は・・・怖いんだ」
「なにがですか?」
「月に行くのが。一人で行くのが。きみのいない所にいくのが」
「私が学生だから、だから四年後なんですよね?」
「きみが卒業して、一緒にいきたい、それだけだ」
一行さんは、量子精神データの医療活用を研究したいと話していた。自分のような人の、回復を助ける仕事をしたいと、そう言っていた。
だから、アスタラIIがある月に連れていきたい。彼女の夢には、アルタラIIが必要だ。
そして、いつまでも二人で支え合いたい。
「宇宙は、怖くないですか」
「きみと一緒なら」
ジャケットのポケットから、箱を出す。
箱を持った手を、一行さんの顔の前に出す。
「なんですか、これ?」
一行さんが箱を受け取る。
箱を開く。
「結婚してください」
本当に小さなダイヤモンドの付いた指輪が光っていた。
「大冒険ですね」
冬の足跡が近づいている中での引っ越しだった。
三度目の引っ越し。
俺は大学に入った翌年、築六十年、共同キッチン・共同トイレ・共同シャワーの安アパートに引っ越しした。そして、地域記録事業センターに就職した年から俺の家はアルタラだった。アパートに帰ることはなかった。
一行さんが回復した後は、学生時代よりは少しマシな安アパートに住んでいたが、今回、共同生活をするため、2DKの木造アパートを借りることにした。
足の悪い俺のために、一階の部屋だ。荷物の運び入れは、引越し業者がやってくれた。
荷解きをするために、軍手をしたら、グッドデザインを思い出した。
俺が作り、記録世界の直実に使わせた、神の手。
最後の直実の表情は忘れられない。「先生」に裏切られた直実。大事な人を奪われた直実。俺が奪った。
そして、その世界をリセットし、今なおそのリストア作業が続いている。
直美を殺したも同然だ。俺は一生、あの表情と罪を背負っていく。
一行さんは、手伝いに来た三鈴と共に台所周りの小物を整理している。コロネコが、台所を転げ回っている。けっこう気に入ってくれているようだ。ありがたい。
俺は引越し業者に礼を述べたあと、本の整理をする。一行さんが大学を卒業し、月に行くまでの仮の住まいだ。荷物は少ない。
それでも、一行さんはけっこうな量の本を持ち込んでいるし、俺のパソコンの機材も少なくない。
棚が必要だな。本棚も。
片付けが一段落した後、どういう理由かわからないが、昼食は蕎麦だと言い張った三鈴に引っ張っられ、近くの蕎麦屋に行き、その足でホームセンターに買い物にでかけた。
棚や本棚の売り場を探す。
「るりるーはさぁ、堅書瑠璃なのかな」
「一行瑠璃です」
夫婦別姓を選んでいた。
「そっか、るりるりは、るりるりだねー」
よくわからない納得をして、両手で二人を指差す。
「だけどさ、結婚したのにまだお互い名字で呼び合っているの? 堅書君も、るりるりのこと名前で呼んであげたら」
名前で呼ぶ?
図書委員の頃からずっと一行さんと呼んでいる。一行さんが眠っている時も、ずっと一行さんだった。
付き合い始めてからの時間だけみれば、十三年。
だが、回復してからの二年間、一行さんは受験勉強で忙しかった。
俺たちが心を通わせた時間は、付き合ってから一年にも満たない。
それでも、プロポーズし、結婚式をあげた。それがつい先月。
結婚式は、お互いの親だけ呼んで、近くの神社で挙げた。ささやかなものだった。
一行さんがうつむき加減に尋ねる。
「堅書さんは、名前で呼んでほしいですか?」
大きく頷く。
もちろんそうだ。
「俺も瑠璃さんって呼んでもいいですか?」
「い、いいですよ」
一行さんは、赤面している。
「瑠璃さん」
「な・・・な・・・堅書さん!」
難しそうだった。無理することはない。
それのほうが一行さんらしい。
「そんなことやってるうちにさぁ、棚のコーナー、通り過ぎちゃったよ」
三鈴が呆れていた。おまえが言い出したくせに。
第三章 克服
2045年に入ると、月面への移住準備がいよいよ忙しくなってきた。
去年、瑠璃さんは無事大学を卒業したものの、大学院に進むことになった。
オンラインで大学院に通うこと自体は、めずらしいことではない。しかし、月面から参加する学生は、間違いなく初めてだ。
2031年頃、地球-月間のスカイフックが完成し、ムーンベース群の建築が始まった。
スカイフックは、月と地球の間のラグランジュポイントから両端にワイヤを伸ばし、そのワイヤの先端には宇宙ステーションが繋がれている。地上に固定されていない軌道エレベータみたいなものだ。
地球と月の間を行き来する、荷物や有人船を、ワイヤに沿ってテザー推進で移動させることで、安全に低コストで運搬できる。
地球から月に行くには、低軌道の宇宙ステーションまでロケットで行き、あとは月までロープウェイで行くようなものだ。
スカイフックにより、月と地球はとても近くなった。
こうして月面基地、第一工期ムーンベース群が完成したのが、2042年。三年前のことだ。
ムーンベース群の役割は3つある。
ヘリウム3の採掘、量子記憶装置の設置、月の裏面への宇宙観測望遠鏡の建築だ。
そのうち、ふたつ目のミッションを、俺たちが担うことになる。
各ミッション毎に、居住区と作業区のふたつのムーンベースがある。さらに、環境維持棟、生命維持棟、エネルギー供給棟、発着棟といったインフラ基盤のムーンベースがそれぞれある。
二年前から、国際記録機構研究所のムーンベースは稼働しており、三鈴は最初の移住グループでムーベースに向かった。
ムーンベースは、国際宇宙ステーションと比べると、空間もエネルギーも豊富だ。だから、ムーンベースに勤務する人の家族も一人ないし二人の同伴が可能だった。
瑠璃さんは、俺の家族枠で月に行く。
月に行き、大学院を出て国際記録機構研究所に就職する、そういう算段だ。
俺たちは第六次移住グループとして、今年の十一月に出発する。
その移住者向け訓練施設が、日本では筑波にある。
そこで約二ヶ月間、宇宙生活のための訓練を受けることになっていた。瑠璃さんも、大学院を休み、一緒に訓練を受けている。
八月の下旬。訓練が始まって三週間が経った。
彼女にとって訓練は、順調ではなかった。
実技訓練では、ワイヤーで吊り下げられることや、宇宙服を着ての高所での実地作業がある。八十センチの高さで、気を失った彼女にとってそれは、最大の課題であった。
「本能的に高いところは怖いのは、あたりまえだ。俺だって怖い」
高いところは怖い、という脳内の関連付けを薄められればいいと考えていた。
だが、そういったところで。瑠璃さんには、何の効果もなかった。
一朝一夕に克服できるものではない。
筑波に来てから、週末はビルの展望ラウンジで食事したり、橋を歩いて渡ったりして、高さに慣れさせていった。
そんな休日の帰り際。
「来週、筑波山に行きましょう」
彼女は意を決したように宣言した。
「いいのか?」
「だって、大文字山に登ろうと誘ってくれたじゃないですか。覚えてます?」
覚えていないわけがない。瑠璃さんとの、あの2027年の思い出は全て、忘れようもない。
頷きながらも、心配になる。
「大丈夫か? 山だぞ。高いぞ」
「堅書さんと一緒なら、きっと大丈夫です。
やってやりましょう」
次の週末。
レンタカーで、宮脇駅に到着した。
筑波山には、登山道の他にケーブルカーとロープウェイがある。
彼女にとって、どれが一番怖くないだろうか。歩くのが地に足がついていて良い気もしたが、景観で動けなくなった時にフォローが効かない。
結局、車体の大きなケーブルカーで登ることにした。
「ほんとうに大丈夫か?」
スマホで見せたケーブルカーのガイド写真「雄大な展望」を見ただけで、青ざめている。
「大丈夫です。目をつぶっていれば、着きますよね」
それでは意味がない気もするが。
まずは成功体験が必要だ。
発車時間になった。
ガクン。
動き出す。
「だいじょうぶ、ダイジョウブ。たった八分」
車体の真ん中に座って、コロネコを両手で抱え込む。
彼女は、予告通り目をぎゅっとつぶっていた。
いつ倒れるかと思うと、隣りに座った俺も展望を楽しむどころではなかった。
そして、標高八百メートルの筑波山山頂駅に到着する。
「着いたぞ」
動かなかった。
「降りるぞ」
手の中のコロネコを取り上げる。
目を開けた。
手を貸し、立ち上がらせ、ホームに降り立つ。
彼女はきょろきょろと周りを見回し、怖くないことを確かめる。
「気分悪くないか?」
「はい・・・大丈夫です」
握った俺の右手は離さない。俺は左手のコロネコを、そっと地面に下ろす。
手をつないだまま駅舎の出口に立つと、広場にお土産屋や茶屋が並んでいる。人も多い。
瑠璃さんの足取りも、しっかりしたものになってくる。
「とうとう来たな。標高八百メートル地点だ」
力強く、手を握り返してくる。
「はい、やってやりました」
反対の手でグーを握る。
「むこうに展望台があるぞ、せっかくだから景色見てくか」
「堅書さん・・・が、見てきてください」
駅舎からは出る気はないらしい。
でも、ここまで来られただけでも、今日は成功だろう。
「じゃ、引き返えすか」
その時、すぐ脇で子供の声が響いた。
「わ、なんだこれ!」
ボールかと思ったのか、その男の子は、コロネコを勢いよく蹴り飛ばした。
「あっ」
瑠璃さんが慌てて追いかける。
展望台の柵の方に転がっていく。
彼女は走りだした。腕を伸ばす。そして、飛びついた。まるでホームベースへの滑り込みのように。
届かない。
コロネコは転がり続け、展望台の柵を越えた、その時。
強烈なバックスピンをかけた。
軽く土埃があがる。
蹴られた勢いを回転の摩擦で殺したコロネコは、柵の中にコロコロと戻ってきた。
そして、まだ腕を伸ばして横たわっている瑠璃さんの手の中に、すぽっと収まった。
「瑠璃さん!」
俺は、大急ぎで駆け寄る。
肩に手をかけて、立たせようとする。
彼女は、動かなかった。
腕を伸ばし、コロネコを掴んだ手をそのままに、瞳は、柵の向こうを見ていた。
「遠くを見ると、綺麗ですね」
ひざまずいたまま俺も、柵の向こうを見る。
遥か彼方の山脈と、青空が柵に切り取られていた。
「すみません」
少年と、その母親らしき人がやってきた。
「お怪我はありませんか?」
瑠璃さんと俺は立ち上がる。
「ええ、大丈夫です」
瑠璃さんは、コロネコをかざすと、少年に見せた。
「これはね、とっても大事なものなの。だから、蹴らないでね」
あんなに必死に追いかけて、助けようとしてくれた。
少年は、泣きそうだった。そして俺も。
しきりに謝りながら、少年とお母さんが去って行くと、俺たちは茶屋に入り、ざる蕎麦を食べ、帰路についた。
帰りのケーブルカーでは、瑠璃さんは目を閉じていなかった。
ずっと遠くを見つめていた。
第四章 決意
ここ、月の北極圏に建造されたムーンベース群のうち、国際記録機構研究所のムーンベースは二棟あった。
ひとつは、アルタラII本体を地下深くに持ち、地表面にコントロールセンターのある研究棟。もうひとつは、それら研究員達の居住棟である。
本体が地下深くにあるのは、宇宙電磁波の分厚い防護シールドを何層も重ねているためだ。太陽からのX線やガンマ線は、地球上であれば地磁気が保護してくれている。月にはそれがない。だから、太陽フレアの影響は大きい。
太陽フレアは、大規模なものが数年に一度、太陽活動周期に沿いつつ、または突発的に発生する。量子記録装置は、デリケートなパーツが多いため、宇宙電磁波から確実に保護しなければならない。そのため、太陽フレアのM等級以上の発生が確認された場合は、30分以内に通信を遮断し、電源を内部電源に切り替えて、完全な閉鎖状態となるシェル形態に移行する措置がとられる。物理的に隔離するのだ。
私は、三鈴とアルタラIIコントロールセンターの見学ルームにいた。ガラス越しに、コントロールルームが見下ろせる。
堅書さんが、ダイブする実験が行われる。それを見学していた。
月に来て一年半、私はこの春、大学院を卒業した。
そして、脳神経と量子精神データ活用の研究班に入所した。三鈴と同じチームだ。
アルタラIIの完成も近づいていた。アルタラIIが運用を開始すれば、クロニクル京都のアルタラIは終了になる。あとわずかだった。
「堅書直実の精神量子変換を開始します」
オペレータが声を発した。
アルタラIIへのダイブ実験は、もう何度も行われていたが、今日は、アルタラIIの量子記録データ内にある、アルタラIにチェーンダイブすると聞いて、不安になったのだ。
アルタラIは、2037年以降、リストア作業を行っていて、休止状態であった。
9年におよぶデータ修復作業は、ついに先月終わり、再稼働したばかりだ。
アルタラIIは、試験的に地球の一部の記録を始めている。だから、2046年以降の記録は、アルタラIIのネイティブデータとして存在する。
京都市もその一部だ。
しかし、2046年以前の記録については、アルタラII内に存在するアルタラIのデータを参照するしかない。
今日は、アルタラIの京都市の過去の記録にアクセスできるか、それを確認するということだった。
過去の京都市の記録。2020年から2037年までの記録。
あの2027年の宇治川花火大会も、その記録の中にはある。
堅書さんは、今日のテストで花火大会に行くことはない、言っていた。ただ、京都の過去の記録にアクセスできるかどうかを確認するだけだと。
だけど、いつの記録を確認するつもりなのか。それは聞けなかった。
「そんな心配そうな顔しなくったって、大丈夫よ」
三鈴が私の肩をぽんぽんと叩く。
よほど必死に、私はコントロールルームを見下ろしていたのだろう。
「アルタラIIは、未完成だけど、彼はもう何度もダイブしているからね。絶対大丈夫だから。もっと力抜きなさい」
「だけど、今日は、京都に行くって聞いて、それで心配になりました」
なんだろう、胸騒ぎがする。
「精神量子変換、第一段階完了。アルタラIIに入りました。心拍、脳波共に正常」
ダイブしている人間が何を見ているかは、こちらの世界からはわからない。シュレディンガーの猫。
中で何が起きているのかもわからない。
それがもどかしい。
「続けて、第二段階。アルタラI論理境界を越えます」
いよいよだ。
「接続完了。問題なし」
ふっと、力を抜く。
「ねっ」
三鈴がにっこりとする。
「これでしばらくは、中でテストを行っているから、動きはないわ。あちらでお茶でもどう?」
「はい、お供します」
二人で、休憩コーナーに向かおうとしたところだった。
コントロールルームに、アラーム音が響く。
私は、見学ガラスに飛びつく。
「このアラームは、太陽フレア!」
三鈴がコントロールルームの右端の画面を示す。
「予報ではなく、発生アラームね。規模は・・・X!?」
等級Mよりも大きい等級Xの発生だった。
「まずい、通信が遮断される」
コントロールルームは、蜂の巣をつついた騒ぎになっていた。
「実験中止! すぐに直実を回収しろ」
「直実に緊急連絡、メッセージを送れ」
「シェル形態への移行が開始されました」
「移行シーケンス、止められないか!? 直実がまだだ」
「止められません」
「通信確保を最優先。できるたけ時間を稼いで」
「電源系統、順次切り替わっていきます」
太陽フレアの、高エネルギー荷電粒子は、フレアの発生から約30分で地球圏に到達する。
そのため、シェル形態への移行は、フルオートで30分以内に終わるように設計されていた。
しかし、ダイブ中に移行が始まることは、想定していただろうか。
私も三鈴も、ただ見ているしかなかった。
白い世界。
虹色のトンネル。
万華鏡。
2027年、京都市。
入れた。アルタラIの記録世界。
錦高校の校門に立っていた。
この世界の人間には、俺は見えていない。
転送座標も正確だ。
設定した時間は、一行さんが微笑んだ、あの日。
あの笑顔を見たら戻ろう。今日は、アクセスできることを確認するだけだ。
校庭を通り、校舎に入り、図書室に向かう。
その時。
大きな破壊音が、校庭で響いた。
「なんだ!?」
慌てて校庭に出る。
校庭の中心付近に直径一メートルほどの黒い穴が空いていた。穴の周辺が、ブロックノイズに壊れている。
空を見ると、何本かの筋が、空から街に降っている。
「隕石か?」
校門から、狐面が現れた。大きな胴体を揺らし、穴の方に走っていく。
修復するつもりだ。
ということは、あの穴はデータ破損?
なら、あの隕石はなんだ?
生徒たちも校庭にぞろぞろと出てきた。
「なにごと?」
「なに、あれ?」
そんな生徒たちの中に、一行さんを見つける。
その時、カラスが俺の肩に止まった。飛んできたことには気づかなかった。
くちばしにメッセージカードを咥えている。
「太陽フレア発生、すぐ帰還せよ」
こんなときに!?
この隕石は、電波バーストか。
ノイズが量子記録を乱している。
すぐ戻らないと通信が遮断され、肉体から意識が遮断されてしまう。
校庭は、自動修復システムが直す。大丈夫だ。
俺が飛び上がろうとした、その刹那。
上空から破裂音。空気の裂ける音。
隕石が、こちらに向かってくる。
「まさか!?」
とっさに一行さんを探す。
当たるな!彼女にだけは、当てないでくれ。
走り寄る。
一行さんを突き飛ばそうとした。腕が彼女の体をすり抜ける。
物理権限つけてくるべきだった。
彼女に覆いかぶさる。
隕石が、俺の体を突き抜ける。俺の胴体がブロックノイズに壊れる。
そのまま、隕石は一行さんに突き刺さる。
一行さんの体もブロックノイズになる。
「くぅ!」
またか! また失うのか。彼女を。一行さんを!
戻らないと・・・体が動かない。
破壊された俺のデータ。意識を保てなくなる。
世界は黒くなった。
太陽嵐から、3日目。
アルタラIIはシェル形態を解除し、通信も復旧したが、彼の意識は戻らなかった。
太陽フレア発生時、シェル形態への移行は時間内に完了し、質量をもった高エネルギー荷電粒子からハードウェアは防御された。先行して到達していたX線、ガンマ線での内部のデータ損傷は軽微だった。それは自動修復システムが修復した。
しかし、その修復対象に、堅書さんの量子精神は含まれていない。
彼がこのままで目覚める見込みはなかった。
地球に戻し、病院での治療をするか、そういう意見も出たが、彼の意識を取り戻すには、「脳量子データを用いた相補的神経修復」を行う必要があると判断された。
しかし、その元となる量子精神データは、どこにもなかった。
今、アルタラIIの中にあるのは、2046年以降の地球の一部の記録。そこには月にいる私たちは含まれていない。
あとは、アルタラIの中にある2037年以前の記録。そこには、私が回復した後の、堅書さんはいない。
私が回復する前の堅書さんは、狂気をまとっていた。そのデータは、今の、優しい勇気ある堅書さんとは大きく隔たりがあり、肉体の脳と同調できない。
今の堅書さんに同調する量子精神データがない。
どうしたらいいのか。
ないのなら、作るしかない。
私は決意した。
私は、彼を助ける。
たとえ世界を壊しても、あなたを救ってみせる。
「やってやりましょう」
拳を握りしめた。
-- 完 --