朝に紅顔ありて夕べに白骨となる
世の無常に立ち止まるとき この言葉を思い出す。
私たちの日の常に潜む、紛れもない事実。
果たしてどれだけの人がこの事実を見つめているだろうか。
「そんなこと」と吐き捨てる誰かと、そんなことを気にも留めずに暮らせるこの国は、豊かで、恵まれていて、幸せで、愛しくて、美しい。
そんな素晴らしいはずの暮らしの中にある、当たり前の幸せ。もしくは 幸運。
それにすら気付かず、見落として 私は日々を過ごす。
いつかのあの事故。いつかのあの大きな災害。いつかのクローゼット、その奥でついには追いやれなくなった叫び。誰かの思想に偏った扇動。加担した無言の人間。蹴とばした石ころ。思いもせずに踏んだブレーキ。
電子板を撫でた指。再生できなくなった言葉。思い出せなくなった色。
消えた匂い。わずか0.01㎜の距離感。冬を悟った猫。
君のために放った言葉は私のためでしかなかった。
私たちが 日の常を、人の常を、生の常を思い知れるのは、亡くした命と文字や動画や音声で触れ合う、その瞬間だけだ。
その光や音、熱からもたらされる信号は、心に少しの重たさと不安だけを残して、過ぎ去っていく。
刹那、私は振り払うように目をそらし、目線の先の幸せに縋る。
骨すら見ずに それは終わる。
そうまでして忘れないと 人は生きられないのだろうか? そうまでして目を逸らさないと。と考える間、纏わり付くように重く苦しいということはそうまでして覚えている方が生きる上で、パフォーマンスが悪いのだ。きっと。
日々、微々として淘汰されていく人々の骨に、残りの日々で私はいくつ気が付けるだろう。
あわよくば。 あわよくば、まだ肉を纏ったその骨に、いくつ触れられるだろう。
触れていたい、できれば掌で。本当はそのずっと奥、心みたいな信号で。
人は死ぬ 物も死ぬ 文化も 伝統も いつかいつかは、おそらくは。
誰にも見つからないかもしれない私の白骨に、この意志は滲むだろうか。
紅顔も 白骨も、等しく いみじく 見つめていたい。
できれば共に 寂しく。あわよくば共に 温かく 。
いつか思い出すことが出来なくなるまで。
yasu