見出し画像

El Chalo, the Legend of Granada. 5

(見出し画像 https://youtu.be/QNwwaqDKI5s?si=5jxxk1-U-nRtgzmQ より)


フラメンコをベリーダンスで踊る

私はフラメンコは踊れない。しかしできることならリロラの歌でベリーダンスを踊れたらとも密かに思っている。もしも、私がベリーダンスで踊るとしたら、前に挙げたチピロンも歌っていたEl Legionario y la Morita(軍人とムーアの女)か、このAuga Fresca (新鮮な水)だろう。

リロラによるAuga Fresca (アウガ・フレスカ)

(Googleで「Auga Fresca lyrics」で検索すると歌詞の原文が出るが、Google専用アプリを使って検索した場合は日本語訳のボタンも出てくる)

歌詞の内容は「喉が渇いた娘さん、僕んちの井戸で水を一杯如何ですか?あなたと一緒に水を飲む、ああ、僕は楽しんでいます」という、一見、素朴な恋歌なのだが、その実、下心満載?の求愛歌のようでもある。(でも「明日、あなたを祭壇に連れて行こう」とか言ってるのだから案外、真面目な求婚歌なのかもしれない)まあ、日本よりはるかに乾燥しているというスペインの気候なら喉も渇くだろうし「僕んちで水でも飲んでかない?」というのは昔の若者が気になっている女子を誘う一つの口実にはなっていたのかもしれない。

作曲はコルドバ生まれのフラメンコ歌手、Luis de Cordoba (ルイス・デ・コルドバ)
https://en.m.wikipedia.org/wiki/Luis_de_C%C3%B3rdoba

(↓)上記御本家によるAuga Fresca


ベリーダンスにはフラメンコのような激しく足を踏み鳴らすサパテアードはない。しかし、その代わりにヒップサークル、ヒップアタック、ヒップドロップ、ヒップシミー、フィギュアエイト、マイヤーなど、足腰関係の動きだけでも様々なテクニックがあり、よほど激しいテンポの曲でなければそうしたものの組みわせでなんとか補えるだろう。(腰をプルプル震わせる「ヒップシミー」だが、今だに上手くできない私である。フラメンコでカタカタと素早く足を踏み鳴らす代わりに使いたいのだが)


アル・アンダルスの音楽

現代のベリーダンスは「近代エジプト舞踊の父」と言われるマフムード・レダ氏の影響を大きく受けている。

マフムード・レダ Wikipedia 英語版
https://en.m.wikipedia.org/wiki/Mahmoud_Reda  

そしてそのレダ氏が研究、復元したのが、かつてイベリア半島で栄えたアラブ・イスラム圏、現在の「アンダルシア」の語源にもなっだ「アル・アンダルス」で踊られていた「ムワシャハット」という舞踊である。当時流行ったムワシャハという詩の形式に音楽が付き、舞踊が付けられてアル・アンダルスの宮廷で盛んに踊られたという。イベリア半島からのイスラム教徒追放の後は彼らの亡命先であった北アフリカ沿岸諸国に細々と伝わっていたが、文字や記号にできる詩や音楽は何とか残ったものの、舞踊の方は失われてしまい、わずかな資料や周辺の民族舞踊などから類推して創作するしかなかったようだ。そして、そのアル・アンダルスの最後の砦がグラナダだった。だからなのか、現代に残るムワシャハットの名曲にはどこかフラメンコと似た薫りがするような気がしてならない。こうしたアル・アンダルス時代の音楽は、近年のベリーダンス界隈では注目を集めているようだ。そのことについて今は消えてしまった私の前のブログで書いたこともあったのだが、またいつか改めて書きたいと思う。

(↓)シリア出身の歌手、Lena Chamamyan (レナ・チャマミヤン)によるムワシャハに曲を付けたアラブ世界の名曲、Lamma Bada Ytethna


(↓)ベリーダンサーが踊るムワシャハットのLamma Bada Ytethna


(↓)英国で活躍するフラメンコギタリスト、Juan Martin(ホアン・マルティン)によるLamma Bada Ytethna

このホアン・マルティン氏、アンダルシア出身でパコ・デ・ルシアにも師事したという人だが、その後はもっぱら英国に渡って活動しているらしい。やはり前奏がどことなくフラメンコっぽい。同氏によるこの曲のYouTube動画は幾つかあるのだが、ここが一番古いようだ。コメント欄を見るとアラビア語での賞賛の書き込みが多く、ある人はその歌のアラビア語の発音の良さををスペイン人が歌っているとは信じ難いとまで言っている。(Apple Musicにも載っている歌だが、他に歌手の名は出ていないので本当にマルティン氏本人が歌っているのかもしれない)ちなみにこの曲を含むアルバムの名はMusica Alhambra(ムジカ アルハンブラ、アルハンブラの音楽)、アルバムアート(↓)はアルハンブラ宮殿に残るタイル模様である。

(この画像のクリックでYouTubeのMusica Alhambraへ)


モリスコの反乱

チャロたちがいつもギターを弾いている背後に見えるアルハンブラ宮殿の、そのさらに背後の彼方には冬には雪を頂くシエラネバダ山脈が聳える。(表題下の写真)3000メートル級の峰々が連なり、スペイン国内でも有数の巨大スキーリゾートがあるというこの山々にも動乱の歴史はあった。(シエラネバダとはスペイン語で「雪を頂く山」という意味で、同名の山脈が、かつてスペインが征服した南北アメリカ大陸の各地にもある)

グラナダに残った最後のイスラム王朝、ナスル朝が陥落した後、王侯貴族たちは北アフリカに亡命したが、多くのアラブ系の庶民はキリスト教に改宗することで残留する道を選んだ。しかし、彼らは「モリスコ」と呼ばれて差別された。それまでの生活上の習慣を容易に捨てなかったこともあって、その改宗が本心かどうかを常に疑われ、その疑いを逃れるために重税を払わなければならなかった。

(ちなみにイスラム統治下時代のアル・アンダルスにはキリスト教徒やユダヤ教徒も数多く在住していたが、彼等に対してこのような改宗を強要することはなかったという。人々は宗教による差別なく平等に扱われ、イスラム教徒でなくでも宮廷の中で出世した人たちもいたようだ。近年、「イスラム原理主義者」と呼ばれる人々によるテロ事件が相次いだせいで、私たちはイスラムは他者に対して「非寛容な宗教」であるかのような印象を持ってしまいがちだが、長い歴史の中ではむしろイスラムは他者にも寛容な宗教であったようだ)

さらに東ローマ帝国を滅ぼしたオスマン帝国が力を増してくると、モリスコたちは“イスラム教徒”としてオスマン帝国のスパイになるのではと疑われ、スペイン各地でモリスコ追放令が出るに至る。当時、モリスコたちは都市の商工業者だけでなく農民の中にもかなりいたらしい。シエラネバダ山脈の麓にはモリスコの農民たちが多く住み、養蚕を行い、良質な絹織物を生産していた。そんな、土地に結びついて生きる彼等にとって、追放はほとんど死を意味するようなものだったろう。彼等は立ち上がってシエラネバダ山脈の山々に立て籠って戦った。しかし、ついに敗れ、モリスコたちはそのほとんどが追放されてしまう。しかし、一部の者は同じように浅黒い肌をしたロマたちの中に紛れ込んで生き延びたのではと言われている。(十五世紀にはロマたちはスペインに到達していた。ナスル朝を倒したカスティーリャ、アラゴン両国の「カトリック両王」〈其々の女王と王が結婚して夫婦になっていたのでそう呼ばれている〉支配下のキリスト教政権は追放したモリスコたちの穴埋めとなる労働力として、放浪生活の中でも様々な職人技を身に付けていたロマたちの定住を歓迎したという)


ギターが主役になる曲

そんなことに思いを馳せているうちに、ふと気づいたのだが、チャロのお気に入りのEntre dos Aguasとかで踊ろうとかは、とても考えられないということだ。私個人の技倆の拙さはさて置いても、そもそも、あれは歌ったり踊ったりするように出来ているのだろうかと。おそらくそうではないだろう。

YouTubeで調べてもフラメンコダンサーがこの曲を踊っている動画は少ない。評価の高いものとしては一つ、プロだと思われる二人のバイラオーラ(女性の踊り手)がこの曲を踊る動画があった。(↓)たしかに二人の動きは見事なのだが、全体として、どうもいまいちな気がする。

そもそもあれは優れたギタリスタであったパコ・デ・ルシアが作ったギターの“超絶技巧”を見せるように出来た曲で、ギターそのものが主役であり、おそらく、踊ることなど考えて作られてはいないのだろう。

本来、フラメンコの主役はカンテ(歌)なのだという。素人はどうしても華やかなバイレ(踊り)に目が向くが、元々はカンテが先にあって、それにパルマ(手拍子)が付き、ギターの伴奏が付き、さらに踊りが付いたというものだったらしい。だから互いに相互作用はあるとは言え、カンテが主になってギターやバイレを率いていくということだったようだ。(チャロはよく伴奏しながらカンテを歌う仲間の顔をじっと見ていた。あれも相手に合わせるタイミングを測っていたのだろうか?)

しかし、パコ・デ・ルシアは「ギターでカンテをやろうとしている」と評されたという。脇役であったギターを主役に押し出したのだ。パコがフラメンコ界の革命児と言われた所以もおそらくその辺にあるのだろう。Entre dos Aguasで歌ったり踊ったりするのは、ピアノで言えばショパンの曲でそうしようとするようなものなのかも知れない。

その難曲をあれだけ見事に弾きこなすチャロは、展望台で仲間のカンテの伴奏をして投げ銭なんか受けていてはいけない、もっと世間から評価を受けるべく、然るべきところで演奏すべきだという人は多いようだ。そもそも展望台で仲間が歌っているような恋歌や俗謡の伴奏ではチャロの腕の見せどころもあまりないかもしれない。

だからこそあのArte en Granadaでは何度も彼を取り上げてソロで弾かせ、普段のカンテの伴奏などでは聴くことのできない、その見事な腕前を披露させたのだろう。私にはネットに投稿された動画への反応しかわからないが、こうしたこともチャロの評判を大きく押し上げていったようた。

でも、チャロは今もあそこにいる。サン・ニコラス展望台の空の下で、相変わらず仲間の歌うカンテの伴奏をしながら投げ銭受けになる開いたギターケースを前にしてギターを弾いているのだ。

チャロ自身、もっと若い頃に野心を抱いて何処かへ自分を売り込みに行ったことはなかったのだろうか?

私が見たのは、この十五年に渡って投稿された多くの動画の中で、春夏秋冬同じあの場所で仲間たちの歌うカンテのためにギターを弾く彼の姿だった。それがおそらく、少年の頃からの彼の日々だったのだろう。

(そう言えば、もはや中年になったチャロと仲間たちの中に若者の姿はほとんどない。私が見た中では、チャロやチピロンに付いて懸命にギターを弾いている小柄な少年が一人いただけだ。もはやロマの若者たちにとっても、大道芸人はやりたい仕事ではないのかもしれない)

もしかしたらチャロ自身はこのままギターを弾いて生きて行けたらそれでいいだけで、血の繋がった身内でもある仲間たちから離れて、自分だけ高みに行ってみたいなどとは思ってはいないのかもしれない。ふと、そんな気もした。


Luis el Gatico (ルイス エル ガティコ)

(↑)展望台近くのカフェで、お客さんのテーブルに呼ばれて演奏するチャロと仲間たち。(公開日は10年前)

始まって間もなく席を移動して来て、チャロの隣でカンテを歌い出す白シャツにサーモンピンクのパンツの男性は、動画の中でチャロと一緒にいる確率が一番高かったので、ロマの中では私がチャロの次に顔を覚えた人だ。Luis el Gatico (ルイス エル ガティコ、仔猫のルイス)と言って、チャロの昔からの仲間であり、苦楽を共にして来たと思われる一人だ。結構ガタイのいい男性なのに呼び名に「仔猫」が付くのは不思議だが、もしかしたら子供の頃から呼ばれて来た仇名なのかも知れない。(フラメンコの歌手や演奏家、特にロマ系の人たちは子供の頃からの仇名や愛称をそのまま芸名にしている人が多いようだ)若い頃はよく見ると結構、美青年で、ちょっと“不良っぽい”感じもしていたが、最近は落ち着きと貫禄が出てきたようだ。

ちなみにこちらは(↓)ルイスが一人で公開プロポーズの伴奏をしている動画。なかなか堂に入っている。(公開日は六年前)


チャロも他の仲間とやっていたが、グラナダのカップルにはフラメンコの楽士による生演奏付きでプロポーズするという優雅な習慣があるらしい。なんとも羨ましいことだが「絶対断られない」という自信がないと出来ない気がする。

(↓)こちらは別のカップルの結婚式で新郎新婦のためにカンテを歌うルイス。

初めは知人の結婚式ででも歌っているのかと思ったら、当人が投稿した似たようなな動画がもう一つあって、どうやらこれも「営業」のひとつらしい。(どちらもギターを抱えて歌ったり、チャロのようなトケ〈ギター担当〉を連れて行ったりしていないのは厳粛なカトリック教会なのでギターのような“俗的な鳴り物”はまずいのかもしれない)歌い終えて新郎と握手し、花嫁から感謝のキスを貰って去っていくところはなかなかカッコよくて様になっている。ルイスも妻子がいる身らしいので頑張っているのだろう。

以下の動画にあるコメントによれば、ルイスはチャロとは叔父、甥の関係だという。(もちろん、チャロが叔父)血族関係の強いロマたちはフラメンコも家族や親戚と共に「家業」のようにやっていることが多いらしいので、チャロたちもそうなのではと思っていたら、実際にそうだったようだ。


Jorge Pastrana y Los Pastrana  
(ホルヘ・パストラーナとパストラーナ家)

上の動画で、ルイスがまさに“仔猫”のように懐いている右端の人物もチャロと一緒に演奏する場面がよくある人なのだが、ルイスと似ているので、ずっとルイスの兄かと思っていた。ところがコメントによればチャロの兄弟で、やはりルイスには叔父に当たる人だという。一見、チャロとはあまり似ていない気がして事実かどうかちょっと気になった。

それで改めてこの人に注目して他の動画のタイトルや補足書き、コメント欄を読んでいったら、どうやら、やはりチャロとは兄弟であるらしい。

(↑ 公開日は一年前だが、チャロの髪型からしても撮影されたのはもっと以前のものと思われる)

上の動画でチャロの右隣でギターを弾いている人がそうなのだが、この人はJorge Pastrana (ホルヘ・パストラーナ)。愛称や仇名ではなく、本名でそう呼ばれているようだ。(Pastrana自体はスペイン語圏ではさほど珍しくもない姓らしく、検索すると中南米の大統領とかも含めて色々な人が出てくる。ロマだからと言って特別な姓を持っているわけではないらしい)

それからもう一人の右端の男性は、やはりチャロと一緒にいる場面が多いのだが、Juan(ホアン)という名でどうやら弟さんらしい。顔立ちや猫背気味のところが幾らかチャロに似ている。この人もギターを弾けるのだが、近年はカンテやパルマに徹していることが多いようだ。足で拍子を取る癖があるようで時々足踏みをしながら歌っていたりもする。

ちなみにあのsentir framencoさんがアップしている動画、2018年のArte en Granada(グラナダの芸術)にはこのホアンもチャロの相方としてカンテとパルマで出演している。(↓)

画像クリックで動画に飛びます

この人たちを含め、チャロやその見慣れた仲間たち数名で演奏している動画のタイトルや説明には、しばしばLos Pastranaという言葉が付いている。このLosというのは定冠詞の複数形で人の姓に付く場合は〇〇家、〇〇一家という意味になるらしい。つまり、チャロやルイスやホアン、そして彼らと共によく一緒に演奏している人たちのほとんどは、パストラーナ家かその血を引く人々で、そしておそらく、長兄としてそれを束ねているのがホルヘではないかと思われる。もしかすると、だからこそ、ホルヘだけは愛称でも仇名でもなく「ホルヘ・パストラーナ」と本名で呼ばれているのかもしれない。

(チャロの方が老けて見えたりするので、どちらが兄か弟か迷ったのだが、ホルヘのチャロも含む他のメンバーに対する態度を見ていると、おそらくこちらが兄だろうと思った。彼を見ていると昔の日本にもいた大家族の長男、〈うちの母の長兄がそういう人だったのだが〉「普段は怖いけれど、いざとなると頼りになるみんなのお兄ちゃん」的なところが見て取れるような気がする)

ホルヘは今から三十年ほど前には兵役に就いていたらしい。ホルヘの映っている十年前にアップされた動画のコメント欄で、ある人が「二十年ほど前、私はこの人と兵役で一緒だったが、その後連絡が取れなくなり探していた。彼はどこにいますか?」と質問していて、誰かが「彼ならもうずっと、グラナダのサン・ニコラス展望台にいるからそこに行けば会えますよ」と答えていた。質問者はその後、ホルヘと連絡が取れたことを御礼方々報告していた。(三十年ほど前といえば湾岸戦争があった頃で多国籍軍の一員としてスペイン軍も参戦している。ホルヘが戦地へ行ったかどうかはわからないが、彼の様子を見ているとなんとなく「元軍人」というのもわかる気がする)

そして、その時のやり取りの中で回答者が、除隊後のホルヘにはレコード(CD?)デビューの話もあったのだが、なぜか直前になって立ち消えになってしまったということも書いていた。

ホルヘはギターが上手い。初め、さすがはチャロのお兄さんと思って聴いていたが、ひょっとしたらチャロより上手いのでは?と思う時さえある。そしてよく聴いていると二人のギターの音色はどこか似ているような気もする。さほど年の違わない兄弟のようなので二人がギターを習った師匠はおそらく同じ人(身内の誰か)なのだろう。少年時代から競うようにギターを弾いて来た兄弟ということになる。さらに言えば、チャロと違ってホルヘはカンテも上手いようだ。レコードデビューの話があっても不思議はなかったろう。

そしてもしかしたら、その時出るはずだったレコードというのはこんなものだったのかもしれない。(↓)

初めは同名の別人かと思ったのだが、どうもホルへのようだ。(今より多少、丸顔に見えるのは写真が幾分縦に縮んでいるせいだろう)しかし、さすがに八年前の彼とは思われず、曲もフラメンコというより、昔日本でも流行ったような甘いポップス系の曲だ。もしかしたら、かつて出るはずだったレコード(CD?)を2015年になって自主制作でCDに作リ直して投げ銭受けのギターケースの中に並べて売ったのではないだろうか?この写真が二十数年前のホルヘだったとして、いっそ、当時の日本に連れて来て「フラメンコの本場から来たジプシー青年」と銘打って、日本語混じりのフラメンコ風の歌を歌わせて芸能界で売り出したら、そこそこ売れたのではと思う。

チャロがリロラのカンテの伴奏で弾いていたTangos de la sultana (タンゴス・デ・ラ・スルタナ イスラム王妃のタンゴス)をホルヘも弾いていた。それが下の動画(↓)なのだが、ホルヘが営業でよく出入りしているらしいバーでのようだ。その片隅で、歌の中の王妃さながらに豊かな黒髪を結い上げ、輝くような黒い瞳を持った女性の歌うカンテの伴奏をしている。チャロとリロラのように整った状態での録音ではないし、女性もプロの歌い手ではないようだが、これはこれでなかなか味わい深い。

(注: この動画に限ってはあちらで設定されているからなのか、リンクした時の表示が他と異なっています。小さい画像の右脇に説明がついて細長く出ていると思いますが、画像部分をクリックすると直接youtubeのサイトに飛んで視ることができます)

この動画で初めて気がついたのだが、ホルへの右腕には「PASTRANA」という文字がタトゥーで大きく刻まれている。

上記動画より

やはりホルヘとしては、この自らの一族の名にかなり誇りを持っているのだろう。

(↓)これは11年前の動画。

左から、赤いシャッを着たチャロ、ルイス、ホルへ、そして一番右のチェック柄のシャツの人物は未だに名前がわからないのだが、チャロやルイスと組んでよく歌って来た人だ。

(見かけはチャロたちとはさほど似ていないので、血縁だとしても従兄弟くらいだろうか?地味ながらカンテもギターも上手くて私は結構好きな人なのだが、この三年ほどの動画では全く姿を見かけなくなってしまった。スペインでもコロナは多くの犠牲者を出したと聞くだけに、もしやと思って気に掛かっている)

この四人にチピロンを加えたあたりがLos Pastranaの主力メンバーと言ってもいいかもしれない。

幾つかの曲をメドレーで歌っているようなのだが、流石に息はぴったりである。展望台には別のグループもいるようだが、パストラーナ家がいつも、わりと良い場所に陣取っていられるのも軍隊上がりの強面のホルヘ兄さんがいるからではなく(それも絶対ないとは言い切れないが)こうした実力派が揃っているからではないかと思う。

最近になって、ロマでもない余所者のリロラが来てチャロやチピロンと演奏しているのは、言わば「客人」扱いで、兄さんもお目こぼしというところなのだろうか?リロラの人懐っこさもあるのかもしれないが、既にどこか別の場所で評判を取っていたらしい腕の良いリロラが来て一緒にやってくれるのは自分達にとっても悪いことではないと考えているのかもしれない。

(ちなみに私の最近の一番のお気に入りは上の動画で車の中でもGoogle musicでこれをエンドレスで聴きながら運転したりしている。いつの間にかチャロとリロラだけでなく、ここにはいないメンバーも含めて“Los Pastrana”全員のファンになってしまったようだ。どの部分で誰が歌っているのかも声だけでわかるようになって来た)

ルンバフラメンカとジプシールンバ

展望台で演奏するチャロたちのグループの動画には“Los Pastrana”(パストラーナ家)というタイトルの他に、しばしば“Rumbas”というタイトルやタグがつけられていることもあった。(パストラーナ以外の、他のグループの人たちがそう呼ばれているものもある)

たとえば、前にも出した動画だがこれもそうだ。(↓)
Rumbas Mirador S.Nicolas (Granada)


なんとなく、音楽のルンバのことだろうと思ってはいたが「フラメンコの中のルンバ」については詳しいことは知らなかったので、ここで改めて整理しておきたい。

ルンバそのものの起源はラテンアメリカのキューバであり、かつてキューバに奴隷として連れてこられたアフリカ人たちの音楽が元になったものだという。それが中南米全体に広まり、世界に広まったが、その途中で元の宗主国であるスペインのフラメンコにも影響を与えたということらしい。

その著しい例があのパコ・デ・ルシアである。彼は積極的に自分の曲にルンバの要素をを取り入れ、そしてアフリカ由来のラテンの打楽器を取り入れた。チャロがお気に入りのEntre dos aguasも「ルンバのフラメンコ」だった。

Gipsy Groove【追悼】Paco de Luciaが残したルンバ曲の幾つかを振り返る
https://www.gipsygroove.jp/rip-paco-de-lucia

ラテン打楽器を取り入れたパコの演奏(↓)


近年フラメンコでよく使われる木箱のような楽器、カホンもパコが自分の曲の演奏で使い出したものだという。

カホンは南米ペルーに連れてこられた黒人奴隷の人々が太鼓を作ることを禁じられ、手近にあった木箱を叩き出したのが始まりだという。アフリカの諸民族が太鼓の名手であるのはよく知られた話だが、日本にも「陣太鼓」というものがあったように、太鼓の響きには人々の気分を高揚させ、戦意を駆り立てたりする効果もある。また一方でその叩くリズムの変化によって遠く離れた相手との「通信手段」として使うこともできる。かつてアフリカの人々は太鼓を離れた集落の人たちと交信するために日常的にも使っていたらしい。

理不尽にも奴隷にされたアフリカ人たちを支配していた白人たちは、自分たちの気づかないところで彼等が連携して反乱を起こすのを何より恐れたのかもしれない。

ともかく、こうした新大陸で生まれたルンバの要素を取り込んだフラメンコを「ルンバフラメンカ」と言うらしい。

スペイン語教室ADELANTEさんのブログ
ルンバ・フラメンカとルンバ・カタラナ
https://adelante.jp/noticias/blog/rumba-flamenca-y-rumba-catalana/

それから、チャロたちはジプシーキングスの名曲などもよく演奏しているのだが、それらの曲は「ジプシールンバ」と呼ばれてまた別物らしい。この辺になると私の頭ではとても追いつかないので詳しい解説のリンクを貼らせていただく。

Gipsy Groove
ジプシールンバって何?【2】 Gipsy Rumba と Rumba Flamenca
https://www.gipsygroove.jp/whats-gipsyrumba

どちらにせよ、パストラーナ家や他のグループも含めた展望台の演奏グループが、しばしば「Rumbas」と呼ばれているのは「ルンバのフラメンコをやる人たち」という意味があるのかもしれない。

ちなみに私はついこの間までジプシーキングスを日本のバンドだと勘違いしていた。時代劇好きの父の影響で観ていた故・中村吉右衛門主演の時代劇「鬼平犯科帳」のエンディングテーマに彼等の曲であるInspirationが使われていたので、かろうじてその名前だけは知っていたのだ。でも「ジプシーキングス」なんてベタな名前を本物のジプシー(ロマ)の人たちが名乗るとは思ってもいなかった。なのでチャロやパストラーナ家について調べていく中で初めて知ってびっくりした。

Inspirationに限って言えば、鬼平のエンディングに流れる江戸の町の情景にあまりにピッタリだったので余計、日本人による作曲、演奏だと思ったのかもしれない。

(↓)鬼平犯科帳 エンディングテーマ、Inspiration

昔の時代劇はセットやキャストの衣装、所作、小道具に至るまで念入りに作られていたと思うが、特にこの鬼平は傑作で、このエンディング動画も本物の江戸の町が映し出されているかのような錯覚に陥いる。

そもそもこの曲がエンディングテーマに選ばれたのは原作者の池波正太郎氏がラテン音楽好きだったことに因んだと何かで読んだが、ラテンの曲がこれだけ江戸情緒に合うというのも不思議な気がする。

ルンバフラメンカもジプシールンバもタブラオや劇場では本格的に演奏されるような曲ではないらしく、メインの曲の合間に色物的に演奏されたりしているらしい。人気はある反面、伝統的なフラメンコと比べると軽く見られる向きがあるようだ。しかし、チャロたちにしてみれば、アルハンブラを見下ろす眺望を第一の目当てにやって来る行きずりの見物人たちに聴かせて振り向かせなければならない。あまり形式張らず、何処かで聞き慣れたような曲が手頃でもあるのだろう。

ロマ、モリスコ、セファルディム(ユダヤ人)、そして黒人奴隷。賤視され、迫害され、搾取された人々。思えば現代のフラメンコは時代を追って、そんな苦難の道を歩いた幾つもの民族の魂が次々と入り混じって出来たものなのかもしれない。共通しているのは彼等はその境遇に絶望することなく、昂然と頭をもたげて歌い、手拍子であれ木箱であれ、貧しくても使えるものを使って自分たちの魂の表現としての音楽を生み出して来たことだ。人として、その生き様は尊敬できると同時に、今を生きる私たちとっての一つの希望でもあるようにも思える。

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