23/01/12 夢野久作完全攻略(9)
ちくま文庫版「夢野久作全集」第9巻はまるまる『ドグラ・マグラ』です。
ドグラ・マグラ ★4.5
さて、『ドグラ・マグラ』です。日本三大奇書に挙げられ、夢野久作の作品中ぶっちぎりで最も有名な作品であり、夢野久作の名前を知らなくても本作の名前は知っているという人も少なくないでしょう。
恐らく一番流通していると思われる角川文庫版には下記のように書かれています。
1926年に作家デビューした夢野久作は、「狂人の解放治療」という作品を書き始めます。これが膨れ上がって後に『ドグラ・マグラ』になり、1935年に出版されます。
角川文庫の「これを読む者は、一度は精神に異常をきたすと伝えられる」という謳い文句は独り歩きと言っていいくらい広まっていて、本作のただごとならぬ雰囲気づくりに一役買っているのですが、この「読む者の精神に異常をきたす」という本作の性格には私見を持っています。
視点人物となる「私」が、自身についての一切の記憶を失った状態で目を覚ますところから、この物語は始まります。
聴こえてくるのは蜜蜂の唸るような時計の音。どうやら今は真夜中らしい。自分は冷たい人造石の床の上に大の字になって寝ているらしい。見回すと、青黒いコンクリートの壁で囲まれた部屋にいて、窓には黒い鉄格子がはめられている。
ここがどこだかわからず、鏡を見ても自分が誰だかわからない。
通常、物語の主人公はひとつの独立した人格と人生を持っています。我々読者は作中で主人公が見たことや感じたこと、思い出したことなどを読むことができますが、それでも主人公の知っている全てを知ることはできません。
主人公がなんという小学校に通っていたのか。初めて飼ったペットの名前はなにか。好きな小説はなにか。それらを主人公本人は知っていますが、彼または彼女が作中で意識しない限り文面には表れず、読者は知ることができません。
それゆえに、主人公と読者は所詮他人であり、意識の表層しか共有することができず、感情移入にも限界があります。
しかし、『ドグラ・マグラ』にはその限界がありません。読者と主人公を隔てる記憶の壁が存在しません。
主人公は一切の記憶を失っており、彼の意識が復活した瞬間から物語が始まります。見たもの、聞いたもの、感じたこと、すべてが文面を通して共有されます。作中で視点人物となる「私」は、読者と完全に全ての情報を共有し、「私」の全ての人格が文面に存在しているのです。
このことが通常小説では実現しえない100%の感情移入を可能にしているのです。
そして「私」が狂気の世界に誘われるとき、彼と限界を超えたシンクロ状態にある読者もまた、同じように見ていた世界の反転する思いを味わうのです。これこそが「読む者の精神に異常をきたす」仕掛けであり『ドグラ・マグラ』の読書を唯一無二の体験にしている…と私は考えています。
そして生まれたままのようなまっさらな意識に、ありとあらゆる謎とハッタリをノーガードで叩きつけられる序盤が、本っっっ当に面白い!
「犬神博士」で抱えていたような立ち上がりの弱さはここにはありません。短編のような速度で強烈なスタートダッシュを決める本作のパワーは「ドグラ・マグラ」というフレーズの登場で早くも最高潮に達します。
さて、この作品の点数は4.0にするか4.5にするかで非常に迷いました。
角川文庫でも「毀誉褒貶が相半ばし、今日にいたるも変わらない」と書かれていますが、こと今回の評点の基準である「僕個人が感じた面白さ」に限って言うと、この作品がめちゃくちゃ中だるみすることが評価を迷わせる要因になっています。
「私」は、自身に対してある実験が行われたことを告げられ、それがどのようなものかはこれを見ればわかるとして書類の束を渡されます。
ここからはじまる『ドグラ・マグラ』の中盤では全編にわたって下記5タイトルの「書類」が挿入されます。
キチガイ地獄外道祭文
狂人の一大解放治療場
脳髄は物を考える処に非ず
胎児の夢
空前絶後の遺言書
読み進むにつれて呉一郎(=「私」?)が過去に巻き込まれた事件が明らかになっていき、どんどん面白いものになっていきます。
上記の5タイトルは作中における掲載順になっているのですが、この「完全攻略」式に評点をつけるとすると、★2.5/★3.0/★3.0/★3.5/★4.5という感じ。
……最初の「キチガイ地獄外道祭文」、ぶっちゃけて言うと結構長い割に大して重要でも面白くもないんですよ!!
言ってしまった。
『ドグラ・マグラ』最大の挫折ポイントがこの中盤だと思います。なんなら「完全攻略」中の僕もここで読む手がだいぶ止まってました。
より多くの人に夢野久作を読んでもらいたいという本攻略の目的のひとつからあえて言いますと、もし退屈に感じられたら「キチガイ地獄外道祭文」は読み飛ばしてしまっていいと思います。そのまま挫折しちゃうのはもったいないです。もしあなたがただ面白い小説を読みたいというだけならば、この部分は飛ばしてしまっても特に問題ありません。
何なら「脳髄は物を考える処に非ず」「胎児の夢」も、どうしても退屈ならナナメ読みでも大丈夫です。このへんは「カードのテキストではないがフレーバーテキストではある」って感じ。『ドグラ・マグラ』鑑賞の上では読んで損はないです。
そして「空前絶後の遺言書」から物語は一気にヒートアップします。ここから本当の意味でミステリになると言うこともできましょう。
そして世界に類を見ない終盤の展開へと物語はなだれこんでいきます。
初読時、熱に浮かされたように終盤を一気に読み切ったあと、しばらく放心していたことを覚えています。
これだけの異形のスペクタクルを作り上げられる人は夢野久作のほかにはいないでしょう。凄まじいパワーを持った作品です。
筋道立てて物事を話すことは、誰でも物事を伝えられるようにするための基本です。特にミステリは筋道を重んじるジャンルです。しかし本作はいわゆる「信頼できない語り手」の中でも信頼できなさの度が群を抜いています。筋道のない世界でミステリを書き上げ読ませるその腕力、これだけのプロットを描き、そして書き上げ叩きつける胆力。夢野久作は怪物です。
また、「完全攻略」してきてこの作品に辿り着くと、ここには今まで読んだ夢野久作のエッセンス全てが凝縮されていることに気づきます。これまでの作品は全て久作が『ドグラ・マグラ(旧題「狂人の解放治療」)』を練り上げながら生み出されたものであり、この複雑に絡み合った巨樹から熟れて落ちた実ひとつひとつを拾い食いしていたにすぎないのかもしれません。
本作を発表した翌年、久作は47歳でこの世を去りました。