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ホドロフスキーのDUNEから「未完の完成」を考える。

ホドロフスキーのDUNEというドキュメンタリー映画は、ポシャった映画として有名なDUNE(ホドロフスキー版)の制作秘話について語られまくる映画どす。

もう、監督がはちゃめちゃに良いキャラしてて、目がキラキラしてる。なんなんだこの人魅力は!!って、ホドロフスキーが好きになる90分だった。

まぁいつものごとくこの映画については他の記事を読んでもらうとして、この映画を見て未完であることの意味について考えていました。

【みかんの完成ではなく、未完の完成。】

この世にはたくさんのものがあるけどそれらはすべて完成されている。完成されているからそれが実際に作られ、我々の手元に届くのだ!(当たり前か!笑)

周りを見渡してみてよ。すべてのものが完成していることに気づいたかい?そこに未完成なものなんて無いんだ!作りかけのテレビなんて置いてある家なんてあるか!ボケ!ナス!タコス!ワサビ!(深夜テンション🙇‍♂️)

モノじゃなくても良い、映画だって建築だって完成しているから僕たちは見ることができる。

でも未完成の映画や建築なんて、腐るほどこの世の中にあるだろうし、その数は、世の中の完成しているものよりも多いだろう。

僕も、建築の設計を進めていたがポシャった経験(コンペに落ちたりもね!)が何度かある。完成させようとやってきたことがいざ完成ならずとなるともどかしさを感じる。あーあ、これで誰の目にも止まらなくなる。これまでやってきたことが水の泡だなんて思ってしまう。

そこで未完成のものを無かったものにしてしまうのは、あまりにも寂しいので、僕たちは未完成の魅力にも気付くべきなんだろう。

未完成になる理由を考えると、クオリティがめちゃんこ低い。もしくは、攻めすぎ。のどちらかなんじゃないかな(お金の話は除く)。ほんで、未完成の魅力は後者にある。

攻めすぎみたいなのは、世間一般が持つ価値観に合わないから未完成のまま終わる。けどそれを世間一般の人たちに届けるために一般的な価値として世に出してしまったらあまりにももったいない。もしかしたら、その攻めすぎたアイデアは、これからの未来をリードするアイデアだったもしれないのだ。そうなったとき、僕たちは未完成のもの魅力に気づくだろう。

未完成のものの中から、次世代を担うアイデアが発掘されるのは往々にしてあることだし、このホドロフスキーのDUNEが後のエイリアンや、スターウォーズに与えた影響と似ている。

だから僕たちは、とにかく作るべきなんだろう。しかし、ただ闇雲に作るんじゃなくて、一つの作品に対して、ホドロフスキーがDUNEにかけた情熱ほどの熱量を持って作るべきなんだろう。

たとえそれが未完成に終わろうとも。。。

このホドロフスキーのDUNEという神話は、未完成の話であり、それが映画という完成した形で世に出された。ぼくは、それを未完の完成と呼ぶ。

完成してしまったものは、たくさんの人の中で消費され、だんだんとすり減り消えていく運命にある。

だからホドロフスキーのDUNEもすり減っていく運命にある。

話は変わるけど、ぼくは、今敏の未完成に終わった、「夢見る機械」という映画を見てみたいと今でも願っている。

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未完成のものは、僕たちの中の想像をかき立て、無数の可能性を残したままその人の中に残り続けだろう。

完成させないことで、あなたの心に残り続ける物を作ることができる。無限の可能性を残したまま完成させるのだ。それは作品の育児放棄では無い。作戦だ。戦略だ。

あなたにとっての未完成はなんですか?

ぼくにとっての未完成は、





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