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二次創作『オーバーライド』

映画『HELLO WORLD』の二次創作です。盛大なネタバレと共に、視聴済の方向けに書いています。本編の世界観と設定を共有したオリジナルのサイドストーリーです。本編の主要キャラクタは出てきませんので、そこを期待しないでください。願わくば楽しんで読んでいただけますように。
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 夏の夕立、雨粒が頬に当たる。その気持ち悪さが些末事に感じほど、眼の前に広がる光景は異様だ。空は赤いオーロラが覆い、塵のようなものが次々とオーロラに吸い込まれていく。塵ではなく、車やビルだ。あまりに多くて小さく見える。
 遠くの街の一区画がせり上がり、垂直にそそり立っている。そこから分解された建造物が塵となり上空に吸い込まれていく。近くでも民家やアスファルトが次々に分解されていく。周囲は欠片としか言いようのない物ばかりだった。
 この破壊された街の景色は、戦場のニュースで見たような荒涼さではない。過疎地域の廃れた様子でもない。ビルの工事現場のような中途半端さとも違う。そう、一番近いのは、描画処理が止まってしまったオープンワールドゲームの街。不自然な不完全、パーツが欠けた街並み。
 止まった時間。その中、私は一人、街が分解していくのを見ている。いや、もう一人、この壊れていく街を見ている子がいるはずだ。
 堅書直実、男子高校生。彼は今どうしているだろう。

はじまり

 京都市職員との4月度の定期ミーティングが終わり、足早に会議室を出る。今日は土曜日なのに市の職員だけでなく、京都府庁の人間も参加していて、定期ミーティングにしては仰々しい会議だった。
 エレベータに乗ると、緊張を解く息を吐いた。
「今日は順調でしたね」
 プルーラの量子記録装置エンジニアリングチームメンバーの赤井くんがほっとしたように囁いた。キミが作った資料がわかりやすかったからだよ、とリーダーの私は彼を持ち上げておく。
「で、この後またバイトですか?」
「そ」
 エレベータを出て、私はにこやかに手を振り、赤井くんと別れる。府庁一号館から隣接する歴史記録事業センターに向かった。
 “Pluura 址指しし 有佳梨ゆかり” のIDをかざしスタッフ専用口から入館する。
 更衣室に入ると手早く制服に着替え、後ろ髪をお団子にまとめる。ロッカー扉裏のミラーに描いてあるペンギンに向かって笑顔を作る。そのできを確認すると、一般見学者の集まるホールに出ていった。今日もアルタラ見学コースの希望者は多い。外国人を含む6名の参加者が待っていた。
 歴史記録事業センターの中を京都市の立体映像や映像資料を使い、クロニクル京都プロジェクトの意義や仕組みを一般の方々へ説明するガイダンスのアルバイトを時々やっている。
「今から七年前の二〇二〇年、プルーラ、京斗大学、京都市、の三者による共同事業計画が始動いたしました。クロニクル京都です。世界最大のウェブサービス企業プルーラの仕事は、すでに皆様ご存知の通りで、マップなどのサービスはもはや我々の生活から切り離すことができません。その二次元の地図記録を、より三次元的に、より詳細に、さらに時間的過去まで遡って、あらゆる時代のあらゆる都市情報を記録に残す、それがクロニクル京都事業なのです」
 プルーラエンジニアリングチームの私が、忙しい合間をぬって、なんでこのアルバイトをしているのかといえば、趣味だ、の一言に尽きる。普段、端末の前にかじりついているだけのエンジニアをやっていると腐ってしまう気がするのだ。女は見られてキレイになる。そう信じて人前に立つ機会を意図的に作っている。
 今回の見学者には、一人の高校生が参加していた。顔も格好も特段特徴的なことはなかったが、その子は時々ブツブツつぶやいたり、何もない横を向いたり挙動不審だった。挙句にはコースの途中で逃げ出すように帰ってしまった。量子記録装置アルタラの実物を見ることのできるという、最大のクライマックスの最中に、だ。男の子が一番好きそうなところなのに。おかしな子だったな、とその時は思っただけだった。

 翌日、プルーラのオフィス。赤井くんとチャットで、クラス継承におけるメソッド設計についてディスカッションしていると、そういえば、と赤井くんが話題を変える。
址指ししさん、ドローンの件、聞きました?」
「何かあったの?」
 添付されてきた書類を見ると、京都市からのレポートだった。読むと、出町柳の河原でドローンが一台墜落した事態が報告されていた。それだけならよくある気もするが、問題はその墜落で市民に怪我人が出たらしい。市が問題視しているのはそこだった。
「まずいわね、ドローンチーム、大丈夫かな」
 次のページには、その怪我した人のプロフィールも記載されていた。
「あ、あの子」
 写真は、昨日アルタラ見学コースを途中抜けした高校生だった。改めて事故の日時を確かめる。見学コースの後の時間だった。直後と言っていい。歴史記録事業センターと事故現場の出町柳の距離からいって、見学コースを抜けてすぐに移動したことになる。
 見学コースを最後まで聞いてくれれば怪我しなかったのに、と考えた後、慌てて出ていった様子を思い出し、不穏な思いつきを得た。なにかの方法で、わざとドローンを落とした? それともまさか、ドローンが落ちることを知っていた? 一介の高校生にプルーラのセキュリティが破れるとは思えないし、未来予知なんて問題外だ。あの時の挙動不審から、そんな妄想が出ただけだ。
 堅書直実。名前を覚えるとなしに見ていた。

邂逅

 まだ梅雨に入っていないのではないかという快晴の六月半ば。市の職員とのちょっとした打ち合わせをやっていた。先方の都合で、市役所ではなく中京区役所に来ていた。ふだん使っている府庁舎に比べて普通のオフィスビルだ。
 打ち合わせが終わり階段で三階から徒歩で降りていく。すると二階のところで白いパーカーのフードをかぶった女性が、私のことを手招きしている。怪訝に思いながら近づくと、二階のカウンター窓口の方を遠慮がちに指差す。見るとその先には、男女の高校生二人が、市の職員に頭を下げて何かお願いをしている様子だった。
 指差す女性に視線を戻して尋ねる。
「私に何か?」
 相手は目深くかぶったフードで顔も表情もよく見えない。人目のない物陰で、素性のわからない相手とフロアを覗き込んでいる自分が自分で怪しい。
「よく見なさい」
 もう一度、高校生たちを指差す。
 二人の高校生をよく見ると、男の子の方は見覚えがあることに気づいた。出町柳のドローン墜落報告書にあった写真の子。アルタラ見学コースを途中抜けした子。名前は、そう、堅書直実。
「あの二人、もうすぐ付き合い始めるのよ」
 場違いなセリフに力が抜ける。そんなゴシップを知らせるために、わざわざ呼び止めたのか? さらなる不審感を露わにして、私はフードの女を睨めつける。
「話があるの」
 彼女は、今度は天井を指差した。このビルには屋上庭園がある。
 そして彼女は、フードを取った。
 エレベータで屋上に出ると、夕方のこの時間、陽は傾き空に赤みが指し始めていた。木陰になっているベンチに並んで座る。周りには誰もいない。話とやらを聞いてやろうじゃないか。
 フードの下に隠されていた顔は私だったからだ。

世界の仕組み

「ここはアルタラに記録された世界、量子データの世界だ」
 フードの私は、開口一番そう言った。
 もしかしたらそうかも、と自分のドッペルゲンガーが現れたことで察していた。アルタラの開発に携わるものは誰でも考える。現実世界$${W}$$にあるアルタラに記録された世界を$${W_1}$$とする。$${W_1}$$ の中にあるアルタラが記録する世界$${W_2}$$。また$${W_2}$$のアルタラが記録する世界$${W_3}$$。無限に続く記録世界。現実世界と記録世界の区別は、世界の内側にいる人間には判別不能。ゆえに、この世界が現実世界である確率は無限に小さい。
 そして無限に続く世界連鎖の中で、この世界がどの階層に位置するのか、それを考えることも無意味だ。
「ワタシはここの上位の世界からアルタラに潜ってきた。時間軸は十年後、二〇三七年の人間だ」
「わざわざ何しに? 私に彼氏を作るため?」
 上位世界の私は、呆れた顔をする。
「この世界を救ってもらうためよ、あなたに」
 呆れた顔をするのは、今度は私だ。
「救世主っていう柄じゃないと思うけど。あなたが私ならわかるでしょ」
 彼女は、ふふふと笑う。
「昔、近所に住んでいた一行瑠璃ちゃん、覚えている?」
 話題の飛躍に戸惑いつつ、もちろん、と返す。
 私の父が恩師と呼ぶ一行家のおじいちゃん。家族ぐるみの付き合いだったから、その孫娘にも何度か会ったことがあった。
「二階にいた女の子。瑠璃ちゃんだよ」
 気づかなかった。いつも本を読んでいるおとなしい女の子だった覚えがある。私が中学生の頃、『ガンバの冒険』をプレゼントしたことを思い出す。彼女が小学校に上がったばかりだっただろうか。いつの頃からか、おじいちゃんの具合が悪くなったと聞いてから、十年近く会っていない、と思う。
 彼女は夕焼けの空を見上げる。
「さて、ちょっと長い話になるよ」
 彼女の世界のさらに上位の世界から“私”が来たこと。その“私”は、一行瑠璃と同じチームのメンバーで、あるプロジェクトに関わっているとのこと。その世界の大人の瑠璃ちゃんは量子記録の精神医療への応用を考えているらしい。その治療の過程で、私のこの記録世界が壊れてしまうとのこと。隣にいる上位世界のワタシと、さらにその上位の“私”は、私のこの世界を守ろうとしている、そういう話だった。
 説明が面倒なので、私のいるこの世界をA世界とする。ひとつ上の世界、フードをかぶったワタシの世界をB世界、さらにその上位の一行瑠璃とプロジェクトを進めている“私”がいる世界をC世界と呼ぶことにする。私は $${^{\scriptsize{A}}\!\!}$$有佳梨で、隣にいる十年後のワタシは $${^{\scriptsize{B}}\!\!}$$有佳梨だ。さらにその上位のC世界の“私”は $${^{\scriptsize{C}}\!\!}$$有佳梨と記述する。
「一行瑠璃と一緒にいた堅書直実。下にいたあの二人は付き合いはじめる。それが結果的にこの記録世界を破壊する。詳しくはワタシにも教えてもらえなかった」
 そう話しながら、$${^{\scriptsize{B}}\!\!}$$有佳梨は私の腕を掴もうとした。$${^{\scriptsize{B}}\!\!}$$有佳梨の手は、私の腕をすり抜ける。
「このとおり、ワタシはこの世界に干渉できない。ただの立体映像のようなもの。だからあなたに協力して欲しい」
 $${^{\scriptsize{C}}\!\!}$$有佳梨は、$${^{\scriptsize{C}}\!\!}$$一行瑠璃のプロジェクトでこの世界が犠牲になることに気づいた。そこで $${^{\scriptsize{C}}\!\!}$$有佳梨はアルタラ内の世界にコンタクトする技術を $${^{\scriptsize{C}}\!\!}$$一行瑠璃から学び、A世界を救うサブプロジェクトを開始した。$${^{\scriptsize{C}}\!\!}$$有佳梨は、$${^{\scriptsize{B}}\!\!}$$有佳梨にコンタクトし、$${^{\scriptsize{B}}\!\!}$$有佳梨も同じ方法で私 $${^{\scriptsize{A}}\!\!}$$有佳梨にアクセスしているらしい。
「具体的に、私は何をすればいいの?」
 大筋はわかったものの、ディティールがわからない。
「事が起こるのは七月三日、宇治川花火大会の日。そこで量子データの欠損が起こる。正確にはA世界からB世界に量子データが強制移動される。その影響でA世界の自動修復システムがデータの書き換えを始める。人間が一人消えるという欠損。それは過去の記録へも遡り、改変量は非線形カオス力学的になる。つまり予測がつかない」
 私はうなずき、理解を示す。
「その結果、B世界の千古教授たちアルタラコントロールセンターが、この記録世界のリカバリーを決断する。$${^{\scriptsize{C}}\!\!}$$一行瑠璃のプロジェクトにとってリカバリーを開始することは必要条件らしい」
「リカバリーされてしまったらこの世界は消滅だ」
「だが消されない方法がある。ポイントは、リカバリーが始まることが大事であり、完了することは必須ではないということ。私たちはそこを利用する」
「始まったリカバリーを途中で止めるということ?」
 $${^{\scriptsize{B}}\!\!}$$有佳梨はうなずく。リカバリーは世界の外部からの操作だ。それをするのは $${^{\scriptsize{B}}\!\!}$$有佳梨の役目ということだ。
 リカバリーするほどの状態になったら、さぞ多くのデータが失われているだろう。ここがどのような世界になるのか想像できない。それでも消えるのは嫌だ。
「あなたにはデータの修復をしてもらう」
「私にはこの世界のシステムやデータを変更する力なんてない。できることはなさそうだけど」
 $${^{\scriptsize{B}}\!\!}$$有佳梨はニッコリと笑う。
「手を広げて見せて」
 手のひらを上に、私は右手を差し出す。
 その手のひらに光が集まり、ずんぐりとした形のピンク色のペンが手の中に現れた。ハートの飾りが付いて、小型の魔法ステッキのようだった。
「魔法少女、やってみない?」

チートアイテム

 翌朝、雑木林を歩き白幽子はくゆうし巌居蹟ぐういあとの近くまで来た。$${^{\scriptsize{B}}\!\!}$$有佳梨は空中に黒板を投影する。
魔法の杖ファンペンは、この世界のオブジェクトのメタ属性を書き換える」
 ハート飾りの付いた丸っこいペンを私は握っている。黒板にはメタ属性として何があるかが羅列されていた。
「ある物体が存在する空間座標、移動している運動量、その他ここにあるような情報がメタ属性。これらを変更すると、瞬時に反映される。この石の座標を右に動かしてみなさい」
 傍らの石を指差す。私は半信半疑で、ファンペンをその石に向け、空間座標を右にずらすように念じてみた。すると石は右方向に弾かれ、遠くに飛んでいってしまった。
「今、石を右の座標に書き換えるのではなく、右に動かそうとしたでしょ。右に運動量を与えたことになった。で、飛んでいってしまった」
 動かすのではなく、座標を書き換える。似て非なる変更だ。
 別の石に向かい、存在箇所の変更を念じる。石がかき消えて、三メートルほど右に出現した。
「それでいい」
 ファンペンを向けたオブジェクトが対象となる。接触する必要はないが、二、三メートル程度に近づく必要があるそうだ。
「書き換えが適用されると、その直後からオブジェクトは通常の物理法則に則る。空中に移動したら、すぐに落ちるからな」
「なるほど。他の属性も試してみよう。座標や運動量は数値情報だな。可視属性とか、接触属性ってのは?」
「それらはブーリアンだ。ONかOFFの情報を持つ」
 さっきの石にファンペンを向けて、可視属性をOFFにする。石が見えなくなった。その場所に手を持っていくと石の触感はある。透明になったものの、物質は存在している。
 同じ石の接触属性をOFFにしてみる。すると、透明な石になっていたところに本当に何もなくなってしまった。
「見えないし、触れないけど、オブジェクトの存在情報はそこにある。認識が難しくなるので、このへんの属性はあまりいじらないほうがいいぞ。元に戻せなくなる」
 そしてメタ属性の最後、時間進行。これは何だろう。
「時間進行属性は、そのオブジェクトの内部状態変化の処理を止めることができる。石では確認しにくいが、ペットボトルの液体にやってみるといい」
 ショルダーバックからミネラルウォータを出すと、ペットボトルに向けて時間進行属性をOFFにしてみる。すると液体の動きが止まった。ペットボトルを逆さにしても、中の液体は凍ったように固まったままだ。
「ペットボトルの内部状態が変化しない。外側部分は干渉できるが、栓を開けることはできない」
 キャップを回しても、固くて動かない。ペットボトルそのものは動かせても、ペットボトルの中身は干渉できないということだ。
「めちゃチートアイテムだな」
「ファンペンは万能ではない。オブジェクトそのものの材質や性質を書き換えることはできない。変えられるのは、メタ属性だけだ」
 でも、と続ける。
「魔法使いになった気がするでしょ。スムーズに使えるように練習しておきなさい」
 わかった、と私は答える。
「アルタラはデータ欠損を認識すると自動修復システムが周囲のデータの書き換えを始める。データを保存するために、これを使ってそいつらの妨害をしてほしい」
「そいつら?」
 システムを擬人化している表現が気になった。
「自動修復システムの仕様はあまり公開されていない。ただ人間サイズであるだろうと言われている」
 私は頷く。アルタラはA世界もB世界も仕様は変わらないだろう。私も社内の資料を探ってみよう。
「リカバリーが始まったら、作戦を次の段階に進める。 $${^{\scriptsize{C}}\!\!}$$一行瑠璃はリカバリーが始まりさえすればいいはずだ。そこで、始まったらワタシがリカバリープロセスを止める」
「あなたは…、あなたってのもよそよそしいな。アネキと呼ぶわ」
 $${^{\scriptsize{B}}\!\!}$$有佳梨はいいわよ、と答える。
「で、どうやって?」
「コントロールシステムにログインしてだよ」
 アルタラにはプルーラメンバーだけが使える緊急メンテナンス用のリモートログイン経路がある。それを使うつもりだ。
「$${^{\scriptsize{A}}\!\!}$$有佳梨は自動修復システムの電源を切ってくれ」
「物理的にコントロールセンターに侵入しろということ?」
「ファンペンを使えばできる」
「リカバリープロセスが止まれば、自動修復システムも止まるだろう。電源切る必要あるか?」
「念の為だよ。プロセス停止に手間取った場合にでも、データの損失を少なくするためだ」
 リスクヘッジということか、わかった。
「リカバリーが止まったら最終段階に入る。B世界に吸い出されたデータをワタシがA世界に戻す。それらを修復して欲しい」
 A世界を守る作戦は、なかなか困難そうだ。
「作戦名は?」
 $${^{\scriptsize{B}}\!\!}$$有佳梨は目を丸くする。
「そ、そうね…。各段階を foo、bar、bazとしましょう」
 考えてないじゃないか。

foo から bar

「はじまったようだ」
 アネキの声が骨伝導ヘッドフォンから聞こえる。
 宇治川の花火大会の会場で何かあったようだが、ここ錦高校周辺では何も起きていない。
 七月三日、土曜日。二十時一分。世界はまだ動いている。
 十分経たずして雨粒が落ち始め、戦闘服として着てきたレザージャケットがポツポツと音をたてる。すぐに、学校の正門前で警戒をしていた私の視界に、異形の狐面が現れた。警備員のような制服を着た狐面。$${^{\scriptsize{B}}\!\!}$$有佳梨から渡されたヘッドフォン内蔵メガネを外すと見えない。これが自動修復システムか。
 $${^{\scriptsize{A}}\!\!}$$一行瑠璃がこの世界から失われるなら、影響の修正対象に彼女が通う学校がなることは容易に予想できる。リカバリーが始まるまでに自動修復システムの妨害をし、できるだけこの世界のデータを保護する作戦 foo。錦高校を防御拠点に決めたのだ。
 ファンペンを狐面に向け、三メートルほど後退させた座標に更新。効果があった。
「いける」
 その狐面は意に介さず正門を目指して歩き続けてきた。と、一匹ではなかった。広い堀川通り南側から、行列をなして狐面が歩いて来る。後ろを振り返ると北側からも行列。フィンペンを振りかざし、一列をまとめて五メートルほど空中の座標に更新。狐面は地面に激突して消えた。
 繰り返し、近づく狐面を空中転移し消していく。それでもどんどん増え続けキリがない。多勢に無勢とはこのことだ。
 狐面は互いに手をつなぎ、錦高校を取り囲み始める。
「$${^{\scriptsize{B}}\!\!}$$千古教授がリカバリーを始めるぞ」と、 $${^{\scriptsize{B}}\!\!}$$有佳梨から通信が入る。
 ふるいが始まる。間近の狐面の表面に“Safe Mode”と表示される。急に動きが素早くなった。私に触れてくる奴らを追い払うことで精一杯だ、データを守るどころではない。
「$${^{\scriptsize{A}}\!\!}$$有佳梨、bar 開始だ!」
 アネキが宣言する。私は自動修復システムを止めに行く。
 錦高校正門前に向かって走る。進行方向の狐面集団を右に左に運動量を加え、海が割れるように道を空ける。手を伸ばし、私を捕まえに来る狐面を空中に放り投げ、後ろに押し返し、横になぎ倒す。
 正門前の堀川通り中央分離帯に隠しておいた電動バイクE-02に跨ると電源を入れた。すかさずフルスロットル。正面にいた狐面を物理的にバイクで押し倒し走り出す。
 そのときチラリと見た錦高校の校舎は、赤いバリアで覆われ、データ隔離の状態になっていた。
 しつこく飛びかかってくるヤツラを避けながら、E-02は堀川通りを北上する。道路の端々では狐面が車に張り付き、分解と削除を行っている。建物や信号、道路にも狐面が破壊行為をしていた。空には赤いオーロラがかかり、周囲をおどろおどろしい色に変える。
 これがふるいなのか。想像していたのと、現実に目の当たりにするのは衝撃が違いすぎた。
 車道に車の流れがない。世界はセーフモードに移行し、データの静止点が作られた。つまり世界の時間進行が止まった。私が動けるのは $${^{\scriptsize{B}}\!\!}$$有佳梨の保護で世界から独立した存在になっているからだ。
 京都府庁舎、歴史記録事業センターまであと少し。堀川下立売しもだちうり交差点を右折する。下立売通しもだちうりどおりの幅は決して広くない。その通りを塞ぐように、狐面が横に並んでいた。
「どけー!」
 スロットルを緩めることなく左腕でファンペンを突き出し、並んだ狐面を全て右側のビルに押し付ける。
 府庁舎正門まであと一ブロックというところで、バイクがバランスを崩す。急制動。地面から湧き出た狐面がバイクを抱え込んでいた。アスファルトの上を転がる私。覆いかぶするように飛びかかってくる狐面。自分で横に転がり避ける。
 全身が痛い。歯を食いしばり、ファンペンを強く握りしめ立ち上がる。三百六十度回転し、周囲に近づく狐面を全て空中に放り投げた。
 雨粒が頬に当たる。その気持ち悪さが些末事に感じくらい、眼の前に広がる光景の異様さ。塵のようなものが次々と上空のオーロラに吸い込まれていく。これがデータの取り出し。A世界のデータがB世界に吸い出される。
 破壊された街の景色は、描画処理が止まってしまったオープンワールドゲームの街。不自然な不完全、パーツが欠損した街並み。
 堅書直実もこの景色を見ているのだろう。一行瑠璃を失った心で。
「アネキ、ふるいが終わったようだ。データの取り出しが始まっている。そっちは?」
 $${^{\scriptsize{B}}\!\!}$$有佳梨の呼吸が聞こえた。ため息?
「コントロールシステムへの侵入は成功。だがリカバリーキャンセルコマンドが応答しない。こいつ正常じゃないぞ。論理境界がやばい」
 この事態は、単純なデータ欠損ではなく量子データの移動だ。A世界だけでなく、B世界へも影響を与えるだろう。双方の世界の影響域が干渉し、境界が脆くなっている。
「こっちはまだ府庁舎に辿り着けていない。急いでくれ」
 論理境界が決壊したらどうなるのか。ただでさえ無限を有限に抑え込んでいる自動修復システムだ。その負荷たるや相当なもの。それに加えてこの失認領域拡大の整合処理とリカバリー処理の開始。負荷がここまで重なると何が起きても不思議ではない。
 立ち尽くしていた私を、また狐面が取り囲んできた。アルタラはすぐ目の前なのに、道路は狐面で埋め尽くされている。こいつらの代謝上限大き過ぎだろう。
 取り囲まれ、バイクも失い、進むことも後退することもできなかった。
 空を見上げると赤いオーロラ。僅かな時間目を閉じると決意を持って目を開き、府庁舎の尖塔を見つめた。
 ファンペンを自分に向け、ゆっくり運動量を与える。体がふわりと浮き上がる。
 落ちる前に、運動量を与え続ける。運動量はベクトル量だ。方向を直上から府庁舎方向に向ける。
 狐面の頭上を飛び越えた。もっと上へ、もっと遠くへ、もっと速く。
 浮遊状態から飛行状態へ。
 オーロラにも届きそう。そう思いながら空を舞う。怖さよりも気持ちよさが勝る。魔法少女は空を飛ぶものだ。
 歴史記録事業センターの建屋の入口、扉の前に降り立つ。狐面はまだ遠い。
 扉にファンペンを向け、接触属性をOFF。扉をすり抜けるとすぐにONに戻した。
 建物の構造はよく知っている。コントロールセンターまでの最短距離を走る。廊下には狐面はいなかったが、コントロールセンターの中では防御を固めているかもしれない。全員を屋外座標に放り出してやる、そう考えてコントロールセンターの扉の前に立つ。
 生体バイオメトリクス認証付きの強固な扉の接触属性をOFFにし、中に飛び込む。予想通り、部屋の中はびっしりと狐面が待ち構えていた。近い狐面から、座標を書き換え建物外へ転送する。
 ところが、転送した矢先に、その場所に再び狐面が現れた。そして私に迫ってくる。
 もう一度座標を書き換える。一瞬消えて、また現れる。
 戻ってきている?  書き換えをさらに上書きしているのか。
 電源装置に近づくどころか後ずさり、コントロールセンターの扉をすり抜けて外に戻る。
 狐面もすかさず、すり抜けて追いかけてきた。
 扉の接触属性をONに戻す。手近な狐面に横方向に運動量を与え、廊下の壁に叩きつけようとする。が、一瞬横に動いただけで、停止してしまった。運動量も打ち消される。
 こいつら、メタ情報書き換えオーバーライド攻撃の耐性を獲得しやがった。
 もと来た廊下を走り戻る。ファンペンの攻撃が通じなければ私は無力だ。狐面に捕まれば私というデータが消されてしまう。
 真っ黒な恐怖だった。
「アネキ! ファンペンが効かなくなった!」
 パニック気味に $${^{\scriptsize{B}}\!\!}$$有佳梨に助けを求める。
「こっちはもう少しだ。逃げろ」
 廊下を走る。後ろから狐面は大挙して追いかけてくる。
 エントランスに向かう角を曲がる。そこに狐面がいた。出会い頭に衝突。
 しまった! 悔やむより早く羽交い締めにされる。すごい怪力。
 消される!
 と、私の頭上をかすめて高速物体が飛んできて、狐面の顔面に激突する。その衝撃で、押さえつけていた狐面が消滅した。自由になる。
「外に行くよ」
 声が聞こえると同時に周囲が消え、私は歴史記録事業センターの外にいた。円形ロータリーの芝生の上。正門が見える。
 状況が理解できないながらも、助かったことがわかる。
 足元に小さな何かがいた。ペンギンに見える。
「危なかったね。話はあと。逃げるよ」
 しゃべった!
 驚く私を置き去りにして、ペンギンが走り始める。歴史記録事業センターの建物を回り込み裏手に向かうようだ。ペンギンは小さくて、足も短いのに意外と速い。追いかける私に、尻尾だけが金色なのが見えた。
「ありがとう。助けてくれたの?」
 走りながらペンギンは、そうだ、と言う。さっき、私の存在座標を書き換えたのか? と聞くと、また、そうだ、と答えた。
 裏は広い駐車場になっている。数匹の狐面が、自動車や自転車を削除している。
「安全なところに隠れようよ」
 怖いのはもう懲り懲りだ。私が言うと、ペンギンは短い手を振った。
「この世界に安全なところなんて、もうどこにもない」
 私たちに気づいた狐面が向かってくる。
 ファンペンを向けてから、もう効果がないんだと思い出し、腕を下げようとする。
「そのまま狙って」
 そう言うとペンギンがジャンプをした。空中でその体が輝き、ペンギンはファンペンに吸い込まれる。
 眩しさに瞑った目をゆっくり開けると、ファンペンのハート飾りにジュエルが付き、ピンクだった色が輝く白になっていた。
 ファンペン 2.0。そんな言葉が浮かんだ。
 改めて狐面にファンペンを向ける。まだ遠い。しかしバージョンアップしたファンペンだ。試しに上向きの運動量を与えてみる。狐面は空に弾き飛ばされた。すぐに元に戻されるはずだが、2.0のファンペンは、さらに高速に上書きを続けているらしい。運動量がキャンセルされない。十メートルほど上空に舞い上がった狐面は墜落して消滅した。
 もっと遠くの狐面に向けても、しっかり効果が出た。有効距離がとてつもなく長くなったようだ。
 不思議なペンギンのおかげで、私は再び力を取り戻した。
 駐車場にいる他の狐面も消そうと見回すと、残っていた狐面が集まっている。さらに駐車場の入口から、行列をなして狐面が入ってくる。
 次々と駐車場の中央、一箇所に集まる狐面。
 ちょうどいい、とその集合場所にファンペン2.0を向けたとき、狐面が融合を始めた。溶け合い、ひとつの物体になる。続々と駐車場に入ってくる狐面が次々に融合していく。
 溶けあった物体は、見る見るうちに巨大化し、巨大な狐となっていく。尾が多数に分かれている。九尾の狐。見たことがないが間違いない、その巨大版。
 隣のビルの高さを越え、この駐車場に入りきれないほど大きくなる。私は歴史記録事業センターを回り込み、正面側に戻るしかなかった。
 見上げると、歴史記録事業センターの屋根を越えて、九尾の狐の顔が私を睨む。私はファンペンを向けるものの、どうしたらいいかわからない。
 九つの尾が立ち上がり、先端が楔形くさびがたに変形する。それが私を向き、狙いをつける。すぐに矢が放たれたように高速で飛翔。私を突き刺そうと迫ってくる。
 避けられない。思わず目をつぶる。と同時にアネキの声。
「やったぁ!」
 声に反応して目を開く。矢が停止していた。
「$${^{\scriptsize{A}}\!\!}$$有佳梨! リカバリープロセスを停止! 無事か?」
 私は九尾の狐の矢から目を離せず、そのままヘタリ込んだ。
 徐々に九尾の狐は小さくなっていく。矢も、こちらを睨んでいた頭も屋根に隠れて見えなくなった。
「おい、$${^{\scriptsize{A}}\!\!}$$有佳梨、応答しろ」
 正門側を振り返ると、そこにも狐面の姿はひとつもなかった。
「助かった…」
 その呟きが聞こえたのか、 $${^{\scriptsize{B}}\!\!}$$有佳梨からは、ほっとした吐息が出る。
「無事なようだな。手間取ってすまなかった」
「次からはプログレスバーを表示してくれ」

個律

 歴史記録事業センターの正面玄関前。ロータリーの中心にある芝生に私は大の字に寝転んだ。
「$${^{\scriptsize{A}}\!\!}$$有佳梨、なんでリカバリーを開始する必要があったか、わかったよ」
 $${^{\scriptsize{B}}\!\!}$$有佳梨もミッションをクリアして安堵しているのだろう。静かな口調だった。
 なんで? と相槌する。
「失われた $${^{\scriptsize{A}}\!\!}$$一行瑠璃を $${^{\scriptsize{A}}\!\!}$$堅書直実が追いかけてきた。リカバリーのデータ吸い出し経路を使って」
 ヒロインを助けるヒーローか、青春だねー、と私は呟く。そして、A世界にとって欠損データが二人分になったことに気づく。狐面の活動が異常に活発になるわけだ。
 上空を染めていた赤いオーロラは、リカバリーの停止で消え、夜空は黒かった。でもいつもの夜空に戻ったわけではない。夜空が見えないほど大量の塵が、月明かりと星々に照らされて浮遊しているからだ。大きさは様々。
 建物の壁、自動車、道路の破片、店の看板、信号機、電信柱、広告板などなど、五重塔の一部まである。リカバリーでオーロラに吸い込まれた、世界を構成する物体オブジェクト達だ。
 B世界に吸収されたデータを、 $${^{\scriptsize{B}}\!\!}$$有佳梨がA世界に戻している。戻ったオブジェクトはメタ属性である座標データを失い、戻る場所が確定していない。だから浮かんでいた。
 欠損したデータを修復するのは私の役割だ。しかしこの量はなんだ。私が狐面を妨害して、データの破壊を防げたのなんてほんの僅か、焼け石に水だった。もっと早く自動修復システムを止められていれば、これらの何パーセントかは減らせたかもしれない。だがそれは失敗した。
「アネキ、あのペンギンは何だったの?」
 狐面がメタ属性書き換えに対する耐性を持つのは予想外だった。そのピンチを救ってくれて、さらにファンペンをバージョンアップしてくれた謎のペンギン。
「$${^{\scriptsize{C}}\!\!}$$有佳梨かな。ファンペンを作ったのはワタシではない」
「そうか」
 私は守られているな、素直にそう感謝した。
「オブジェクトの座標属性情報は、ワタシのほうで検索し、インデックスとしてまとめてある。オブジェクトIDで紐付けて、インデックスから──」
 軽いノイズと共に音声が途切れた。
「…アネキ?」
 呼びかけてみる。応答はない。
 突如、私はゾワっとし、浮遊感のような目眩のような平衡感覚の消失。芝生に寝ていたはずの触覚がなくなり、自分がいくつもに分離する。
 視覚は空間の幾何学的な多重の光を捉える。がその意味はわからない。肉体はあるのかないのか曖昧になり、自分がどんな姿勢をしているのか認識できない。思考は散文化し、記憶は分散する。今起きたことのような気もするし、ずっとこうだった気もする。

 廊下の角で狐面に衝突し、羽交い締めされる。そのまま肉体が分解され消えていく私。

 屋上で $${^{\scriptsize{B}}\!\!}$$有佳梨にファンペンを突き返し、踵を返す私。頼みを断り、A世界を守らなかった私。

 屋根を越えて九尾の狐の尾が襲いかかり、私の体に突き刺さる。痛みと共に消えていく私。

 フードをかぶった女性を無視し、階段を降りていく私。

 地面から湧き出た狐面にバイクを倒され、地面に頭を強打。意識が消えていく私。

 あらゆる記述が記録される。無限記録装置アルタラ。全ての可能性が湧き出る。
 私はどんな可能性でも成功しない。消えていくことが決定している世界。私は無力だ。
 そんな可能性の全てを薄くスライスされた意識で感じ取る。
 誰かの指が遠くを指差す。その先には二人の高校生がいる。一人は堅書直実。もう一人、長い髪、セーラー服、抱えた本、強い眼差し。一行瑠璃。険しきに挑む者。『ガンバの冒険』。
「しっぽを立てろ! 世界を蘇らせてみせろ!」
 誰かの声。
 意識が震えた。世界が回る。可能性がシャッフルされる。決意が心に集まる。世界の存在確率が収束する。
 目を開けた。夜空にオブジェクトが浮遊している。背中が冷たい。芝生に横たわっている。
 ここが私の世界。私が存続させる世界。
 今の現象は何だったのか。アルタラに何か起きたようだ。そう考えてコントロールセンターを見に行く。そこにあるはずのアルタラがない。大きな空洞。アルタラは消失した。
 $${^{\scriptsize{B}}\!\!}$$有佳梨とはもう話せない、少なくともそれが判った。
 おそらくどこかの世界の誰かが自動修復システムを停止させた。アルタラの無限記録装置の本来の力が解放され、記録世界の制約がなくなった。全ての可能性の記録が始まった。私のさっきの体験は可能性の一部。
 今までの現実世界の記録として制約されていた世界階層は、その束縛から解放され、無限に分岐する新しい世界となった。階層の関係付けは消失し、世界は個別に自律し成立している。無限に続く上位と下位の世界をアルタラはつないでいた。団子の串のように。その無限に長い串、アルタラが消滅し、世界はバラバラに独立した。そう考えられる。
 私の世界、A世界は、私の認識の連続性の中で、あの時のままだ。データは壊れていて、時間は止まっている。
 私はここにいる。

baz

 夜空に浮遊しているオブジェクトは、四十万個に及んだ。アネキが残してくれたインデックスデータベースのことは、ファンペンが教えてくれた。そのデータベースのレコード数が約四十万件。そのひとつずつに、オブジェクト本来の座標が示されていた。
 私は浮遊オブジェクトのひとつにファンペンを向け、インデックスデータベースを確認し、座標を書き換える。オブジェクトが消えると、その隣のオブジェクトに向け、同じことをする。終わりの見えない単純作業を繰り返す。
 私の体感で一時間やっても五百件ほどしか修復できない。
 時間が停止した世界だから時計は無く、ずっと夜だ。休まずやっても一ヶ月相当の主観時間が必要だ。それこそ時間は無限にあるのだから、無理せず休みながらやればいい。四ヶ月か五ヶ月相当かかるだろう。
 オブジェクトを指し示し、座標確認、書き換え、次へ。
 オブジェクトを指し示し、座標確認、書き換え、次へ。
 疲れたら、芝生に大の字に横たわる。時々眠る。
 オブジェクトを指し示し、座標確認、書き換え、次へ。
 同じことの繰り返しで、体も脳も疲弊する。空に向けている腕も痛い。なんでこんなことやっているのか。
 この世界を存続しても、堅書直実も一行瑠璃もいない。帰ってこない。
 はじめから存在しなかったとするオーバーライドもしない。それをする自動修復システムは止まったし、アルタラはもうない。
 この世界に残るのは、彼らの家族の悲嘆や友達の哀惜。その苦しみも痛みも、私にはどうにもすることもできない。
 ならばこのままでいいじゃないか。このまま消えてしまっていい。
 そんな迷いが、打ち消しても追い払っても湧き出てくる。
 弱る心。逃げる心。
 その度に思い出す。
 可能性のビッグバンで見た一行瑠璃の強い眼差し。しっぽを立てろ!と励ましてくれた声。
 その声はきっと私自身。過去の私、未来の私、全ての私。
 アネキが取り戻してくれたデータ群。世界を修復して、時間を動かす。そうして初めてA世界は存続したことになる。
 私にはまだファンペンがある。この手の中にしっかりと握られている。 $${^{\scriptsize{B}}\!\!}$$有佳梨と $${^{\scriptsize{C}}\!\!}$$有佳梨が残してくれた希望。
 だからやってやる。しっぽを立てて、やってやる。

発進

 最後のオブジェクトを書き換え、長過ぎる孤独な修復作業が終わった。
「やってやった! やったぞ! やった!」
 世界の境界を越えるように叫ぶ。$${^{\scriptsize{B}}\!\!}$$有佳梨と$${^{\scriptsize{C}}\!\!}$$有佳梨に届けとばかり大声で。
 満足すると、ロータリーの芝生に大の字に横たわった。何百回も繰り返したことだ。そして疲れに任せてそのまま眠る。
 目が覚めると、もちろん空は夜空のままだ。星がよく見える空だった。何も浮かんでいない星空、感激。
 最後の仕上げ、時間進行の回復。
 それは京都市全域で全員同時でなければいけない。そうでないと社会が混乱する。
 まず京都市役所近くのアウトドアショップ「ロッジ」まで歩いた。合成断熱材のダウンと最も強力そうな耐候性ジャケット上下を選ぶ。断熱帽子やUVゴーグル、三層構造のグローブも揃える。忘れずに、商品相当分のお金をレジに置く。
 それらを自分の部屋に持ち込み、下着に上着、ズボンに靴下。とにかく厚手のものをモコモコと身につける。その上から、ダウンとジャケットを着込み、帽子、ゴーグル、手袋とつける。
 京都市のほぼ中心である京都駅の屋上、大空広場に歩いていく。座標書き換えの転移をしないで、頭の中でこれから行う一分間を何度もシミュレートしながら歩く。これから命がけの一分間だ。
 大空広場から京都の暗い街を見下ろし、そして夜空を見上げる。心を落ち着け、深呼吸する。
「さぁ、世界を蘇らせるよ」
 誰に言うともなく呟くと、ファンペンを自分に向ける。
 私は、京都市上空一万メートル﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅に出現した。
 気温はマイナス二十度。気圧は〇.二。長くはいられない。視野角九十度程度の範囲に広がる地上は、真っ暗な街で、夜景の輝きはない。本当はこんな街ではない。
 ここからなら、ほぼ同時に京都市全域をファンペンの対象に収めることができる。
 わずかな逡巡。覚悟を決めてファンペンの向きを地上に向ける。重力と釣り合っていた私の運動量が失われ、頭を下に自由落下を始める。冷たさが突き刺さるような風を全身に受ける。
 焦るな。恐怖に負けるな。自分に言い聞かせる。
 ファンペンで京都市の左上に狙いをつけ、範囲内オブジェクトの時間属性を全てON。そのまま角度を少しずつ変え、左下へ。そして少し右側を下から上へ。
 ゆっくり確実に。
 ……二、三、四……。頭の中で数を数える。
 上下に往復させ右にずらしながら右端まで。
 ……五、六、七……。
 今度は横向きに往復させ、少しずつ上から下へ。
 京都市の領域を何度もなぞり、隙間なく全域を操作対象に入る。
 落下速度は加速を続け、地上は急速に近づいてくる。
 ……八、九、十……。
 十秒で約四千メートルの落下。ファンペンの向きを自分に向け、運動量を〇にして落下停止。
 白い息を大きく吐く。落ち着いて見回した地上は、灯りを取り戻していた。瞳に京都市の輝きが映る。データが命を吹き返した輝きだった。
 ここからずっと街を見ていたかったが、寒さでそうもいかない。
 出発点の京都駅大空広場に戻る。
 夜空の星は瞬いている。
 改めて展望ガラス越しに街を見回すと、京都タワーの展望台は赤く輝き、周囲のビルの窓は明るい。眼下では車が走り、人が歩いている。喧騒と話し声も聞こえる。きっとプルーラオフィスビルでは、赤井くんも働いている窓の明かりがあるだろう。
 もうここは、上位世界の記録データではない。自分たちの力で可能性を生み出す“新しい世界”。
 ふたりが欠けた世界でもある。その悲しみを乗り越える。きっとできる。
 明日になれば太陽が昇り、朝を迎える。新しい一日が始まる。
 世界は存続した。$${^{\scriptsize{B}}\!\!}$$有佳梨と $${^{\scriptsize{C}}\!\!}$$有佳梨に知らせてあげたい。
 右手に握っていたファンペンの感触が変わった。手のひらを広げると、ファンペンは徐々に輝きを失っていき、砂のように崩れる。そして風に流され消えていく。
 こうして私の魔法は消え失せた。
 私は顔を上げ、振り返る。そして一歩前に踏み出す。未来に向かって私は歩き出す。
「明日から、職、探さないとかな」
 量子記録装置アルタラはもうない。

当初の予定より倍近く長くなってしまいました。またテクニカル的な部分にフォーカスしたお話で、説明文多めです。そこには意図的な曲解もありますが、誤りや勘違いやもあると思います。作品解釈や世界構造、因果関係の解釈も勝手なものです。この作品が本編の解釈として正しさを主張する意図は全くありません。展開上面白くなりそうな感じで書いているだけです。読んでいただいた方が、楽しかったと感じていただければ嬉しいです。「スキ」をいただけると励みになります!ネタバレありの"あとがき"です。興味ある方はどうぞ。https://artistic-linseed-289.notion.site/0ff6de87b6168053a553e3e6ee186706

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