「新聞勧誘」
東京で一人暮らしを始めて5年が経った。
一人暮らし自体が初めてだった5年前に比べれば、一人暮らしで起こりうるものは大体経験してきた。
トイレの水漏れ、エアコンの交換、隣の部屋から聞こえるテレビの音、料金を払い忘れてガスを止められたこともある。
そんな一人暮らし歴も中堅に差し掛かろうかというときに、それは突然やってきた。
何の変哲もない木曜日の夕暮れ。
おもむろに家のインターホンが鳴る。
覗き穴の先には誰もいない。
恐る恐る扉を開く。
そこには20代半ばの青年が立っていた。
「いや〜ありがとうございます。ちょっとこれいいですか?」
挨拶もなしにその青年は消毒用のジェルと洗剤とタオルを押し付けてきた。
「いや〜この辺回ってて〜、助かりました〜」
要領を得ない言葉は続く。
「自炊とかされます?米3kgあるんでひとまず渡しちゃいますね。ちょっと待っててください」
お米をひとまず。新手の慈善事業か。
数分後、お米3kgを抱えた青年は僕の胸にそれを押し付けた。
「いや〜本当に助かりました。今の若い子だと結構厳しいみたいで。3ヶ月とかですぐやめちゃっていいんで」
ここで言葉の端々から新聞勧誘の匂いが香り立つ。
「あのまだ何も聞かされてないんですが、これは一体何ですか?」
独り言の隙間をようやくつくことに成功した僕は早口でその質問をねじ込んだ。
「そうですね〜」
青年は一体どこに隠し持っていたのかと疑わざるを得ないサイズの紙にペンを走らせ出した。
あまりの手際の良さに気圧されそうになりながらも、負けじと僕も言葉を発した。
「順序おかしくないですか?こういうのってあとから渡すんじゃないんですか?」
先程までの勢いは何処へ行ったのか、
彼は分かりやすく肩を落とした。
「やっぱ厳しいですか。ありがとうございました」
撤退のスピードも早かった。
潔さだけは随一だと言わんばかりに、
彼は3kgのお米を手早く回収した。
「あの残りのものは?」
「記念です」
なんのだよ。
よく分からない格好をつけて
彼はその場を去っていった。
これが東京の新聞勧誘か。
そんなことを思いながら、
彼の置き土産である消毒用のジェルを一押しして自分の手によく染み込むように塗り込んだ。