Zoom演劇を初めとしたオンラインでの演劇的な何かの試みはけっきょく演劇“的”なものでしかない。
Zoom演劇を初めとしたオンラインでの演劇的な何かの試みはけっきょく演劇“的”なものでしかない。
それは今般の試みを否定するものではなく(なぜなら新しい表現が生まれる可能性があるから)ただただ、演劇はそういうものではない、という話。これ、きちんと論理的客観的にいつ
か話を書きまとめたい。
要点は、
① 人がその場に同じ時間に集うこと(ただしこれだけだと映画館や美術館などでも同じことが言える。)
② 舞台上の俳優が視聴覚以外の五感を持って、特に呼吸を共にして観客と相互に反応、交流することが出来る。
③ 一部エンタメを除いて共に感じ思考するという“場”を持つことが出来る。(注:ここでいう一部エンタメというのは日常や死、過去や未来を想起するというより、日常から離れて、いわば束の間日常を“忘却”するタイプのものを想定しています。)
④ 何より痛みや悲しみや喜びなどの身体感覚は、目の前にいる人間(=俳優)の身体をメディアにし観客に直接共振される。個々の観客の想像力でもってそれは補完される。これは基本、すべてを“リアル”に説明し切ろうとする映像芸術ではまだ出来ないことだと思う。参考)グロトフスキ「貧しい演劇」?
⑤ 映画映像がその瞬間を切り取り保存する「死」そのもの芸術だとしたら、演劇は「死」を思い、「記憶」を想起させる「生」の芸術なのではないかと思っている。
⑥ 映像芸術に比べて舞台芸術は“圧倒的に”その場に居合わせることの出来る観客、人間の少ない芸術である。それはいいかえれば、その場に立ち会うことの出来なかった観客に何を届けることが出来るか? という特殊な性質を持った芸術の形態なのではないか。
対して、Zoom演劇などはあくまで映像以上でも以下でもない。観客と演じ手の相互反応がリアルタイムで導入されお互いそれを感じられるようになっても、演劇的な想像力が駆使されても、例えば決して、観客に舞台からの物理的な危害(物理的な影響)は及ばない。観客はあくまで覗き見する者でしかない。