慣れる
新生活が始まってしばらくすると必ずされる質問は「どう?新しいには慣れた?」すでに飽きるほどその質問をされている。
はじめは慣れてないのかも知れないなぁと思いながら、ぼちぼちですかねとかまじめに答えていた。
しかし、よく考えてみたら今の生活は以前の生活の延長線上にあるものであって、私の人生が大きく変化したわけでもない気がする。
だから、引っ越し当日にも別れの寂しさなどは感じられなかったし、それなりに悪戦苦闘しながら家事もこなしている。
確かに、洗濯カゴに入れておけば洗濯物が出来上がってきたり、お腹が空いた夕方に夜ご飯が食卓に並んだりするありがたい環境というものはない。
と、こんなことを考えていたが、1か月ぶりに実家へ残りの荷物を取りに数日帰っていた時に感じた「慣れる」ということを今回書き残しておきたい。
慣れるって何?
はじめのうちは最初に書いたような感覚だったので、久しぶりに会う友人たちに対しても「向こうの生活には慣れたか」という質問には同じように答えていた。
ところが、帰るその日に感じた「まだもう少し居たい」という気持ちに気が付いた。補足するのであれば「帰りたくないのではなく、まだもう少し居たい」である。
一抹の寂しさを抱えたまま駅に送ってもらい、いつもであればすぐにイヤホンで流し始める音楽も聞かずにホームで電車を待っていた。
山と人と近鉄の渋い赤の電車を眺めながらぼーっとしていた。なぜだかそれが心地良く30分近く重たい荷物とともにじっとしていた。
そして電車に乗車し、ふと(確信はないが多分、梨木香歩さん)本で読んだ文章を思い出した。
確か、昔はほとんど徒歩で旅に出たものだが、近年は文明が発展するにつれ様々な交通手段で旅に出ることができる。一方で、旅から帰ってきた時の余韻は昔の人間の旅にかける時間と乗り物によって短縮された時間とのタイムラグなのではないか、みたいなことが書かれていたと思う。
感覚が追いついていない、とでも言えば良いのか。昔であれば時間と自分が常に一緒であったのに対し、現代では自分達は時間を短縮するためにお金を払って様々な交通手段を利用しているため、本来であれば徒歩できたはずの道のりを時間はたどっている。
一体、なんなんだという感じだけれど、私の「慣れる」ということについてもその理論が応用されているのでは?と思った。
ここでいう「時間」は「今を感じるための要素」みたいな感じのものなのかなと思う。
引っ越しまでは卒業制作展で忙しくしており、完全に引っ越すまでに荷物も2度運んでいた。電車や車の移動が多く、頭では計画し実行に移せていたが心ここに在らずという場面が何度かあった。(友達と二人でいたのに電車を乗り過ごしたり、荷物を預けていたロッカーで違うロッカーのところに鍵を差し込んで「開かへん!!」とかやっていたので)
本来であればともにあった時間が追いつけていない、というか置いてきてしまった時間がやっと今、自分の元へ辿り着いてその場所に何かの感情を抱き、「帰りたくないのではなく、まだもう少し居たい」という思いに現れたのかと思った。
だから、やっと私は「慣れた」し、寂しさを感じるための「時間」が私の元に辿り着いた。だから、あの空間に居たかったし、なんでもない駅のホームの空気感を感じていたかったのかと思った。
ということで、新生活には慣れてすこぶる元気でやってます。
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