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ガンダムのニュータイプとネット上の論破礼賛

Amazonプライムで「機動戦士ガンダム 」いわゆる「ファースト」のTV版が見れる。これを機にガンダムを教養として押さえておこうと全話視聴したんだけれども、途中で唐突に出てくる「ニュータイプ」という概念で、ストーリーの流れが随分変わってしまうのが特徴的だった。おそらくは難解な戦争戦略の展開に子どもたちがついていけなくなったことから打ち切りがチラつかされた番組のテコ入れとして出てきた設定ではないかと思うのだが、あまり説明もなく超人的な能力が示唆されてはハッキリしないまま話が進むので、勢いネットで調べてみることに。

しかしこれがまた、Wikipediaをして定期がハッキリせずネット上のどのレビューや解説も、果ては原作者まで解釈が日々に変わっている。つまりニュータイプと言うのは「通常の人と違う人、後の定義はわざと曖昧にしておいて議論を呼ぶ仕掛けにしよう」と用意された概念なのだ

作中ギレンはこれを利用して「選民思想」を唱え始める。父のデギンはこれをヒトラーの尻尾と呼んで揶揄する。つまり「ユダヤ人選民思想」の模倣だと言うわけだ。現実にニュータイプなんた存在がいるのか、本当にユダヤ人が優れているのか、それは彼らにとってどうでも良かった。ただ、それは自分の思い通りの世界に現実を刷新するための装置として便利な概念だとはっきり自認した上で無理な行動に大義名分を持たせる手段なのである。

これは拡大解釈すれば現代でもしばしば目にする光景ではないかと思うのだ。いつの頃からか「地頭」という言葉が唱えられ、2ちゃんねる創設者のひろゆき氏らの「論破」が礼賛されるようになった。これは生まれや育ち、さらには学歴や大企業勤めなどで人の位置が固定的になってしまっていて自分の今の待遇を向上するには大きなエネルギーを伴うも、そのエネルギーを自身の体から捻出する自信は無くなった人々の、グレートリセットへの要求ではないかと思うわけだ。論破は単純にはカタルシスであろう。つまり、何もない自分にも、もしかしたら「地頭」は良いかもしれない、何も努力せずとも金も地位も無くとも、自分には「地頭」がある。自分はニュータイプなのだ。だから論破、論破で自分自身を肯定するんだ、という既得権益への唯一の抵抗、一矢報いる手立てとしてひろゆき氏礼賛、論破への期待を寄せるのである。

このようにして持たざる者ほど選民思想を身近なものとしやすいのではないかと言うのが、このニュータイプ論の示すものではないかと思うのだ

現実ヒトラーの置かれていた状況も、ジオンのギレンも主流への挑戦という向きが大きい。連邦側、連合軍側は選民思想など唱えずとも秩序側にいるから、「既に選民されている」待遇を受けているのである。その秩序にグレートリセットをかけるのにニュータイプを利用したというのと同様、この論破と地頭、ひろゆき氏への期待は、秩序の外に置かれた自分だって主人公になれるんだという期待の証に見えるのである。

ニュータイプとは、そうした人の普遍的な思考の癖を顕在化したものとなっている、と言うのが現状のニュータイプ論の落ち着いた辺りだと解釈した。個人的な見解です。

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