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アレイシ・エスパルガロ選手引退によせて (前編)

2024年5月23日、アプリリアレーシングのアレイシ・エスパルガロ選手(34)が今シーズン限りでの引退を発表しました。

アレイシは、2000年代前後から現在に至るまでとんでもない勢いでレジェンドライダーを排出し、今や最大勢力となっているスペイン勢の多くのライダーのなかにありながら、決して順風満帆なライダー人生を送ってきたわけではないと僕は思っています。

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僕は2010年代初頭に深夜の地上波で放送されていたMotoGPをチョロチョロ見ていたのが始まりで、2017年から本格的にMotoGPをフルシーズン見るようになりました。

2010年に初めて最高峰クラスへのフル参戦を開始し、プラマックで白と黄緑のカラーのドゥカティに乗っていた頃は、上位争いに顔をのぞかせることもほぼなく、ルーキーとしては典型的なポイント圏前後を争う実力でした。

2010年、最高峰クラスフル参戦初年度のアレイシ
シーズン最高位は8位で、年間ランキングは14位に
終わりました

09年の4戦スポット参戦を含めてもおよそ1シーズンちょいで見切りをつけられ、翌年11年には中量級に出戻り。今でこそ滅多に見なくなりましたが、当時はこういった1年での降格はおろか、シーズン中でも容赦なく昇格や降格、シート喪失などが起きるのが日常茶飯事でした。

アレイシがMotoGPクラスで走っている間に中量級は2ストロークマシン250ccで競うGP250が終了。4ストローク600ccマシンのMoto2クラスに置き換えられました。

しかしアレイシは新天地でなんとか自身のライディングを適応させ、この年のカタルニアGPで世界選手権デビュー後初の3位表彰台を獲得。04年スペイン選手権125ccクラスでのチャンピオン獲得から、実に7年ぶりでした。

2011年カタルニアGPで3位のアレイシ(右)
中央はこの年Moto2チャンピオンになるブラドルで、
左は前年125ccクラスを制したばかりのM.マルケス

翌年12年には再び最高峰クラスに戻るも、自身が所属するパワーエレクトロニクスアスパーチームが選択したのはCRT。CRT(クレーミング・ルール・チーム)は、当時撤退が相次ぎMotoGPクラスへのエントリーチームが減少傾向だった中、予算の少ない独立チームがMotoGPにワークス参戦していないメーカーのマシンを使って参戦することを奨めた制度でした。この制度は後に廃止されることになるのですが、何せ市販車ベースのエンジンを独自のシャシーに乗せただけに近いマシンでは、生粋のレーシングマシンを使用するワークスチームとは速さに雲泥の差があり、到底互角には戦えないような状態でした。

そんな中でアレイシは、当時ワークスで最高峰クラスに参戦していなかったアプリリアの市販車、RSV4をベースに使用したマシンで、優勝争いにこそ加われないもののCRT勢の中では卓越した速さと安定感を発揮し12・13年とCRT部門のチャンピオンを獲得。

優勝争いにこそ加わることが出来ないものの、
与えられた環境下で最大限の力を発揮
多くのワークスマシンと互角の戦いを繰り広げ
CRT部門で2012年・2013年と連覇を達成

2013年に2歳年下の弟であるポル・エスパルガロがMoto2クラスでチャンピオンを獲得し、翌年2014年にはアレイシと同じ最高峰クラスに昇格してきました。弟は昇格初年度からヤマハのセカンドチームで活躍し、ルーキーイヤーから年間ランキング6位と素晴らしい成績を残す裏で、2014年もワークスチームのシートには恵まれなかったアレイシ。CRTを基礎とし改良されたオープンクラスのマシンを採用するフォワードレーシングに移籍して引き続き厳しい戦いを強いられるも、第14戦アラゴンGPでは、当時2度のMotoGPチャンピオンを獲得しヤマハワークスのエースだったロレンソ以外の全てのライダーを抑えついに2位表彰台を獲得。オープンクラスマシンでの表彰台獲得は、僕の記憶の限りではこれが最初で最後だと思います。

14年アラゴンGPではオープンクラス勢初、
かつ最高峰クラス自身初表彰台となる2位を獲得

例えとして合ってるかは微妙なところですが、
どのぐらい凄いかというと、ロードバイクの大会で
改造ママチャリで優勝争いするようなもんです

この年は、世界デビューから10年間で自身最高成績となる年間ランキング7位を、最高峰クラスで、しかもオープンクラスマシンで獲得。

CRT・オープンクラスでの3年の奮闘から、ついにアレイシのライダー人生最大のチャンスが舞い込んできました。2015年に4年ぶりにMotoGPに復帰する、スズキワークスのライダーに抜擢されました。

メーカーにとって4年ぶりの最高峰クラス復帰ながら、アレイシは第7戦カタルニアGPで早くも復帰後初のポールポジションをチームにプレゼント。と同時にこの歳から最高峰クラスに昇格してきた、チームメイトでルーキーのビニャーレス(当時20歳)も予選2番手につけ予選ワンツーを記録。

スズキに復帰後初のポールポジション(予選1位)を
もたらしたアレイシ(左)と、この年Moto2から
昇格してきたばかりながら予選2番手のビニャーレス(右)

この2人は2015・16年とスズキで一緒に戦いましたが、
のちにアレイシが現在所属するアプリリアにビニャーレスが
移籍してくる形で2021年から再びチームメイトとなりました

自身は2016年までの2年間で表彰台に立つことはできなかったものの、ワークスライダーとして開発に携わったマシン「スズキ・GSX-RR」はその後、16年第12戦イギリスGPでビニャーレスにより復帰後初優勝。20年にはジョアン・ミルのライディングによりスズキにMotoGP史上初の世界チャンピオンの座をもたらし、22年シーズン限りで再びMotoGPから撤退してしまうものの、8年で7勝をあげる素晴らしいマシンになっていきました。

2016年第12戦イギリスGPでビニャーレスが初優勝
スズキにとっては07年フランスGPのバーミューレン以来
9年ぶり、のちにチャンピオンマシンにまで上り詰める
「スズキ・GSX-RR」の記念すべき1勝目でした

また、この優勝を含むこの年の活躍によりビニャーレスは翌年
MotoGP界の伝説のライダー、ロッシのチームメイト
としてヤマハに移籍しトップライダーの道を歩み始めることに
2020年にジョアン・ミルのライディングにより
ついにGSX-RRはチャンピオンマシンに

スズキ創業100周年となるメモリアルイヤーに、
スズキとしては00年ロバーツJr.以来20年ぶり、
スズキの4ストロークマシンとして初のチャンピオンを獲得
2022年シーズン限りでMotoGPからの再撤退が
決まっていたスズキでしたが、そのシーズン最終戦
バレンシアGPでは、アレックス・リンスがチームの
8年間の挑戦のラストに花を添える勝利を記録

結果的にリンスは2017年のスズキ加入から6年で
5勝をマーク。2019年には絶対王者マルク・マルケスの
アメリカズGP8連覇を阻止したり、先に記した
スズキMotoGPラストレースを勝利で飾るなど、
GSX-RRで最も多くの勝利をあげました

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アレイシは、僕としても本当に思い入れがあるライダーなので、どうしても文章が長くなってしまいますね。

この記事の最後のほうは、アレイシ個人の話より「アレイシのマシン開発」に寄った話になってしまいましたが、これがアレイシ自身の晩年のキャリアにもかなり活きていきました。

後編も近日中更新予定ですので、お楽しみに。

追記(2024/5/30 23:15)
前後編の2記事の予定でしたが、アツくなって長くなってしまったため3記事となります。続きは中編をご覧下さい。↓

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