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【街歩き】梅田の「梅」はどこから来たのか?(後編)

前編は上記からお読みください。

ここに来て自身の中で菅原道真公に関する興味が湧いてきた。
学問の神様ということは知っていたし、息子の受験の際には京都の北野天満宮にもお参りもした。
しかしその人の生涯について
調べたことはなかった。
なので以下調べてみた

生来の文才(特に詩歌に秀でていた)、そしてその清廉潔白な人柄から頭角を表し、
朝廷内で出世を重ねていく。
家族想いの父であり、
また赴任先であった讃岐の国でも民衆の暮らしを思い善政をとり行った。

好きな花はやはり梅であったらしい。

やがて時の宇多天皇に重用され
897年6月に道真は権大納言兼右近衛大将に
任ぜられる。

これはつまり「右大臣」にあたり
この時の左大臣藤原時平に次ぐ
序列第二位の地位に当たる。
901年正月 従2位。ここがこの人の頂点となった。

好事魔多し 

 藤原時平をはじめとする
「宇多上皇を欺き惑わした」
「醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀った」
という讒言により
時の醍醐天皇の命で
1月25日に大宰員外帥左遷された。


左遷と言ってもただの左遷ではなかった。 
 太宰府への移動はすべて自費によって支弁し、左遷後は俸給や従者も与えられず、政務にあたることも禁じられた

有名な
東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな
この和歌は、太宰府に向かうため京都の自宅を出る時に詠んだものとされている。
我が家の梅の花よ 東風が吹いたら私のいる太宰府までその匂いを
届けて欲しい。私がいないからと言って春を忘れてはいけないよ

別れに対する哀切な思いが読み取れる歌だ。

大宰府での生活は厳しいもので、「大宰員外帥」と呼ばれる名ばかりの役職に就けられ、大宰府の人員として数えられず、大宰府本庁にも入られず、給与はもちろん従者も与えられなかった。住居として宛がわれたのは、大宰府政庁南の、荒れ放題で放置されていた廃屋榎社)で、侘しい暮らしを強いられていたという。また、時平の差し向けた刺客が道真を狙って謫居周辺を絶えず徘徊していたという。

wikipediaより

サラリーマンに例えてみれば
入社した時からメキメキと頭角を表し、
順調に出世を重ねてきた会社のエース。
先代 宇多社長の覚えもめでたく、
専務取締役にまで出世したが
もう一人の専務取締役藤原時平及びその一派の謀略により、現醍醐社長より平社員に降格のうえ太宰府支社への左遷を言い渡される。

太宰府への赴任経費は自腹(しかも交通未発達の時代の京都から太宰府)太宰府での滞在先は古びたワンルームマンション。
しかも仕事は何も与えられず、机と椅子のみが置かれた粗末なオフィス
そこで一日何もせず過ごす。
一時期問題となったまさに「追い出し部屋」のようなものだ。

サラリーマンであればその会社を辞めれば
すむが当時天皇の命に背くことは、
一族郎党含めての「死」を意味する。
何とも苦しかったと思う。

道真公はそのような中でも治安の悪い、
この地域の民を心配していたらしい。

903年 太宰府で死去 享年59才

奇しくも現在の私と同じ年齢。
この時代の人にしては長く生きた人なのだ。
ただしその心中いかに無念であった事だろうか?

しかしことはここでは終わらない。

909年 藤原時平死去(享年39歳)病死
913年 源光が狩りの最中に沼に嵌り溺死
同年  醍醐天皇の皇子保明親王崩御
→これらは全て道真公の怨霊による祟りではないかと推測されていた
930年 清涼殿落雷 多数の死傷者
    3ヶ月後 醍醐天皇崩御

→ここにきて道真公の怨霊による祟りが決定的となり周知されることになる。

947年 北野天満宮において神として祀られるようになった
997年 一条天皇により贈正一位左大臣 翌年には太政大臣が贈られた

これがいわゆる道真公の怨霊伝説の系譜。
人気アニメ「呪術廻戦」特級呪術師 乙骨憂太にも物語上で繋がっていく

とまあ、とあるバーで仕事帰りにハイボールを飲みながらも思う。

ハイボールを飲みながら・・・・・

そりゃ、怨霊にもなるわなと。

全く自分の身に覚えがないことで濡れ衣を着せられ仕事、身分、そして家族まで奪われた。
才能のある方だったのでその怒りは先鋭化、
継続化しやがて怨霊となってしまったのだ。

しかし彼の伝説はそこでは終わらなかった。

その生前の優れた博識、文才から
やがて「天神様」学問の神様として崇められる。

日本全国に「天神」と言う地名があり
その全国的な知名度は空海、弘法大師に匹敵
あるいはそれ以上かも知れない。

大阪では親しみも込めて「天神さん」と呼ばれている。

そこで前章でも触れていた網式天神社に行ってみた。ここは梅田ロフトやMBSのある茶屋町の入り口にある。

規模としては小さな神社です。

神社内の案内板には
901年2月2日 (道真公が)この地で満開に咲いていた紅梅に目を留め、
乗って木田舟の艫綱を円座上に敷いて
その上に座って眺めた故事に由来
(梅田東のむかしを知ろう 網式天神社 御旅社 より抜粋)

おそらく太宰府に向かう途中京都から
淀川を下ってきて、ここで大阪で
瀬戸内方面に行く船に乗り換えたのであろう。
ある意味道中の些細な出来事ではあるが、
人々は道真公の徳を偲び 縁を感じ
社を建立したのであろうか

お初天神 今も参拝する人が絶えない

またさらに徒歩5分くらいのところにある
お初天神。
近松門左衛門の『曽根崎心中』で有名な神社だが「天神」とあるように道真公との縁も深い神社だ。

露と散る 涙に袖は朽ちにけり
都のことを思い出づれば

とこの地で道真公が歌を詠んだ、
と記されている

さらに大阪天神祭で有名な大阪天満宮

この神社も参詣する人が絶えない

神社のHPによれば、元々「大将軍社」と言われる神社だった。
やはり太宰府に向かう道真公が道中の
安全祈願のため立ち寄った
それから45年後の949年大将軍社の前に一夜にして7本の松が生え、夜毎にその梢を光らせたとある。
949年といえば北野天満宮に道真公が祀られてから2年後、怨霊としての道真公への畏れがピークに達した時期であったのだろう。
「時の村上天皇の勅命によりお社をお建てになり道真公のお御霊を厚くお祀りされた」とある。
実際に霊異があったかどうかはともかく、当時の人々はとにかく畏れた。
だがその畏れはやがて尊敬、親愛の情に変化し大阪天満宮は「天神さん」と大阪の方々から親しみを持って呼ばれている。

ここまで書いて一つの情景が目に浮かんだ
私が勝手に想像した一場面である。

明治初期、大阪市役所の一室

あるお偉いさんが部下に問うている
「今度、鉄道も通ることやから、あの「埋田」一帯地名なんとかせなあかんやろ
「埋め」とか語呂が悪すぎるわ」
聞かれた部下はしばし考えた後こう答えた
でしたら「梅」の字を当てるのはどうでしょうか?もともとあそこら辺は菅原道真公 縁の土地ですし「梅」は松竹梅の「梅」でもありますから」
「おう、そりゃええな!  それで上に言うてみるわ」

以上何の学術的根拠も何もない私の類推です。

ただ大阪の人は昔から、それがわずかなものであったとしても菅原道真公との「縁」を大切にしてきた。
最初は怨霊に対する畏れだったのだろう。
ただしその後道真公の生前の才能と徳を知り「天神様」「天神さん」と広く敬愛されることになった。

明治期に「埋田」は「梅田」となり大阪随一の繁華街と成長してきた。
大阪の人々の思いが平安時代から現在まで繋がっているのである。

結論
「梅田」の「梅」は菅原道真公の愛した「梅」からとりました。
重ねて申しますが、私自身の感想です。
すでに同意見は百出していることと思われます。また何の学術的根拠もありません


とここまで書いてふとスマホのGメールの通知。
ANAから「マイルについてのお知らせ」と言うタイトルだ。
おかしい3年前にマイルは全て使い切ったはずだ。
残数を調べてみると12000マイル。
最初はよくあるスパムかと思い、ANAのHPにログインし再度確認したところ
やはり12000マイル残っている。
さらに調べるとちょうど伊丹・福岡往復分 

これは何かの縁を感じた。福岡から道真公が没した太宰府は遠くない。

奥さんにマイルの件を話してみると一緒に行きたいと言う。
二人だと片道分の交通費が出る。

早速便を予約し実際に行ってみることにした。
(『【街歩き】太宰府天満宮博多天神』に続く)


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