自己肯定感を上げるたった一つの方法1
突然ですが、
「あなたは過去を思い出し震えるような不安感を覚えたり、完璧主義から人目が気になり、自分の思う通り主張・行動ができなかった」
という経験はありませんか?
僕もそうでした。
HSPという「非常に感受性が強く人一倍敏感である」気質を持ちながら、23歳の時に不安障害・パニック障害にかかり25年もの間、自らを非難する日々を送ってきました。
それはそれは辛い日々でした!
このままだと
「会社員として勤めながら、私のように自らを責め続けてしまう方が辛い思いをしてしまう、そんなの自分の人生ではない」
ということを、
"一人でも多くの方へ伝えたい"と強く思いました。
だから、私が25年間もがきながらやってきたことを公開し、自らを非難し続けてしまう方に、
「心から安心して日々を幸せに過ごせる」ようになってもらいたく今回綴ることとしました。
私の生い立ちと共にとってきた行動を解説していきたいと思います。
■はじめに:
このNOTEを読んでもらいたい方々
▼上記に当てはまらない方はお読み頂く必要ありません▼
このNOTEは、私の育った体験を踏まえ、"ご自身が自己肯定感を上げたい方、これから育児をされる方"へ参考にして頂く為に、全てをさらけ出しています。
辛かった幼少時代〜現在に至る全てを記載しています。
という方にも参考になると思います。
今後、ますますオンライン化が進み、SNSなどは孤独を感じやすくなると言われています。
SNS人口は軒並み増加傾向にあり、今後も更に患者数の増加は避けられないと言われています。
"実際に、皆さんの会社や友人でも、悩んでいる方が増えていませんか?"
一見何でもないように見えても、口数が減ったり笑顔が減るといった症状は、精神疾患が進んでいることに繋がります。
本人ではわかりにくいことでも、周囲から見たらわかる状況も多々あります。
どうか、周囲の方々をそういう目で見て頂き、"笑顔が減ったとか、口数が減っている"と感じたら、一声かけて話を聴いてあげて欲しいと思います。
精神科・心療内科への通院については、数年前と比較すると通院患者が増加したことにより、だいぶ社会的に認知されるようになりました。
私が初めて精神科に通ったのは、約18年ほど前。いざ通院するとなった時は、なんとも言えない絶望感を持ったのを覚えています。
でも、あの時思い切って通院を始めて良かったと思っています。
(1)小学校低学年の頃
幼稚園の頃の記憶は鮮明には覚えておらず、小学校低学年の頃からの記憶を辿ります。
一般的には、子供にとって父親より母親との接し方が大きく影響します。
それは、父親は会社へ行き、母親と一日中一緒にいる事が多いからです。
私の家庭も一般的で、平日は父親は会社勤め、母親は家で内職をするといった状況で、母親とは一日中一緒でしたし、子供である私にとって、”母親は絶対的存在”でした。
私には2つ年下の妹がいます。母親は私にも妹にも当然、同じ接し方をしました。妹がどう思っていたか、それは文末で書きますので、最後までお読み頂けると嬉しいです。
さて、話を戻しましょう。
絶対的存在だった母親に対する印象は、「優しい母親だった」というより、正直、「優しいけど口うるさかった」という方がしっくりきます。
でも、今考えると子供の為に精一杯になっていたのでしょう。
それは、「単に母親が過干渉だった」のです。
印象的に覚えているのは、平日に学校へ行く前のこと。父親は既に出勤している為、不在でした。
「ハンカチ持った?」「爪は切った?」「漢字テスト覚えた?」
この3言は家を出る前に、玄関での儀式のように聞かれました。当然、私と妹は一緒にいました。妹は、私の2年前のテストを毎朝見せられていました。
小学校時代は、近所でまとまって登校していましたが、友達を家の前で待たせてまで、この3言が小学校の6年間続きます。
さらに、これらは中学になっても続くのです!
高校になるとさすがに聞かないだろうと思いますよね。家を出る前に聞いてきた時は、さすがに反抗し言い合いになったことを覚えています。
なぜ母親がこの3言を毎朝聞いてきたか想像はつくと思います。
母親は、子供である私がハンカチが無くて困るのではないか、爪が伸びていると危ないから言ったんだろう、普通はそう思われると思います。
実はそうではないんです
この点検に引っかからないよう、テストで間違えないよう、毎朝口うるさく言っていたのです。
朝だけではなく、帰宅後も「今日の漢字テストはどうだった?」「持ち物検査にひっかからなかった?」と聞かれました。
時には「〇〇ちゃんはどうだった?」と友人の名前を出し比較されました。
10点満点の漢字テストでは、9点でも原因を追究されました。そんな日は家に帰りたくないって思っていましたね。
父親は出勤後のことなので、知っていたかは定かでありませんが、父親が教育のことにほとんど口出ししなかったことが唯一の救いでした。
子供だってバカじゃありません。学習能力はもちろんありますから、1年も言われれば自然とハンカチを用意しますし、爪も切るようになります。
漢字だって学習するようになります。それをわかってくれませんでした。子供ながらに、なんで毎日同じ事を聞くんだろうと思っていました。
私が、父親になった今だからこそこの気持ちは十分わかります。
結局、母親は、「自分の子供は良くできる子だよ」、「他の子と比べても優っているんだよ」という自身の満足感を満たす為のものだったのです。
あそこの家の子は漢字テストもすごいねって言われたかったのでしょう。
授業参観では、持ち物検査、漢字テストの結果が廊下に貼り出されました。”友人と自分の子供を比べて優越感に浸っていた”のだと思います。
先程、「私が父親になった今だからこそ、この気持ちは十分わかります」と書きました。
ですが、私は自分の子供に対し、私が言われ続けたような、洗脳のようなことは一切しませんでした。
もちろん口を出したい事もありましたが、その時はグッとこらえ、子供を信用することにしました。
良く、虐待されて育った子は親になっても虐待をするようになると言いますが、それこそ葛藤なのです。
妻が言わない分、私が口を出したくなることも多かったのですが、そこは反面教師としてこらえました。
母親はとにかく、全てにおいて、完璧じゃないと気が済まない、俗にいう「完璧主義」の考えが強かったのです。
完璧主義・・・
もしかすると母親自体もそのように育てられたのかもしれませんが、「子供の事を信用する」ということがどうしてできなかったのか?
「私も妹も、もっと信頼して欲しかった」、今になってそう思います。
子育ての大きな問題に”過干渉”というものがあります。
これは親として子育てをする以上、避けてとおれない葛藤です。
親としては、子供を守りたい、大切に育てたいという一心で子供の様々な問題に口を出したくなります。ただ、本当に将来その子のためになるのか、は疑問が残ります。
”課題の分離”という有名なアドラー心理学の考え方がありますよね。
私の場合ですと”漢字テストが5点であろうが、これは子供の課題であり親の課題ではない”ということ。子供自身が5点で悔しいと思えば自分で勉強するようになります。
そこで苦しくても、”子供の主体性を信じ、待ち、見守る”というのが親の役目だと思います。
子供は、1度言われて悔しければ勉強する、そんなのどうでも良ければ遊びにいくでしょう。
そこは子供の価値観の違いであって、親が強制する所ではないのです。ある程度の軌道修正は必要ですが、”第一優先は子供を信じること”です。
これが親が子供に接する上で、一番重要になってくるところだと私の体験から出した結論です。
過干渉は、子供に対する愛情が強すぎるが故に、子供を自分の物のように扱い、鎖でがんじがらめに縛ってしまうのです。
これには色々な思いがあると思いますが、主だったものは
という感情からくるものです。
でも、下記の写真を見て下さい。2人の子供はロープで繋がれ、身動きが出来ず苦しそうじゃないですか?自由きままに動けずにずっと離してもらえなかった。
そんな状況でした。
12年間、同じ事を言われ続けた結果、成長するにつれ、”自分は信じてもらえていない”と思うようになりました。
それも当たり前で、小学校高学年にもなれば、言われる前に自分で全て準備しています。
それでも尚、聞かれ続けていたという事は、
という事です。
すなわち、子供からすれば
という自己肯定感の低い人間に育ってしまうのです。
過干渉に育てられるということをもう一度整理すると、
そんなイメージをもってもらえれば良いと思います。
この”子供の為を思って”というところがキーワードで、これを親がどこまでやるのかなのです。もちろんこれには正解はありません。
ですが、せめて、
というように考えを変えてあげて欲しいのです。
(2)高校時代
恥ずかしながら、1つ例を書きますが、私は、高校生まで一人で電車に乗ったことがありませんでした。
初めて高校に通学する時は、電車の乗り方も分からなかったくらい、全て先回りしてやってくれていたのです。
私は、高校に通うようになり、初めて
という気持ちに襲われます。
1人で遠出をしたことがなかった私は、電車で1時間半の通学ですら、一人で行くということに恐怖を感じました。
何だこの感覚は・・・
電車に乗っている間も、ソワソワする感覚を覚えていました。その時に周囲に乗っている方々の視線が気になっている自分に気付きました。
今思うと、小学校の時に他人と比較され、他人より優れていないとダメなんだ、という考え方が植え付けられていました。
が自然と身についていたのです。
それが、高校になり親と離れる事で初めて不安が表面化したのです。
それだけ子供に対して、親の接し方は大きく子供の将来を左右するものであるという事は認識しておいて欲しいと思います。
(3)大学時代
大学へ進学し、4年間を過ごすことになります。
ゼミでは、特に討論する場で更に大きな気づきがありました。
自分の意見を言う場面で、
など、様々な場面で苦しみを覚え始めました。
意見を持てないのではなく、”持っているけど恥ずかしくて言えない”といった方がしっくりきます。
自分の意見を言うのが恥ずかしいというのは、
という思いがありました。
ですから友人や先生には、
と良く言われていました。
この頃から下記の言葉が頭から離れなくなります。
友人や先生から聞かれると、余計に責められている感覚に陥り、言おうとすると、妙に心臓が”ドキドキ”し始めました。
今考えると、その頃から既に、精神的なストレス症状が出ていて、それが身体症状として外へ出始め、”危ないよ”というサインを出していたのです。
(4)就職後
大学生活の4年間では、
自分は”人前で話す時に緊張しやすい性格なんだ”という気付きがあり、また、話す時には緊張してドキドキしやすいんだなって思い、気をつけよう位の気持ちでいました。
このような育ち方をしてきた私は、特に自分でやりたい事も思いつかず、家から近く通いやすいという理由だけで新車販売会社(ディーラー)の営業に就職しました。
自分で考えるという事をしてこなかったので、世の中に対する視野も狭く、自分が将来やりたい事など思いつくはずもなく、無難な道を選んでしまいました。
そして、ここからが本当の私の試練の始まりだったのです。
新車の販売会社に就職した私は、整備という道もあったにも関わらず、営業へ進みました。今思うと、車好きだったので、整備の専門学校へ進んだ方が良かったと思っています。
これから就職される方々へは、
声を大にして言わせていただきたい
就職して1年目には、営業ノウハウをつける教育がバンバン組まれました。中でも私の苦手なロールプレイングは、お客様と営業になりきり何度となく繰り返されました。
ロールプレイングがなぜ嫌だったのか、当時はそこまで深く考えもせず、ひたすら”嫌だな”と思っていましたが、それも今となっては理由が良くわかります。
”単純にコミュニケーションが苦手だから”と言ってしまえばそれまでですが、休職〜復職を繰り返してきた中で更に深掘りをしました。
とにかく、
”自分がどういう言葉を発したら相手が対応しやすいのか、周りがどう見ているのか”
そんなことばかり考え”失敗したくない”という思いが強かったのです。
”失敗は悪いものではなく経験になるからいい”とは良く言いますが、そんなことは当時の私にとって何の励ましにもなりませんでした。当の本人というのはそんなものです。
なぜなぜを繰り返すと、私は、「失敗したくない」のではなく、さらにその奥には「恥をかきたくない」という気持ちがありました。
恥をかきたくないんだよ!
ロールプレイングなんて、練習なんだから完璧にやる必要ないじゃんって思いますよね。
そう思えないのが、私のように小さい頃から他人と比較され、完璧を求められて育てられた私のような人なのです。本人以外には分からない苦しみです。
新車販売はノルマがつきもの。
2年目で3台〜4台/月のノルマが課せられました。営業所では、来訪頂いたお客様に対して営業がつくスタイルでした。
お客様が来場されるたび、ビクビクし、営業所の裏へ隠れるようにしていたのを覚えています。
そんな状況下、もちろん同期とも販売台数の差が出てきます。私も上司に同行し、数台販売しましたが、商談の度に胃が痛くなっていたのは私本人しか知りません。
当時は既に結婚しており、両親と同居していたため、家に帰ると両親と妻が待っていました。妻はポジティブで人に細かい事は一切言いません。
ただ笑顔でいてくれる太陽のような存在でした。精神的にも疲れて休もうとするとなんということか?
疲れて帰ってきたところにこの言葉はさすがに重すぎました。社会人になっても、小学校の登校時と同じでした。
さすがに父親もそんな母親に対し、
「そんなことばっか言ってんじゃないよ。車が毎日売れたら苦労しないだろ!」
と私のことをフォローしてくれましたが、そんなフォローより母親の言葉の重みがずっしりとのしかかっていました。
3年目に入り、歓送迎会の帰りだったと記憶しています。営業所に帰ってきて各々帰ろうとした時、急に心臓が乱れ打ち始めました。
私は、びっくりし
「えっ!死にたくない。救急車呼んで!」
大きな声で叫んでいました。夜だったので車で救急外来へ駆けつけました。
あの時の鼓動の感覚は、今でも忘れられません。思い出すだけでも恐怖が襲ってきます。
幸い、心房細動という一時的な細動を起こしただけで、一晩病院で過ごすと元の鼓動に戻っていました。
後日病院で、先生に詳しく話を聞くと、
「一時的な精神的ストレスでなる人はいます。今後何度も繰り返さなければ問題ありません」
という言葉を聞き、少し安心したのを覚えています。
それだけ精神的に追い詰められていたということを思い知らされ、営業という仕事は向いていないと判断しました。約2年半で退職という決断をしました。
今思うと、結婚していながら、良く退職という道を選択できたなと自分でも信じられません。でも、それだけ追い詰められていたんですね。
仕事は探せばいくらでもある、でも命はたった一つしかないのです。さすがの両親もこの時ばかりは口を出さずに退職を見届けてくれました。
約3か月後に転職が決まりました。仕事内容は、工場全般を管理する総務事務。以前のようなお客様と接するストレスもなくなり、5年程は安定していました。
ただ、根本原因である性格、思考が変わったわけではありません。5年も経つと総務は会社の顔と言うべき部署で、外部の会社との付き合いも任されるようになりました。
また、会議の司会なども徐々に増え、緊張する場面が増えてきました。
緊張すると、ドキドキします。
この思考が頭をよぎった途端、パニックを起こし真っ白になり、うずくまってしまいました。私の精神的なストレスは、鼓動を異常に早め、パニック発作を起こしました。
それからというもの、鼓動が気になり、気付けば脈を計っていました。
看護師に相談し、心療内科へかかることとなり、現在に至ります。
私の病気の正式名は『社会不安障害の中の社会恐怖』というものです。
主治医の話しからは、
「この病は完治する人もいるが、ほとんどの方が一生付き合っていく病です」
「薬の増減により対処療法をしていきます。カウンセリングなども有効ですが、一番は自分の出来事に対しての考え方、捉え方を変えるのが有効です」
と言われました。
会議でうずくまった後、6か月程、長期休職をとり、3カ月間リワークに通いました。
様々な復職プログラムが用意されており、3か月間リハビリを兼ねて通所し、休職開始から6か月後にリワークの成果を会社側へプレゼンしました。
まず何が原因で今回の休職に至り、原因に対し、リワークで学んだことをどう活かし、今後に繋げていくのか報告しました。無事に同部署へ復職することができ安心しました。
その3年後、昇格と同時に部署異動し、再度同じ症状で休職することになりました。その後の復職先が肉体労働の物流になりました。
復職先を決める際に、総務を懇願しましたが、
また同じ部署で同じ症状が出た場合に、会社としての責任もあるということで、主にルーティン業務である物流で頑張って欲しいと言われました。
私は、全てが育った環境のせいで現在の症状に至ったとは思っていません。それは本人自身が考え方を変えることだってできたはずだからです。
7:3位の割合だと思っています。
7が育った環境により蓄積された考え方、3が自身で気付きや考え方を変える事も可能だったという思いです。
しかし、7である育った環境は大きいものです。良く3歳までの接し方で性格が決まると言われますが、私は、3歳以降も蓄積されたものは大きいと思っています。
小学校から高校まで12年間、同じことを言われ続け、”自分は信頼されている””自分はこうしたい”と思えませんでした。
自分がこうしたいと思った時も、”こっちの方が安全だからこうしなさい”と親が先回りし子供の安全を確保してきた代償は、大き過ぎました。
休職期間中に、リワークのカウンセラーとも話をしましたが、
そう、魚やモルモットでも例えられますが、広い入れ物の中央に仕切り板を入れておくと、板をとってもそれ以上先へは行かないのと同じです。
自己受容とは、どんなに弱くダメな自分でもいいんだって思えることです。私にはそれができませんでした。ダメな自分じゃいけないと精一杯反発してきました。
妹は、今は結婚して幸せに暮らしています。先日、小学校の頃の話から、私の症状の話までしました。
妹は「わかるよ。不安感、動悸」、妹も心療内科へ通っていたそうです。
同じ屋根の下で20年以上一緒に過ごし、同じ母親に育てられた妹は、やっぱり私と同じ事で悩んでいたのです。
最後に言った言葉は、「でも優しいお母さんだよね」って。私もそれには「そうだね」といい、お互い笑顔で別れました。
第1章では、主に”私がどのように育てられ、どのような体験をしてきたかを時系列”で綴ってきました。
このNOTEは第1章〜第3章まで続きます
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第2章でまたお会いしましょう。
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