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身体情報学とテラヘルツ技術 / Information Somatics and Terahertz Technology
はじめに
稲見・門内研究室(東大先端研/情報理工システム情報/計数工学科)で取り組んでいる身体情報学とテラヘルツ技術との関係について質問を頂くことが多いので、ここで説明します。特に進学先を考えている方々の参考になれば幸いです。研究成果の詳細については論文をご参照下さい。
We frequently receive inquiries about the relationship between “information somatics” and “terahertz technology”, which we are working on in the Inami/Monnai Laboratory (Research Center for Advanced Science and Technology / Dept. Information Physics and Computing) of the University of Tokyo. Thus, we explain the concept more in detail here. We hope this information will be useful especially for those who are considering graduate school application. For details of our research results, please refer to our publications.
テラヘルツとは
テラヘルツ波とは、電波と光の中間の周波数(およそ0.1-1THz)を持つ電磁波の総称です。超音波が「耳に聞こえない音」であるのと同様に、テラヘルツ波は「目に見えない光」です。
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20世紀中にはテラヘルツ波を工学の対象として扱うことは困難でした。その主な要因として、電波側から発振回路を作るには周波数が高すぎ、光側からレーザーを作るには周波数が低すぎることが挙げられます。しかし、21世紀になってから半導体技術の進展とともに両者のギャップが埋まりつつあり、近年の世界的な Beyond5G/6G の開発機運も追い風となって、高速無線通信や非破壊計測などへの応用が現実的なものとなってきています。
我々は、このようなテラヘルツ波が、物理世界と情報世界とをつなぐインタフェースとして有望であり、通信・計測・制御の観点から生体を捉えるサイバネティクスの工学的実装において重要になると考えています。
テラヘルツ波の周波数
テラヘルツ周波数はスマホやwifiの電波よりも2~3桁高く、赤外・可視光より2~3桁低い帯域です。我々は電波を操る際には金属の棒(アンテナ)を、光を操る際にはガラスの球(レンズ)を使いますが、テラヘルツ帯ではどちらを使うべきでしょうか?また、そもそも電波と光は同じ方程式に従うのに、なぜ異質な材料を使うのでしょうか?個人的にはこのような類似性や相違点に興味を持ったことが、テラヘルツ技術を研究し始めたきっかけでした。
テラヘルツ帯は従来の電波よりも周波数が高いため広い帯域幅が得られます。また、光よりも波長が長いため多くの媒質に対して光と異なる透過性・吸収性を示します。情報キャリアあるいは計測プローブとして、これらの性質を様々に応用するには、しばしば要素技術の不足に直面します。そこで、要素技術を作りながら応用システムを作ったり、ハードを作りながらソフトを作ったりするなどハイブリッドな取り組みをしています。
周波数帯域幅と情報量・分解能
一般に、通信ではキャリア周波数のまわりに帯域幅を確保することで情報を送ります。デルタ関数的なスペクトルで単一周波数を送るだけだと、無限の過去から未来まで単一の音を鳴らし続けているのと同じで、情報を伝えるのは困難です。豊かな表現をするためには帯域幅を広げる必要があります。ピアノで言えば鍵盤の数(=帯域幅)を増やしていろいろな組み合わせとリズムで叩けることが必要です。伝送容量を記述するシャノン・ハートレーの定理は、表現可能な音のバリエーションを、指の太さに対してどれだけの密度で鍵盤を並べるかということまで含めて定式化していることに相当します。
計測でも同様のことが言えます。iphoneの顔認証で使われるtime-of-flightカメラ、眼底や表皮下の断層を非侵襲で視るOCT、あるいは航空・船舶・自動車等の各種レーダーでは、送受信される波の帯域幅が広いほど細かな距離の違いを表現することができます。なお、計測とは対象物から情報を抽出するプロセスであり、現象としても意味としても通信とあまり違いません。そのため、我々自身もあえて両者を区別しないようにしています。
以上のように、周波数帯域幅は基本的に広く取りたいものですが、もし理想的に広帯域な送受信器があったとしてもアンテナやレンズ、あるいは導波管や光ファイバなどのインタフェースによって周波数帯域幅は制限されます。例えば、半波長ダイポールアンテナはアンテナ長が半波長に近い周波数帯でしか狙い通りに動作しません。しかし、この近さは相対的なものなので、キャリア周波数が高いほど帯域幅の絶対値は広くなります(3GHzの10%は0.3GHzだが、300GHzの10%は30GHz)。
ビームステアリングの必要性
周波数の高さは波長の短さと表裏一体です。フリスの公式によると無線伝送の回折減衰は周波数の2乗に反比例するため、テラヘルツ波の回折減衰は従来の電波とくらべて4~6桁も大きくなります。したがって、テラヘルツ波を伝送するには回折減衰を補償することが不可欠となり、具体的には開口径の大きなアンテナで高指向性ビームとして伝送する必要があります。
厄介なことに、高指向性ビームは簡単に遮蔽されたり送受信器間のアラインメントがずれたりするため、ビームやその迂回路を自動で形成・走査するビームステアリングが必要となります。そこで我々はまず、あらゆるテラヘルツ応用の基盤となるビームステアリングの研究に注力しています。
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ビームステアリングの実装には、人間とデバイスの両方の世界のスケールやダイナミクスを考える必要があります。テラヘルツ波の波長は1mm規模、必要なレイリー長は1m規模となるため、アンテナや導波路などの構造は最小スケールが10~100um、最大スケールが1cm~10cmと広いダイナミックレンジを持ちます。このようにマクロとミクロのハイブリッドな構造は、機械加工や3Dプリントにとっては小さく、MEMSなどの微細加工にとっては大きく、設計や製作に様々なアイデアが必要となります。
テラヘルツビームステアリング全般の技術動向についてこちらのレビュー論文で解説しているので、詳細に関心のある方はご参照下さい。
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吸収性と透過性
水は可視光をほとんど吸収しないため透明に見えます。一方、水はテラヘルツ波をよく吸収するため、もしテラヘルツ波を見える目があれば、水は真っ黒に見えるはずです。吸収性の媒質に光を照射すると熱膨張を通して音に変換されることがあり、光音響効果として知られています。生体の大部分は水であるため、適切に変調されたテラヘルツ波を照射すれば音響波が生成されます。このような現象の応用についても取り組んでいます。
超音波エコーのように体内で音響波を利活用するには、音響インピーダンス整合のために体表にジェルを塗布してトランスデューサを密着させることが不可欠です。光音響効果を用いると、このような密着を回避できる可能性があります。また、テラヘルツ波が水に照射されると、吸収と同時に屈折率の違いによって反射も生じます。この反射波を検出すると、心拍動など体表に現れる微小変位を衣服越しに非接触に測ることができます。これらの非接触化は、単に計測を手軽にするだけでなく、日常生活中や運動中など従来は難しかった場面において継続的なモニタリングをできるようにする可能性があり、予防医療やスポーツスキル向上など広い波及効果が考えられます。
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有線 vs 無線
ここまで、情報キャリアおよび計測プローブとしてのテラヘルツ波の性質について説明してきました。ここからは、それに基づく広い意味でのワイヤレス技術の方向性・可能性について考えてみます。
生体は様々な階層とモダリティで他者と通信し、相互に影響しています。体内の細胞間や臓器間では化学物質やイオンの交換により、対面する他者とは視聴触覚により、そして遠隔地同士では光ファイバや無線回線などの伝送路を介して情報を交換します。
体内では、神経や血管をはじめとするケーブルが極めて煩雑に配線されています。ケーブルは、化学物質にせよ電気信号にせよpoint-to-pointで高効率良く伝送できる空間選択性に特徴があり、身体の隅々まで張り巡らされた無数のケーブルで生命活動の情報が伝送されています。水が何十リットルあってもそれだけでは生命体にならなさそうなことからも、これらの情報伝送こそが生命活動を特徴づけていると言えます。
当然、ケーブルは一度繋いでしまうと長さや接続先の変更が困難になります。このことは我々の身体の在り方を大きく規定しています。テレ・フォン(遠隔聴覚)やテレ・ビジョン(遠隔視覚)は、視聴覚に関わるケーブルをバーチャルに無線化することで、人の身体を拡張してきました。固定電話がスマホに移行したことは、単にケーブルがなくなって便利になった以上に、我々の行動様式や文化を変えてきました。稲見昌彦先生は、視聴覚を超えた身体の「自在化」を提唱されています。
百聞が一見に如かないのはなぜか?
音声ファイルはMB、動画ファイルはGB程度となることがよくあります(同じ尺で無圧縮の場合)。このデータ量の違いは人間の感覚器に由来していると考えられます。目の中にはメガピクセルのセンサがあるのに対して、耳は2ピクセルしかありません。一方で、耳は数十kHzの音まで聞き分けられるのに対して、目は1秒間に10コマの絵を見分けることは困難です。つまり、空間情報量は視覚の方が6桁大きく、時間情報量は聴覚の方が3桁大きいため、それらの比からMBとGBの違い、すなわち「百聞は一見に如かず」を説明できそうです。
1Gから5Gまでの通信技術の進化により、音声から動画までが無線でやりとりできるようになりました。そのような情報伝送が今後さらに拡大することは必然でしょうか?現状では、ギガ無制限のスマホプランを契約しても、月々の使用量が数十GBを超える人はそれほど多くないかもしれません。
知性の情報量と感性の情報量
LLMに基づくAIの中には、数十GB程度のメモリのローカル環境があれば実行できるものがあるようです。そうなると、知性の発揮に必要な情報量はどのくらいなのかという問いが生じます。人間の感覚器には膨大な情報量が入力されますが、そこから意味や特徴を抽出すると少ない情報量に圧縮されます。その結果、記憶や言語化が容易になり他者にも伝達できるようになります。体験や感覚を言語化し、情報量を圧縮することは知性の重要なはたらきですが、情報量的な観点からは省エネ化しているとも言えそうです。
とはいえ、解釈時に圧縮によって削減された情報は無意味ではありません。先日子供と一緒にNintendo Switchの電車でGOをプレイしたとき、スーファミ世代の筆者は緻密なCGに隔世の感を覚えましたが、昔と比べてゲームの面白さ自体は大差ない気もしました。面白さを捉えるのが知性で、リアルさを捉えるのが感性であるならば、感性はより大きな情報量を必要とするように思われます。また、細部に目を向ければどこまでも高い解像度の情報を出してくるのが自然界であるため、学習済みの知識を超えて未知の事柄を発見・理解するうえでは特に細部を捉えることは重要です。今後人間だけでなくAIが現象を観察し理解し表現していく場合は、人間の解像度とは異なる基準でデータを扱う必要性も高まりそうです。
また、一人称的な体験と比べて、他者と体験を共有する場合には扱うべき情報量が途端に大きくなります。初代スーパーマリオのデータ容量は40kBしかなかったそうです。このことはわずかな情報量でもプレイヤーを没入させることができることを示していますが、一方でオンラインプレイのように遠隔地点間で体験を共有することは当時の技術では不可能でした。目の前で生じる体験を人工的に再現することの困難さは、Zoom会議が普及した現在、より広く認識されるようになっています。
人間の脳内には100億オーダの神経細胞があると言われ、さらにそれらが複雑なネットワークを形成しています。近年、大脳皮質に埋め込める大規模電極アレイや、超音波イメージングを応用して脳内微小血流の変化を読み取るfUSなどの技術が登場してきています。チャンネル数(空間分解能)とサンプリングレート(時間分解能)の積を考えると、生成されるセンサデータは膨大になり現状のwifiには重すぎることが分かります。もしそれらをワイヤレス伝送できれば、言語以外のインタフェースで人やAI同士がつながる道筋が拓かれ、新たな知性が発揮され始めるのではないかと考えられます。
否定形を用いずに無線を表現できるか?
以上のような問題意識で、テラヘルツを中心とする広い意味でのワイヤレス技術の研究に取り組んでいきたいと考えています。ところで、ワイヤレス、無線、あるいは非接触というワードは、全て否定形で表現されているという共通点があります。つまり「デフォルトであるべきものがない」という表現が使われています。
しかし、人が直観的に行っているであろう目や耳を使った通信において、そこにケーブルがないことは陽に意識されるわけではなく、むしろその状態をデフォルトと考えた方がより自然なのではないかと思われます。稲見昌彦先生からレトロニムという考え方を教えて頂きましたが、ワイヤレスはまさにレトロニムであると言えるのではないかと思います。研究を通して、ワイヤレスに代わる新しい言葉を考えられるのではないかと思っています。