一年先は、どうなっているのだろうか……
来年8月8日、講演してください。
思わず今年と思い込み、8月のカレンダーを確認する。
ん? 違う違う、来年や……
リアルタイムで何度かのやりとりがあって、改めて来年だってことに気づく。
仕事柄さまざまな依頼案件が毎日のように届くが、一年以上も先のことでピンポイントの日程、かつ中身も含めてイメージできる形でお伝えいただくことは珍しい。
で、ふと思う。果たして、来年は元気でいられるのだろうか……って。
還暦を過ぎて年数が経つと、改めて自分の肉体的老化とともに気力の低下に愕然とする。気にせずとも元気が湧き出てきた頃と違って、意識して気力を保つ必要がある。
幸い、その場になれば自然とスイッチが入る現状はありがたい。
まだまだ現役でいられることを実感するものの、長期スパンで策を練ることに関しては、正直、とことん深掘りして組み立てていくだけの持続力に欠ける自分がいる。
少なくとも、今までの(若い頃の)自分と比べて「どこまで先を見るか」という部分では、太く短くなってきていると思う。
悲しいかな、加齢には勝てない。
となると当然、引き継ぐ先というか、自分の描く未来を委ねる人材の育成が必要となる。さしあたり次は……一般的にはそうなるだろうが、実感としてはそれが「いま、目の前にいる生徒たち」に向かっている。
なぜか……
一番の理由は、未来をつくっていく当事者は世間を知り尽くしたリーダーでもなければ、その輪の中にいる大人ではない。まさにそこに入らんとしている若者世代に切り拓いてほしいと思うから。
多くの組織で次、あるいは次の次くらいまでは見通しが立っているのがこれまでの当たり前。でも、もはやそんな時代ではなく、極論すれば一寸先はわからないのが現実だろう。
そんな中にあって、予定調和で語れる相手に未来を託すのは広がりに欠けるし、リスキーだ。だから、どう考えても自分はもう存在しないであろう時代を生きていく世代に向かって語るべきだと思っている。
これは、焦りにも似た感覚と言ってもいいかもしれない。
自分が「やろうとしてできなかったこと」があるとしたら、その種をどこに蒔いておくのがいいのか……
もちろん身近な立場の大人への水やり、土壌改良は続けていく。描くはその先だ。
学校という場で、教育という仕事に携われていることのありがたさは、そこにダイレクトに向き合える機会が当たり前のように保障されていることにある。
なんて恵まれているんだろう……
今宵、一年先に思いを巡らし、そんなことを考えた。
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