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【街歩き】梅田の「梅」はどこから来たのか?(前編)

現在、梅田のローカルメディアを作るというプロジェクトに参加させてもらっている。月一回ほどの会議のペースだが毎回刺激を受け楽しい時間を過ごさせてもらっている。

プロジェクトの活動に関わることにより、
自然と梅田、ひいては大阪について調べることになり、関連するいくつかの書籍を読んだり、
展示会に行くことも多くなった。

中でも印象的だったのは「大阪歴史博物館」で展示されていた
(キタとミナミの企画展だったと記憶している)
この古地図

一昔前、東京の中心は空白だとおっしゃった哲学者がいたが、現在の梅田に相当する場所も
真っ白、空白だった。

この地図は江戸時代のものと思われるが
大名の蔵屋敷が立ち並んでいた堂島川以南が、細かく記述されているのに比べ
梅田は何もない低湿地や田んぼが
広がるエリアだった。
現在のお初天神はその頃からあるが、
町外れの寂しい、
それこそ、この世を儚んだ愛し合う二人が
心中場所に選ぶような場所だったのだ。

それが明治期 1847年に「大阪駅」が開設されると、このエリアは徐々に開発が進み、
阪急、阪神の私鉄の駅が置かれると
さらに発展を遂げる。

戦後は一時闇市が密集する土地だったが、
やがてその場所には大阪第一ビルから第四ビルが建設され、
さらに大阪マルビルなどの建設が進み
高度経済成長期から大阪万博開催期に向けて
大阪の面玄関に相応しい街へと
変貌を遂げていくのである。

に、しても、

その大阪第一ビルの地下にある
立ち飲み「銀座屋」で仕事帰りに
ビールを飲みながらも、思う。 


立ち飲みは瓶ビールから始めるのがセオリー

「梅田の「梅」って、どこから来たんやろ?」

「梅田」の語源は元は低湿地帯だったところから「埋田」であったことは広く知られている。

NHKの『ブラタモリ』でも紹介されていたが
現在の大阪駅にはいくつかの段差があるがこれは、軟弱な地盤の上に建てられたがゆえの
地盤沈下の後なのだ。

それはわかる。

では「梅」はどこから?

少なくとも今の梅田には
梅林らしい梅林もない。

ネットで調べて見ても「「埋田」では
縁起が悪いから「梅」田にした」
とやや投げやりな解説ばかり。

うーんとさらに和歌山の地酒「黒牛」(銀座屋では400円で飲める)を飲みながらと思う。
もひとつスッキリせんなあ、、、

といつまでも長居はできないのでお店を出る。
立ち飲みの長居は野暮と決めている。

フラフラと阪急方面に歩き、
久しぶりだからとビッグマン近くの紀伊國屋書店に入ると平積みにされている文庫本がある。
『すたこらさっさ』という本だった。

表紙のイラストもいいと思います。


帯を見ると主人公は
この紀伊國屋梅田店に勤めているらしい。

関わっているプロジェクトの参考になるかもと思いながら、即買いする。

ここでこの本の内容について触れるのは論旨から離れるのでやめておく。
ただとても面白い小説だった。
ご興味のある方はぜひお読みいただきたい。

私が注目したのは後書きにあった
新之助さんの記述だ。

新之助さんは、「大阪高低差学会」と民間の学会を主宰されていて、大阪の地形と歴史に焦点を当てられた著書も多数ある方だ。

私も何回か公開講座に申し込もうとしたが、
あっという間に満席になるくらい
人気のある方だ。

以下一部を引用する。

綱敷天神社や太融寺がある辺りは、古くから紅梅樹が美しい場所で、仁徳天皇は
この地を行幸して紅梅樹に難波の梅と命名し、梅塚を踏まえおいたと伝わる。
『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルと言われる源 融もこの地を踏まえ訪れて
寺と神社を整備した。寺は融の名をつけて太融寺となる。
菅原道真公は太宰府に向かう途中に太融寺に詣で、梅花を愛でるために
船の綱を敷いて座り休憩をしたことから綱敷の名が起こった。
この地にあった神社がのちに綱敷天神社を名のるのである。

このように梅田周辺は、大阪天満宮や太融寺、綱敷天神社、近くにはお初天神の名で知られる露天神社など菅原道真公にゆかりのある場所がいい多く、梅花や菜の花が美しい土地であったのだ。


『すたこらさっさ』松宮宏 徳間文庫
解説『100年後に残したい大阪が描かれた物語』 新之介著

文中にある網式天神社は梅田の紀伊國屋書店を出て少し北に向かうとある小さな神社だ。
今まで立ち寄ったこともなく、前を通り過ぎていくばかりだったがこれは少し調べてみる価値がありそうだ。

ほろ酔いのいい気分になりながら、
いささか酔った勢いもあって
そう心に固く誓った(誓うほどではないけれど)阪急電車の車中であった。



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