3,11東日本大震災
こんにちは、やっしです。
今日は東日本大震災の時の事を話します。
自分は地元が石巻で当時石巻に住んでいました。
3,11
当時はタンクローリーの仕事をしてました。
その日は、盛岡2か所に向って東北道を北上中でした。
いつも運転中はラジオを付けて走っていました。
栗原を過ぎたあたりでした。
突然ラジオと同時に携帯から緊急地震速報がなり、次の瞬間激しい縦揺れからの横揺れで走れる状態ではありませんでした。
いつも走ってて地震がなっても気が付かないのですが、その日は違いました。
直ぐにハザードランプを点灯し、道路わきに止まり揺れが収まるのを待ちました。どれくらい揺れたのかは分かりませんが、自分の中では10分くらい揺れたように思えました。
前日にも小さな揺れがあったのと尋常じゃない揺れだったので、宮城県沖地震が来たと思い(近いうちに来ると言われてた為)津波が来ると頭がよぎり、真っ先に母親に電話をしたのですが既にパンク状態で繋がらず、「逃げろ」とメールをしました。
実家と母親が心配になり戻ろうと思いましたが今は街がパニック状態で戻れないと思い、母親が逃げるのを信じて自分は取り合えず盛岡に向うことにしました。
盛岡に向う途中、高速道路が真横に亀裂が入り1mくらいの段差があったり💦 トンネル入り口の脇が崩れ落ちていたり💦結局途中で高速道路を下ろされました。下道は信号が消え停電して緊急車両がいっぱいでパニック状態でした。
荷下ろし先のガソリンスタンドに到着すると大渋滞でパニック状態でした。荷下ろしが終わり次のスタンドへ着いたのは夜でした。冷え込みが激しく雪が降ってきて道路は凍結しアイスバーン状態に、スタンドは既に閉まっていたのでその日はトラックで寝ました。携帯でニュースを見ると仙台に津波で300人程の死体があるとの報道で、石巻の事は一切報道されてませんでした。石巻はもう終わったと思い絶望にさせられました。次の日荷下ろしを終え取り合えず会社に戻る事にしました。
会社も海の目の前だったのでダメだと思っていたのですが、奇跡的に被害が少なくて助かりました。ただ、自分の乗用車は津波に浸かりダメだったので同じ石巻の先輩に乗せてもらい帰りました。津波の被害が凄かったので山沿いを走り途中まで送ってもらい、そこから歩いて帰りました。
地元石巻渡波
地元に戻ってみると津波で別世界になってました。
まるで戦争でも起きたかのように。
離婚したばかりで子供達が心配になり、最初に子供の保育所、学校に行きましたが「お母さんが連れて帰りました」とのことでどこに帰ったのか、津波が来る前か後なのかがわからず、、、
一旦おふくろが居るだろう避難先に行く事に。
行ってみると無事で母親がいました。その日は一緒に避難所に泊まりました。
次の日、実家とマイホーム(建てて離婚し1度も住まず貸そうとしてた)を見に行きましたがどちらも津波が入って1階は壊滅状態でした。マイホームに関しては2階ギリギリまで津波が入った跡があり、隣の家との間に車が宙に浮いてる不思議な状態で挟まっていたり、6.7台の車が流されてきて無残にも家に刺さってる状態でした。
マイホームのリビングには根っこから抜けた松の木が1本丸々ふさぐ状態で入っていました。1人ではどうすることも出来ないと思い、子供たちの行方を捜すことにしました。
被災地を探し歩いていると水たまりには流されて来ただろう魚が泳いでいたり、トラックの上で津波からは助かったが寒さで凍死しただろう死体があったり悲惨な状況でした。
最初石巻は、なかなか被災状況が報道されず避難所には救援物資が届かず食べ物がなかったので、家の食べれるような物や被災したスーパーやお店からの食べ物など皆で分け合って何日か過ごしてました。
2,3日経ってからお菓子類の支援物資が届き、避難所生活5日目でやっと何も入ってないおにぎりを食べたとき今まで生きてきて1番美味しかったのを今でも覚えてます。
1週間程、元嫁や子供たちを探し歩き続けましたが見つからず携帯の電波も復旧されてないと余震が頻繁にあったのもあり、無事なのを信じて親戚の家に母親と避難させてもらう事にしました。
親戚の家は携帯が使えたのでメールを見たら、50件以上心配のメールが来てたのでビックリしました。
会社に連絡してみると製油所も被災して八戸、秋田、新潟へ積みに行く為忙しいから1日交替で出社してと頼まれ、取り合えず自分1人では実家もマイホームもどうする事も出来ないので、親戚から車を借りて会社に行く事にしました。
仕事に戻り、
同じ宮城県でも沿岸部と内陸とでは全然被災の温度差が違いました。朝2時起きでタンクローリーで八戸まで積みに行き県内又は隣県に荷卸しして帰ってくるのが夜の10時ってのが続きました。
東北はガソリン不足で1台につき10リットルまでとかでガソリンスタンドが何処も渋滞💧
タンクローリーに乗っていると追いかけられる事もありました。
ガソリンスタンドの渋滞で災害派遣で来ている自衛隊が通れなくなっていたり、行方不明者を捜索するため今ガソリンを必要とする人が買えず、今必要としないただ不安だから満タンにするため毎日給油渋滞に並ぶ人達、いつタンクローリーが来るかわからない給油渋滞に車を放置して帰る人、、、
自分は避難所生活で見てきて被災地は皆が分け合ってたり、ガソリンスタンドも被災して使えないし車も無くなった人多くて、皆で1台の車に乗り合わせたり内陸まで徒歩で移動する人達を見ていたので物凄くイラ立ちが溜まってました。
今、自分が生きているのは救援物資を送ってくれた方や災害派遣で助けに来てくれてる自衛隊の方々、皆さんのおかげだと思い、
日ごろいつも聞いていたAIR JAM Fridayと言う本間ちゃんの人気ラジオ番組(ドライブイン銀杏坂コーナー)に現状を伝え、皆さんに譲り合いの気持ちで頑張りましょうとメールしラジオで読んで頂きました。そのおかげなのか次の日からは渋滞が減りました。あの時の事は本間ちゃんに感謝してます。
↓↓面白い番組なので聞いてみ下さい↓↓
連絡
そうして1カ月が経った頃、地元も携帯が復旧し元嫁からメールが来ました。
「皆、子供達も無事です。」
ホッとを通り越してジーンと涙が込み上げてきた事を今も思い出します。(笑)
今すぐ行って子供たちを抱きしめたくなりました。
けど、離婚したばかりだったので「足りないものや困ってる事があれば言って下さい。」と返信をし、会うのは辞めました。
元嫁も子供たちも無事なのを知ったのでそれでよしと自分に言い聞かせました。(笑)
その後、実家もマイホームも皆さんに助けられ直す事が出来ました。
被災し炎上した石巻門脇小学校↓
最後に
震災から11年が経ち未だに復興が終わってない所もありますが、
今こうして生きているのは世界中の人たちのおかげだと思います。
今年の3,11は少ないですがウクライナへ赤十字を通して募金させて頂きました。
最近では温暖化もあり、何処にいても震災はありえます。
毎年、洪水などの被害も絶えません。
少なくとも人災での尊い命を亡くすのを減らすのと、
皆で譲り合える世界になれればと思います。
11年が経ちやっと話せた気がしました。
最後まで読んで頂き有難うございました。
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