ホンモノもニセモノもなくなる時代。
ハワイのパワースポットの本を書いたあとに、よくハワイを深く知りたいという人たちに向けて、セミナーを開催していました。
旅行ガイド的な情報ではなく、ハワイの神話や歴史、文化や聖地など、ちょっと深くてニッチなハワイセミナーです。
その時によく聞かれた質問がありました。
それは神話や伝説、また聖地(パワースポット)の言い伝えに関することです。
「〇〇には△△と書かれていますけど、●●だと▲▲と書かれています。どっちが本当なんですか?」という質問です。
ハワイの神話や伝説、聖地の言い伝えなどは確かにさまざまな解釈があり、わたしもかつて取材をしていた時には質問者と同じようにどれが本当なんだろう?とハワイアンのクム(マスター)たちに聞いたことがありました。
彼らは(ひとりではない)必ず同じ答えを返してくれました。
「どれも本当だよ」と。
そしてら同時に逆に聞かれました。
「日本人はどうして正解や真実がひとつしかないと思ってしまうんだろうね。人の数だけ答えはあっていいし、それが自分にとって一番しっくりくるのであれば、それが自分にとっての正解でいいんじゃないのかな」
当時のわたしにとって、その言葉はとても衝撃的なものでした。
確かに私たちは学校教育の中で、授業やテストを通して、これが正解、という答えはひとつという教育を受けてきたことにより、どうしても正解をひとつに求めたくなる意識があります。
それがひいては、これはこうあるべき、こうしなくてはいけない、という柔軟性に欠ける意識を多くの人の心に宿してしまいます。
それは社会環境の中で、実は多くの部分を占めていて、その枠内におさまらないものたちを排除したり、柔軟性のない対応になったりしています。
それはカフェやレストランでの注文にも見受けられます。海外に行った経験がある人はわかると思いますが、わたしの体験した感覚ではもっと緩やかで柔軟性があり、人間的な温かみを感じました。時にそれは「いいかげんさや大雑把」にもなることはありますが、わたし個人の意見としてはそれくらいがちょうどいい感じです。
さて最近の社会環境を眺めてみると(あくまでもわたしの周りやわたしの感覚で、ということですが…)それこそ、これが正解、というものが薄れてきていて、どれが自分に一番違和感なくフィットするか、というものに変化してきているように感じています。
たとえ明らかにニセモノであったとしても、それを身につける本人さえ気に入っていればそれでいいのではないかと思うのです。
最近ではAI技術の革命により、何がリアルで何がバーチャルかもわからなくなり、今後はさらにそれが加速していくはずです。
もはやホンモノかニセモノかという問題など関係なくなり、ニセモノがホンモノになるかも知れません。
答えは(正解は)ひとつしかない、というかつての意識から少しずつ脱却してきていて、どれが一番自分にとって違和感がないか、に変わってきているように感じます。
人からあの人は凄い!と言われている人だとしても(例えば占い師、整体師、ヒーラー、カウンセラー、コーチングなどなど)自分に合わなかったら意味がないのです。
それはどんなに素晴らしい世界的なデザイナーが作った服だとしても、自分に似合わなかったら意味がないのと同じように思います。
見えない世界の情報や、そういった世界で仕事をする人たちが爆発的に増えてきている気がします。故意に人を欺こうという意思がない限り、そういった人たちは当たり前ですが、自分はホンモノだと思って仕事をしています。
一昔前のように、誰かが旗を振ってそれについていけば大丈夫という世の中ではなく、かなり多様化した考え方や感性感覚の時代になっています。
もはや、わたしにとってどれが一番違和感がないか、ということでしか判断基準がないのではないかと思います。
もちろん誰かの意見を参考にしたり、何かを調べたり、実際に行動して失敗を繰り返したりすることもあると思います。
おそらくこれからは、どれだけ情報を多く受け取り、そこから取捨選択して、実際に行動して体験して経験値を上げることでしか、自分にとっての最適解は得られないのではないかと思います。
ホンモノもニセモノもなくなる時代というタイトルの通り、自分というものをもっとよく知り、自分の本音を語り、自分に違和感のない生き方を選択していく時代なんだなと、最近は感じています。
最初のハワイの話ではないですが、人の数だけ答えが存在し、答えが似たものたちが集う時代。
なおかつ、自分とは違う考え方や感性感覚を受け入れられて、その違いを本当に楽しめるようになれば、けっこうおもしろい時代なんじゃないかなと思います。
まぁぶっちゃけ、ホンモノでもニセモノでもいいじゃん。自分が本当に満足してるんだったらさ。
…なんて思って生きている今日この頃です。