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客観視で失ったもの、多様性が向かう先


 子供がおもちゃをねだって大声で泣いて駄々をこねている。
 でも大人はもうそんなことしない。周りの目を知っているし、そのおもちゃ以上に大事なものができることを知っているし、そのおもちゃにはいずれ飽きてしまうことを知っているから。
 ひとつのことしか知らなければ、大声でいられる。
 ひとつの考えしかなければ「これがないと死んじゃう!」「絶対におかしい!」と言える。
 それがしたくなくて、たくさんの考えを手にいれようとしてきた。


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【1:たくさんの客観視】

 小さいころから「変だね」と言われ続けてきた。
 悩んだり傷ついたりはしなかったけど、本当に変なのかは知りたかった。そのことに有効な道具が「たくさんの客観視」だった。

 自分からの主観とは違う、相手の視点。
 さらに相手の視点だけでもない、もっと多くの視点。
 とにかくたくさんの客観視を手にいれようとしてきた。
 そして実際、結構手にしてきたのだと思う。

 客観視を手にしたら、人の考えが分かるようになってきた。
 最初に気づいたのは小学校高学年のときだったかもしれない。
 得意でもなかったはずの放課後のサッカーで、クラブに入ってる同級生のボールを奪えるようになっていた。
 中学生になると、落ちこんだり元気のない友達に即座に気づけるようになった。でもそのスピードでは誰も僕の感情に気づいてくれない。落ちこんでるときは、自分から「落ちこんでるんだよね」とは言いたくないものだなと知った。
 高校生くらいからは、客観視がどうのと面倒だから「人の心が読めるんだよね」と言うこともあった。もちろん冗談と思ってもらってよかった。だけどよく見てくれてる人ほど「やっぱり‥!」と驚いてくれた。

 考えが読めても、中学に上がれば身体能力的にサッカー部のボールは奪えなくなっていったし、考えを読んだ気になって失敗して大反省、ということは未だによくある。
 でもこの客観視のおかげで、失敗の数十倍は困難に立ち向かえてきたと思う。

 そしてとうとう、手にいれたたくさんの客観視で、周りの人を眺めてみた。
 すると大なり小なり、みんな「変」に見えた。普通の人なんてどこにもいなかった。
 みんな多数派や普通っぽく見せているだけで、みんなデコボコでいびつだった。僕はたまたま目立つところが「変」だっただけ。
 ということで変かどうかが気にならなくなった僕には、道具としての客観視だけが残った。

 たくさんの客観視は誰かのちょっとした相談でもよく役に立った。
 相談を聞いて答えていると、その新しくて使えそうなアイディアに聞いてる側が驚いた顔をしてくれることはよくあった。が、話してる側の僕もたいてい驚いていた。
 複数の客観的な視点を結ぶと、僕自身も聞いたことのない、それでいて普遍的なアイディアに行き着くことが多かったから。

 たくさんの客観視があったから今までもエッセイを書いてこれたし、詩も音楽も勉強の下手な人のための勉強できようサイトもこれのおかげで作ってこれた。むしろ、これがなかったら僕は何も作っていなかった可能性さえある。
 どこにもなかったけど、大事なはずのもの。
 それを残そうとしたし、残せると思ったのは、客観視があったからだった。

 ただ、ここ1、2年、この客観視の裏の面が見えるようになってきた。


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【2:客観視で失ったもの】

 それは一言でいうと、熱が奪われるような感覚。
 何が起こっても、そういうこともあるよねと思えるようになってしまっていた。

 ひとつの考えしかなければ「絶対に正しい!」「これはおかしい!」と大声でいられる。けど複数の視点があると「こういう点では正しいこともある」「このことを考えるとあまりよくないかもしれない」と言うようになる。
 声が小さくなる。
 でも客観視で手にいれたかったのはこの「弱さ」だった。
 強い主張で隠れてしまう弱い意見にまで手を届かせたかった。

 頭がいいというのはやさしいことだと思ってる。
 やさしいというのは人の気持ちが分かることだと思ってる。
 少々お待ちくださいと言われて30分待つのと、30分ほどお待ちくださいと言われて30分待つのでは気持ちが全然違う。
 頭がいいというのはそういうことだと思ってる。
 太字になりにくい、かき消されてしまうような気持ち。
 待合室の人の気持ち、苦手な授業を受ける人の気持ち、大声でどなられながら接客する人の気持ち、変だと言われる人の気持ち、人見知りで縮こまる子供の気持ち。それを想像すること。いや想像しようとすること。
 そのことに客観視はこれ以上ない道具だと思う。
 だけどそうして手にいれてきた弱さが、主張さえも弱めていくような感覚がある。

「あなたは悲しくないの?」
 ファンでもなかったはずの有名人の訃報に落ちこんだ母親がそう言ってきて、慌てて「そんなことないよ、悲しいよ」と返したとき、ああ、悲しくないかもしれないと思った。
 それはとても悲しいことだった。

 今までの文章を読んでくれてる人なら、僕をむしろ熱のある人間だと認識してるんじゃないかと思う。僕だってそうだった。熱を帯びると黙っていられず、散々めんどくさそうな顔をさせてきたんだから。
 熱は、自分が相当大事にしてきたことだと思う。
 なのに客観視を手にいれていった結果、熱が、感情が抜けていって「そういうこともあるよね」と言えるようになってしまったこと。
 でも客観視を手にいれてきたのは、人の気持ちが知りたかったからだ。
 これが僕なりの情熱だった。
 その熱の結末がこれかよと、ひどくつまらないような気持ちになる。

 世界のしくみに気づくような文章を、大げさにいえば世界がよくなるかもしれないと思ってエッセイを書いてきた一方で、そういうこともあるだろうなとニュースを呆然と眺めてる。他にも同じぐらい大変な人だっているかもしれないよねとか思ってる。もしかしたらどうでもいいのかもしれない。
 甲子園に出場したことがある人なんて今までに何万人いると思ってるの? とか思えてしまう。「家内安全って言うけど、家の外も安全なほうが良くない?」とか言ってしまいそうになる。

 小さな子供が漢字を全部読めても、そこまで驚いたりしない。
 知り合いの4才の子供は「今度素数を探すんだ」と言っていたし、電車やポケモンを全種類言えるのと一緒で、子供の能力はバラバラでトゲトゲなのが普通なんだと思う。小さいころから能力の円グラフがきれいな丸を描いてるほうがめずらしい。
 普通っていうのは、平均という意味じゃなくて、いろいろあるということ。
 世界が50代のおじさんだけだったら変だし、本屋に音楽雑誌しか置いてなくても変。

『だから「普通はさー」って言うには、経験と想像がたくさん必要なんだよ。なのに1つの経験や2、3の知識を「普通」とか「絶対」って勘違いして、若くして成功したら「夢は必ず叶います!」とか言えちゃうんだよね。夢が叶わなかった人には「夢は叶いません」って言う場所がないだけなのに』

 とか言えてしまう。
 でも客観視ができるようになることは、甲子園に行ったことがある人に「普通ですね」って言うことなんだろうか。ポケモンが全部言える子に「へー」ってリアクションすることなんだろうか。
「家の外も安全なのが良くない?」とか言う人には、何も救えない。
 困ってる国があるらしいと聞いたら「他にもあるはずだよね」などと言わずすぐに寄付したり、倒れてる人がいたら「そういうこともあるよね」などと言わずすぐに救助したりできるほうがいいはずだ。

 それに本当は、客観視ができたからって熱は奪われなくていい。
 おもちゃが欲しくて駄々をこねていたあの子供は、そのうち友達ができて、恋人ができて、家族ができて、孫さえできるかもしれない。でもあの日なんとか買ってもらったおもちゃをずっと大事にしていていい。
 中学の卒業式で「また絶対会おうね!」と泣きながら約束した友達と、高校生活が楽しかったから結局一度も会わなかったみたいなことは、なくていい。
 何か新しい大事なものができたときに、古いものをないがしろにしなくていい。
 全部のものを好きなままでいい。
 ランキング同率1位は可能なはずなんだ。

 だけどそうやって自分を鼓舞していないと、事実として熱が逃げていることから目を背けていないと、やってらんないような気分だった。
 客観視の反対語は主観じゃなくて没頭だ。
 好きなことに対してだけじゃない。悩むときだってガーッと悩んだりしない。俯瞰で見れるから、理解できてしまう。
 ずっと、冷静でクールで偉そうな「大人的」なものが好きじゃなかったのに、必死に手にいれてきた客観視が原因で、熱を失って、大人的になっていく感じがとても嫌だった。


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【2.5:客観詩】


 フリクション

 こんなに好きなのに
 書いて消せるボールペンで告白するような
 鈍い決心のまま
 どうしているんだろう
 逃げ出したいより好きなのに


「こんなに好き」と言ってるわりに「どうして」とずいぶん冷静だ。
 数年前、この詩の公開直前にそのことに気づいた。
 好きという感情の混乱や視野の狭さと、どうしてという冷静さは似合わない気がした。

 詩は写真みたいに一瞬の感情を切り取れたらと思ってる。
 だから上手い下手はあっても、切り取った感情に良い悪いはないし、この詩もこういう人の感情を切り取ったのなら別にいい。
 でも登場人物にいつも自動的に客観視をさせてるなら話は別。自分の客観視がこういうふうに影響することもあるのだとここで知った。
 書き手としては、そうじゃない人の感情も切り取りたい。


 フリクション(書き直し)

 こんなに好きなのに
 告白のときも
 書いて消せるボールペンでしちゃうような
 鈍い決心がわけわかんない
 世界わけわかんない


 恋愛の混乱はこっちのほうが出たと思う。
 最後の行、もともとは「私わけわかんない」だったのを「世界」に変えたら、この主人公はもっと混乱してしまった。


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【3:バランスを探す旅】


 客観視を手にしてから、あちこちの視点を行き来して、正しさを探してきた。
 その結果、正しさはどこにもなかった。正しさは文脈や事情で変わってしまうものが多い。
 唯一正しさがあるとすれば「あちらとこちらを行き来して、どちらが正しいんだろうと探る姿勢」そのものだと思った。
 つまり、バランスを探すこと。
 意見はぶつかるのはどちらも自分が正しいと信じてるからで、それなら、あちらの正しさとそちらの正しさを行き来して、その中間のどこに(現時点での)最適解があるのかを探すのがいい。
 そのことに気づいてからは正しさを探す旅は終わり、バランスを探す旅が始まった。

 そしてそれ以来、意見のどちらかに立つのは好きじゃなくなった。
 どちらかだけに正しさがあることはないから。

 例えば「空気読めよ」という言葉は好きじゃないけど「空気なんて読まなくていい」と言うだけのアドバイスも好きじゃない。
 アドバイスする人にとっては一瞬のことでも、アドバイスされたほうの生活はこれからも続いていくから。空気を読まないことで、嫌われたり文句を言われ続けるのは決して楽なことじゃない。だから「作戦として合わせておくのもひとつの手だよ。そんなことで自分を売ったとかそんなことにはならないよ」くらいは言いたい。
 なかなか人と打ち解けられないと悩む人の服装がだらしない感じだったら「とりあえず身だしなみを整えてみるのもいいんじゃない?」と言うと思う。
 人を見た目で判断しないほうがいいなんて当たり前だけど、実際は見た目で判断されてしまうことも多い。「とにかく内面に自信を持ちなよ!」と言うのは簡単だけど、嫌われ続けるのは簡単じゃない。

 意見には理想が必要だと思う。
 星をつかもうと思ってもつかめないかもしれないけど、泥をつかまされることはありませんという誰かの言葉が好きだ。うまくいかないことがあっても、どちらのほうを向いているかというのが大事なんだと思う。だからまず、理想のほうを向くのが大事。
 そして理想は歌と相性がいいから、歌詞にするにはちょうどいい。
 だけど実際のアドバイスなら、できればそれに「現実的なアプローチ」も付け加えたい。

「勉強なんてできなくてもいいんだよ」
 という言葉が、別のことで夢を叶えた人にとっての正解でも、くじけつづける人の心には響かないこともある。「勉強さえできればいい」は確かにつまらないけど、でもただ勉強ができないだけなのに、他に自慢できることもなくて、親や先生からもいろいろ言われて、まるで自分全部がダメみたいに落ちこんでる人はいる。
 じゃあ、落ちこまないくらいの点数なら取ろうよ。平均点くらい取ろうよ。
 勉強の下手な人のためのサイトをそういうコンセプトで作ったのも、僕なりのバランスであったり、現実的なアプローチであったりした。

 何か好きなものを語るときも、熱狂的なファンでないように振る舞った。
 ファンだからじゃん、と思われたくなかった。
 ファンだから好きなだけなんでしょ? と思われてしまうと、結局見聞きしてもらえなくなる。欲しいのは、それを知らなかった人からの興味や関心で、知ってる人どうしの共感じゃなかった。
 だから、特定の話題にしか反応しないような熱狂的な人たちをもったいないと思ってた。正直に言うと、あまり好きじゃなかった。

 空気読めでも、空気読まなくていいでもないこと。
 見た目だけが大事でも、中身だけが大事でもないこと。
 勉強なんてできなくてもでも、勉強さえしてればでもないこと。
 熱狂的でも、無関心でもないこと。

 ずっとその中間であろうとしてきたし、積極的に第三者でいようとしてきた。
 世の中には当事者がゆえにわかってもらえないことがたくさんある。
「無職でも人権はあるから!」
 と言ってきた人が無職だったら「はいはい、働いてから言ってくださーい」とか思えてしまう。人権はみんなにあるから正解なはずなのに。
 だから、当事者以外の、第三者にしかできないことがあるって信じてる。

 でもその第三者的な視点しかなくなっていく感覚。
 実際作り手が救われるのは、ダサいと言われようが部屋をグッズでいっぱいにして、どんな会場でも足を運んでくれて、会うと号泣して動けなくなって、恥ずかしげもなく作品を引用してくれて、おかげで人生が楽しくなったんですって大声で言えるような、そんな人だと思う。
 第三者的に、別に大ファンじゃないようなふりをしてる人じゃない。
 みんな大人になるにつれて、子供のころの「駄々」を減らしていくけど、それでも好みはデコボコで、どこかにその「駄々」の部分を残してる。
 僕が周りを見回したときに感じたみんなの「変」とは、そういったデコボコだったり、こだわりだったりを指していたと思う。
 そういう熱は確かに自分にもあったはず。今はただ羨ましくなる。

 どちらかにいるのが嫌だったからできること。
 どちらかにいるがゆえに大声になるのが嫌だったからできたこと。
 そのはずだったのに。正しいと思ってやってきたことが、熱を奪っていく。


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【4:嫌いな人がいない人】

「こんな問題習ってねえもん!」
 定期テスト終了後、見たことのない最後の大問に文句を言うみたいなことはよくある。
 でも待って、それ以外の問題は解けてるんだよね? と思って点数を見ると50点台、みたいなことも、塾で働いてたときによくあった。
 結果が50点台なら、その知らない問題も、ワークで1時間かかってもわかんなかった応用問題も無視してよかった。その余った時間で、もう1回基本問題と標準問題を見直すのがよかった。
 だって、テストが応用問題だけで作られることはないから。
 テストには必ず、ほぼ全員ができる問題、授業に参加してた人ならできる問題、ワークを解いてきた人ならできる問題、そしてほぼ全員ができないかもしれない問題が混ぜられる。
 なぜか。生徒の実力を測るため? ちょっと違う。正解は、成績をつけるためだ。

 仮に全員が100点を取れるテストを作ってしまうと、実際には誰がどのくらいできたのかがわからなくなってしまう。全員が0点のテストでも同じ。そのテストだけができなかっただけで、実は全員優秀かもしれないし、本当にみんなできないのかもしれない。
 だからテストは、点をバラけさせる必要がある。
 バラけさせるにはいろんな問題を混ぜないといけない。50点台ってことは応用問題以外も落としてるはずだから、そこを見直せばもう少し点も上げられたと思う。
 応用問題はいったん無視していいし、ワークのその部分も白紙でいい。赤ペンで写してないからと提出点を大幅に下げるような先生のことも、そんなに気にしなくていい。

 ときどき「嫌いな人がいない」という人に会うことがある。
 塾で働いてたときの教室長は「悪ガキって言われるような人も嫌いになれないんです」とよく言っていて、この仕事が向いてるなーと思ってた。
 別の友達は「高校のときとかの、隣のクラスのあの人ってああらしいよっていう噂話が好きじゃなかった」と言っていた。
「だって、話してみたらみんなおもしろいから」
 そうあっけらかんと言うので、まるで噂話をされてた人になったように救われた気持ちになる。この人が近くにいてくれたら、すごくうれしかっただろうな。
 誰のことも嫌いにならないというのは、とってもすごくて、素敵だと思う。自分には真似できない。
 だけどこの人たちと話していくと、この特性にも裏の面があることに気づいていった。

 例えば、この教室長がする家族の話は、どうも愛情が欠けているように聞こえて寂しくなった。
 話したらみんなおもしろいと言った友達は、その高校生当時、進路をずっと決められなかったとも言った。どの仕事も楽しそうだし、どの仕事もお金がもらえるから。
 つまり、嫌いがないということは、好きもないということだった。
 進路に悩んでたその友達は、担任から「もっと上の大学を」と言われたとき「え、下の大学だからって何がいけないの?」と思ってたらしい。学歴で誰かを判断したり、嫌われてるからって誰かを嫌ったりしないこの人たちは、やっぱり素敵だと思う。
 好きな人だけに愛を与えてる人とは違って、この人たちが与えてる愛の総量はものすごいと思う。誰にでも、会ったことない人にさえ、愛を均等に与えてるということだから。
 だけど均等な愛の話は、片寄ってもいいはずの家族の話として聞くと、どうも寂しく聞こえてしまう。
 デコボコがないと、まるで愛がないように錯覚してしまう。
 みんなが100点のテストと、みんなが0点のテストは似ているから。
 みんなのことが好きな状態と、みんなのことが好きじゃない状態は似ているから。

 
 全部の音楽が好きな人より「あんな音楽ありえない! 音楽ってもっとこういうものだよ!」と言ってる人のほうが音楽が好きな気がしてしまう。
 どの町も嫌いじゃない人より「地元最高! 隣町のやつらぶっつぶそうぜ!」と言ってる人のほうが愛があるような気がしてしまう。
 向こうにも言い分があるよねと思える人より「お前、俺の家族に何してくれてんだ!」とブチ切れられる人のほうが愛が深いような気がしてしまう。
 どこの国にだって歴史や背景があるし、そこに住む人たちと私たちって結局似た者同士なんだよねと言える人より「だから〇〇人はダメなんだって!」と言えてしまう人のほうが愛が強いような気がしてしまう。
 いつもリアクションをくれる人より「ずっと見てました」ってときどき反応をくれる人のほうがうれしいような気がしてしまう。
 全員の人が平等に好きな人からもらう愛より「あーよく来たねー。あなたが世界で一番かわいい! ずーっと私の一番!」ってほおずりしてもらうほうが、愛されてるような気がしてしまう。

 嫌いな人がいない人が言う「話してみたらみんなおもしろい」は、客観視で「どの意見も理解できる」というのと似ていて、だから反動としての熱が逃げていくような感覚も似てしまう。
 嫌いな人がいない人は、その性質から大声が減って、ひょうひょうとした雰囲気になりやすい。だから感情的に大声を出す人より、愛がないように見える。自分自身でも、本当は何が好きなのか、誰が好きなのかが見えにくくなる。
 これはデメリットと言えるかもしれない。
 だから結局、嫌いな人がいるのもいないのも「一長一短」だよね。
 なんてまとめるのは、とてもつまらないことだと思う。
 だってやっぱり「話してみたらみんなおもしろい」って素敵だと思うから。
 誰か一人にだけでも分かってもらいたいと思う気持ちの、その一人にこの人たちはなってくれるから。
 だから一長一短なんて言葉で片づけたくない。
 でもどうしても、その能力にはデメリットがつきまとう。


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【5:差を埋める】

 普段約束も守らないわ返信もしないわ暴言もはくような人が、記念日だけ1万円の花束を抱えて「お前しかいないからさ」って言ってくるのは、うれしいのかなと思う。
 仮に記念日のプレゼントがなくても、ずっと楽しくて優しい人のほうがいいんじゃないかと思う。

 ちゃんとしなくちゃ。
 そうやって焦ってる人たちがいる。その気持ちはよく分かる。
 でも「ちゃんとしなくちゃ」と思いすぎると、その裏の「ちゃんとしてないならダメ」という気持ちも強めてしまう。「あの企業に入れなかったらおしまい」と思いすぎると、そうできていない今の自分はダメだと、自分を攻撃し続けてしまう。
 ちゃんとしたいということは、それまで何かうまくいかなかったり、後悔してることがあるのだと思う。だからちゃんとすることで、その過去を払拭したい。精算したい。なんなら、見返したい。
 でも想像してほしいのは、仮にその企業の社長にでもなったとき、今まで見下してきたような人たちが手の平を返したように近づいてきたとしたら、どう思うだろうかということ。意外と、むなしいんじゃないかと思う。
 なんだ、この人たちは、肩書きでしか人を見てないのか。
 さらに、いい大学に入ったり家を建てたりといった「ちゃんとする瞬間」は人生でいうと1%にも満たない。しかもその1%はむなしいかもしれないし、残りの99%はずっと苦しい。
 じゃあ、残念だけど、そもそも「ちゃんとしなくちゃ」と思ってたこと自体が間違っていたのかもしれない。
 大事なのは、1%と99%の差を埋めてあげることだと思う。
 ちゃんとしたらすごい、ちゃんとしてなかったらダメ。そうじゃなくて、ちゃんとしたらまあ頑張ったくらいで、ちゃんとしてなくてもそんなに悪くないって思えるほうがいい。
 この「ちゃんと」というのは、肩書き基準の世界では、というだけだし。

 オードリーの若林さんは、全然売れてない時期、相方の春日さんに変わってほしくて「28にもなってお互い風呂なしに住んで、同級生はみんな結婚してマンションに住んでるのに、恥ずかしくないのか」と問い詰めたことがあるという。
 そこで沈黙した春日さんは3日後、電話で「どうしても幸せなんですけど、やっぱり不幸じゃないと努力ってできないんですかね」と真剣に言ってきたそうだ。
 春日さんは売れてない自分も嫌いじゃなかったんだと思う。だからいつもひょうひょうとしてるように見える。一方で、20代のころには絶対に戻りたくないという若林さんには、許せないことがいっぱいあったのかもしれない。
 だけど本の中で若林さんは、その後売れて生活に困ることはなくなっても、幸福感はあまり変わらなかったと書いていた。
「春日はずっと楽しそうで、若林はずっとつまらなそうだった」

 1%と99%の差を埋めてあげること。
 記念日と平日の差を埋めてあげること。
 ちゃんとしてると、ちゃんとしてないの差を埋めてあげること。
 夢を持とう、夢を叶えようとばかり言われる世の中だから、あまり耳馴染みのない言葉だけど、とても大事で、必要な発想だと思ってる。

 ただこの「差を埋める」という発想は「嫌いな人がいない」という状態に似てる。
 毎日が同じだと、なんだか物足りないような、刺激がたりないような気がしてくるかもしれない。平坦でつまらない人より、暴力的だけどたまにすごく優しい人を選びたくなるかもしれない。
 全部100点という状態は、全部0点という状態に似てるから。
 デコボコじゃないと、熱や愛は見えにくいから。
 だから「差を埋める」ことはもちろん「たくさんの客観視で熱が逃げていく状態」とも似てる。
 あれ? 今俺は何を言おうとしてる?
 客観視はやめたほうがいい、嫌いな人はいたほうがいい、ちゃんとしなくちゃと思ったほうがいいって言おうとしてる?

 そして、さらにもうひとつ、これらに似ている大事なテーマがある。


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【6:多様性が向かう先】

 ひとつの考えに頭でっかちにならないこと。
 簡単に誰かを嫌いにならないこと。
 その大事なテーマこそ多様性だ。

 身体的な特徴や考えの違いで誰かを判断したり差別したりしないで、様々な個性を認め合うこと。
 この多様性の価値観が広がっていくことが間違ってるはずがない。
 だけど多様性が「たくさんの客観視」や「嫌いな人がいないこと」と似ているなら、その裏の面も当然似てしまうことになる。
 マイナスを作らないということは、プラスも作らないということに気づかないといけない。

 極端かもしれないけど、間違えてパジャマで出勤しても、誰も笑ってくれなくなる。
 隣の家の犬がスペイン語を話していても、特に驚いたりしない。
 そういうこともあるからだ。
 見たことないサイズの虹がかかってても、私って寝る前にその日読んだ本を食べてから寝るんですよと言われても、そういうこともあるだろうなと思うだけ。

 笑いは、おもしろいから起こるだけじゃなくて、緊張を緩和する働きもあるのだという。だから怖いのにふっと笑ってしまったりする。
 政治家の失言問題で流失した音声に聞き手の笑い声が入ってることもあるけど、あれも同じだと思う。本能的に空気をなごまそうとしただけだから、笑ったやつを特定しよう、とは考えなくていい。
 雪で転ぶのは危ないと分かっていても、友達が目の前で大ゴケしたら爆笑してしまう。
 予想外のことが起こると、つい笑ってしまう。

 だけど多様性は、様々な個性を受けいれること。
 多様性が進めば、予想外なことにも耐性ができていく。
 お笑い芸人の変顔やギャグではもう笑わなくなるかもしれない。そういう人もいるだろうし、そういうこともあるだろうから。
 いろいろな個性があっていいから、服装のダサいや似合ってるもないし、失礼も丁寧もない。文章の上手い下手もないし、どんな映画を見ても感想は「映画だったなー」と思うだけ。
 まるで感情がなくなっていくような感覚。
 デコボコで通りにくいからとコンクリートできれいに整地したら、どこも似た道路になってしまったような。
 それってすごく、さみしい気がする。

 笑いといじめの構造について考えてみると、残念ながらそのふたつの「構造」はとても似てることが分かる。
 失敗を笑ったり、いびつを笑ったり、異端を笑ったりするのは、お笑いにも当てはまるし、いじめにも当てはまるから。
 探せば、似たようなところと、似てないところがあるのが人だと思う。
 だけど「俺とお前はまったく同じ人間なんだよ!」といいながらいじめてる様子は想像しにくい。違いなんてあって当たり前なのに「そういうとこが変」「そういうとこがキモい」と言っていじめるのだと思う。
 いじめと多様性は相性が悪い。
 じゃあ、仮にいじめと笑いの構造が同じだとして、いじめに繋がるからと笑いは排除するべきだろうか。
 それは理解があるようで、よく考えれば多様性とは全く逆のベクトルだと分かる。
 だって、排除と多様性も相性が悪いから。

 以前、別のエッセイで「グループを作ること」には必ず「排他的」な性質が含まれると書いた。
 この感じ、自分たちにしかわからないよねと思うと、すごく楽しくなる。
 けれどそれには必ず排他的(はいたてき)な性質がある。他を排除した「自分たちだけ」という意識がある。だから同期の集まりに先輩を連れてくる人はいない。
 そして排他的ということは、この構造もいじめとよく似ているということだった。
「自分たちだけ」と他者を排除するレベルが、穏やかだったらグループで、過激化するといじめになるだけ。
 楽しかったはずの「グループ作り」が、度を超すと「いじめ」になるだけ。

 でも、この「度の調整」はとても難しい。
 だってただ楽しくて始めただけのグループなんだから。
 笑いといじめの関係も同じ。楽しかったはずの笑いが度を超すといじめになるだけ。生物学上は同じというイルカとクジラのようなもの。
 じゃあ、その「度の調整」が難しいからと全部排除するべきだろうか。
 クジラが危険と分かったら、イルカも殺すべきだろうか。
 グループを全て排除して解体するなら、カップルも、家族も、国も解体される。毎晩同じ人と電話をするのも禁止だ。
 事故が起こった公園の遊具は全て撤去するべきだろうか。聞き続けてると耳を壊すからとイヤホンは全て販売中止するべきだろうか。
 度の調整が難しいからと、仕組みは同じだからと、全てを排除しましょうというのは、やっぱり暴論だと思う。白と黒のグラデーションの中に答えがあるのに、面倒だから白も黒も排除するようなもの。どうせ争うから滅亡しときましょうと言ってるようなもの。
 そもそも、笑いもグループも、楽しいことはなかなかやめられない。

 容姿に関するエッセイで「努力したわけでもない容姿を褒められても、若いころに若いっていいねって言われたときと同じむなしさしか与えないし、ずっと容姿のことばかり言われてきた人がそれを言わない人に会ったら、うれしいと思う」と書いた。
 もちろん今でもそう思ってる。
 でも例えば、僕が自分の身長の高さを見誤って、旅館の低い天井に頭をぶつけて痛がっていたら「そういうこともありますよね」って分かってもらうより「ほら無駄に背が高いからー!」とあっさり笑ってくれたほうが楽なこともある。
 そのほうがおもしろいこともある。
 結局、誰が言うかとか、どの言葉でどんなふうに言うかとかに気持ちは大きく左右されるのだと思う。
 全部を簡単に排除すれば、おもしろみもなくなってしまう。
 ただ、その「おもしろみ」のせいで傷ついてきた人が、たくさんいるということ。

 だからやっぱり、大事なのはバランスになる。
 全排除でも、このままをキープするんでもない。
 あちらとこちらを行き来して、グラデーションの中に答えを探そうと、バランスを探ろうとしていくしかない。
「これさえすればいいんです」と言い切るのは簡単だし魅力的だけど、そんなに簡単なら、こんなに難しいはずがない。

 21才くらいのころ、世界平和の方法に気づいたことがあった。
 例えば、テレビで温泉宿特集がやっていたとして、それを「へー」だとか「ふーん」だとか横になりながら見ていたとする。そのとき突然、行ったことのある宿が映し出される。そしたら「あ!」と起きあがるかもしれない。「あ! ねえねえ! ここ行ったことあるんだよ!」
 これだと思った。
 これが世界平和の方法。知ることだ。
 知らない場所と違って、知ってる場所には「あ!」ってなる。
 じゃあ知ってることを増やせばいいんだと思った。知ってることが増えれば「あ!」が増える。「ふーん」って思うところならポイ捨てできる人も「あ!」って思うところにはゴミは捨てられない。
 そして意識して「知ること」を繰り返していくと、知らない範囲にも「あ!」が使えるようになってくる。行ったことのある温泉宿に「あ!」って思えるなら、行ったことない温泉宿でも行けば「あ!」って思えるだろうなと分かってくる。
 現時点で知らないだけだなって、分かってくる。
 どこの場所だって好きになれるし、どこの場所でだって友達はできるだろうなって想像できる。
 現時点で知らないだけで、今の今まで出会わなかっただけで、電車で向かいに座った人と大親友だった世界線もあるかもしれない。
 そんなの、客観視の、つまりは想像力の、初歩の初歩で分かる。
 新しい高校でも、新しいバイト先でも、新しい引越し先でも、時々失敗するけど、きっと友達ができるって分かる。じゃあ広い世界、自分を分かってくれる人がいないはずがない。自分が分かってあげられる人が、いないはずがない。
 名前しか知らないどんな国にも優しい人がいて、きっと仲良くなれる。
 想像力で、その国に1人は友達を置ける。
 インドにも中国にもカナダにもロシアにもウクライナにもケニアにもブラジルにも必ず友達はいる。パラレルワールドの友達でいい。実際にいなくても、必ずいる。友達がいるから、その国が嫌いになれなくなる。
 知ってる人がいるところは攻撃できない。どうでもいいと捨てられない。

 
 地元や日本しか知らなければ「地元大好き!」「日本大好き!」と言い続けられるけど、他の場所を知るほど、ここだけが好きだとは言えなくなる。 
 じゃあ、他の国を知ろうと頑張ってきた人は、ここだけが好きだと言えなくなるからダメなんだろうか。
 いいや。知ろうとすること、好きになろうとすることが、悪いはずがない。
 地元だけが最高なんてことは残念ながらない。想像力をちょっとだけ使えば「ゴミ処理場は隣町に設置すればいいよ」なんてことは簡単には言えなくなる。
 会ったことのない友達がそこに住んでいるから。


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【7:何】

 必死に手にいれてきた客観視が、熱を奪っていくような感覚を覚えさせた。
 嫌いな人がいない人たちが、まるで愛がないような感覚におちていった。
 素敵だと思うことも、実際にそこまで行けば新たな課題や問題が見えてくる。
 でも、生活はつづく。
 熱が奪われたからって、何。

 多様性がもっと進めば、どこまで笑っていいのか、どこからが笑っちゃいけないのかがわからなくなる。素敵なことだけが待ってるわけじゃない。
 それもいいよね、これも悪くないよねと言ってるうちに、自分の主張が、熱がどこにあるのかがわからなくなる。
 出会えば出会うほど、知れば知るほど、受けいれれば受けいれるほど、今持ってるものは唯一じゃなくなって、本当に好きだったはずの元恋人も、大勢のうちの一人になってしまうかもしれない。
 じゃあ多様性はやめる? そんなはずない。
 だって多様性が広まれば、これまで少数派と呼ばれてきた人たちが息をしやすくなって、ルールや人の輪に除外されなくなっていく。間違ってるはずがない。
 デコボコをなくそうとしてきたんだから。
 その平坦こそ、手にいれようとしてきたんだから。
 好き嫌いが激しい人たちは大声で、なんだか圧倒されてしまうこともある。でも、それでも、知ろうとしたこと、好きになろうとしたことが間違ってるはずがない。
 誰かを受けいれるということは、自分を受けいれるってことでもある。
 みんな変なんだから。外れるのは苦しいんだから。
 誰かの変を受けいれられたら、自分の変だって受けいれられる。
 だけどみんなが100点のテストはみんなが0点のテストに似ていて、平坦にしちゃえば何が好きなのかはわかりにくくなる。
 だからって何。
 わかりにくいだけ。愛の総量の差は歴然としてる。
 それに愛の数が増えることは、それぞれへの愛が減ることではないと信じたい。
 高校で新しい友達ができても、中学の友達を大事に思ってていい。
 話せばみんなおもしろいと言っていた友達は、推しのミュージシャンがテレビに出るだけで大号泣するそうだ。数と量は、きっと両立する。

 素敵なことだけが待ってるわけじゃない。でも間違ってない。
 多様性が進んだら、今度は「度の調整」の問題にぶち当たる。さらに現時点では予想のつかない問題だって出てくる。そしたらまた考えるだけ。
 違いを認め合いましょうは、まだ分かりやすい。
 けど「度」は言語化や数値化がしにくいから、こっちのほうがもっと難しくなると思う。
 でもやっぱり全てを排除するわけにはいかない。間違ってないなら諦めるわけにもいかない。
 あっちとこっち。自分と他人。他人とまた別の他人。正しさと正しさ。
 多様性が進んだらそこから、あちこちを行き来して、バランスを探す旅が始まる。みんなの旅が。






■参考にしたもの
□社会人大学人見知り学部 卒業見込(若林正恭)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321510000058/

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今まで、エッセイを書くときは以前のテーマに触れないようにしてきたつもりでした。
でもこのエッセイは、今まで自分が書いてきたエッセイのベスト版のような、リミックスのような、信じられない数の文章が組み合わさって、新たな部位が生まれて、ひとつの大きなエッセイになりました。


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