2-2 進化生物学的にみた「人間」(2章:「よいデザイン」という難題)

(Last Updated : 2019.10.11 / Version.1.1)

前回のノートでは「よいデザインとは?」というお題に始まり、人間の行動がいかにして非合理的かつ不確実なものであるかを説明しました。このノートでは人間を「生物」というレベルから俯瞰して眺めてみながら、人間の行動法則と「よいデザイン」へのヒントを探ってみたいと思います。

「人間の生きる目的」から始まる世界

人間を生物として考えた場合、ひとつの大きな質問が我々の目の前に立ちはだかります。それは「人間はなぜ生きているのか?」です。我々はなぜ生きているのでしょうか。そして我々が生きる目的とは一体何なのでしょう。よもやデザインの話とは思えない質問にたどり着いてしまいました。でも大事なことです。

さて、「人間が生きる目的とはなにか?」という質問をしたら多くの答えが返ってくると思います。「自己実現のためだ!」や「子孫を残すためだ!」といった答えもあるかと思います。はたまた「幸せになるためだ!」や「お金持ちになるためだ!」といった答えもあるかもしれません。どれも間違いではないでしょう。そもそも「生きる目的」なんていうものは自分が勝手に設定すればよいので、間違い自体が存在しません。でも、それを言ってしまうと話が何も続かなくなってしまうので、これを生物として考えてみましょう。

「生物が生きる目的とはなにか?」

これまた実に難しい質問です。ですが、何となく人間の時よりも答えが絞られてきそうです。例えば「お金持ちになるためだ」という答えは消去されそうです。「自己を実現させるためだ」という答えも消去されそうな気がします。イルカや犬あたりを想像すると自己実現もありそうな気もしますが、ゾウリムシやアメンボウあたりが自己実現を目的に生きているか?と言われると微妙なラインですよね。「幸せになるためだ」はある意味で正解な気がしますが、そうしたら「生物にとって幸せって一体なんなのか?」という質問が立ちはだかります。これまた生物によって全く違いそうな気がします。最後の「子孫を残すためだ!」は一番正解に近い感じもしますが、そうしてしまうと人間も生物の一種なので、今度はLGBTのようなマイノリティの方々に「我々は生きていてはいけないのか!」なんて怒られてしまいそうです。どうもシックリくる答えが見つかりません。

ですが、この問題に対して真剣に取り組んでいる学問分野もあります。それは進化生物学です。「進化」という言葉を聞くと、あたかも「子孫を残して繁栄する」ことを前提とした学問のように感じるかもしれませんが、実際は「進化」という言葉は「生物の形質変化」を指しており、この変化を解き明かすことを目的としています。なので、LGBTのような方々も進化生物学においては「進化」と考えます。ということで「人間、ひいては生物はなぜ生きているか?」を解き明かすには、この学問分野の知恵をお借りする必要がありそうです。

さて、進化生物学とひとえに言っても、その中身は実に多種多様です。デザインもグラフィックデザインやプロダクトデザイン、空間デザインのように多種多様なのと同じです。そんな進化生物学ですが、研究分野は大きく2つに分けることができます。ひとつは多種多様な生物が「どのようにして分岐・進化したか」を解き明かしていく「全体を俯瞰する研究」であり、もうひとつは生物が分岐・進化するにあたり「いかなる要因がどう影響を及ぼすか」を解き明かしていく「メカニズムを解明する研究」です。

今回はその両方をザッと駆け抜けてみようかと思うのですが、進化生物学にもひとつの問題が存在します。それは立証性の低さです。一般的な研究の多くは理論を証明する際に様々な実験を行い、その妥当性を証明していきます。ところが、過去も含めた大きな時間軸を取り扱う研究の多くは「過去について説明」しなければならないため、多くの場合は実験ができません。なので「この理論であれば辻褄が合う」という方法を取らざるを得ないところがあります。ゆえに進化生物学には様々な説が存在し、常に白熱した議論が行われています。

今回もいくつかの説を取り上げながら「人間の生きる目的」、そして「人間は何をよいデザインと評価するか」について迫っていくのですが、進化生物学の専門家からすると「その説を採用するのは間違っている」というご指摘を受けてしまうかもしれません。その時はご指摘を真摯に受け止めながら再考したいと思いますが、ひとまずは15年の中で色々と考えた説明に耳を傾けていただければ幸いです。

「種の起源」と利他的行動の謎

進化生物学を語る上で欠かすことのできない話がひとつあります。それは、チャールズ・ダーウィン(Charles Robert Darwin)の「種の起源(On the Origin of Species)」です。1859年に初版が出版されたのですが、生物学だけではなく哲学や宗教学など様々な他領域を含め注目を浴び、大論争を巻き起こしました。結果、ダーウィンはこれらの様々な指摘を踏まえ幾度となく改版をし、最終的には第6版に至っています。指摘を真摯に受け止めるその姿勢には頭が下がる次第です。我々も見習わなければなりません。

さて、そんなダーウィンの著書である「種の起源」ですが、その理論の最も大きな根幹は「自然選択説」です。この理論がどのようなものかというと、「すべての生物に起こる変異(変化)は無目的であり、自然環境によって選択され、方向づけられていく」というものです。少し分かりにくいと思いますので、もう少し噛み砕いて説明してみたいと思います。

まず、彼の理論は「生物の歴史をずっと遡ると最終的にはひとつ、またはごく少数の種類に統合される」という前提に立ちます。これを「共通起源説」と言います。そして「子を生み、子が孫を生み、孫がひ孫を生み…」という繁殖活動を繰り返す中で徐々に形質に変化が生じ、その変化は厳しい自然環境によって「生き残りやすい形質」と「生き残りにくい形質」に分けられるという考え方をとります。

そうすると「生き残りにくい形質」を持った生物は、生き残れずして子孫を残せないから結果いなくなる。一方で「生き残りやすい形質」を持った生物は子孫を残しやすくなるので繁栄する。これを繰り返すうちに生物は種類として分化していき、現在のような多種多様な生物が存在する状態が形成されたと解釈します。

つまり「変化そのものに目的はないが、自然環境によって"変化の方向性"が選択される」というのが自然選択説の肝になります。

事例を交えて分かりやすく説明すると、よく「キリンの首が長いのは、木の高い位置にある葉っぱを食べられるようにするため」といったような説明をしがちですが、自然選択説的に説明すると

「大昔、キリンは首が短かったかもしれない。ところがある日たまたま首が長いキリンが生まれた。するとそのキリンは高い位置にある葉っぱも食べられたため生き残りやすかった。その結果、首の長いキリンは子孫を上手く残せた。そして首の長いキリンが子供を生んだら、たまたま首が長いキリンが生まれた。結果、同様にして子孫を上手く残せた。これを繰り返すうちに段々と首が長いキリンが沢山存在するようになり、新たな生物の種類として確立された。」

という言い方になります。もちろん逆のパターンも考えられます。例えば首の長いキリンが子供を生んだら、たまたま「めちゃくちゃ首の長いキリン」が生まれたとしましょう。ところがこのキリン、あまりに首が長すぎて木の背丈を通り越してしまった。なので首を曲げて葉っぱを食べようとしたけど、どうにもこうにも届かない。結果、葉っぱを食べられずに餓死して死んでしまった。そうすると、めちゃくちゃ首の長いキリンは子孫を残せなかったので、新たな種類として確立することは無かった。と、このような話になります。

言われてみれば確かに説得力のあるダーウィンの説ですが、共通起源説についてはだいぶ反論があったようです。現在においてもこの説を否定する論は存在します。自然選択説についてはどうかというと、これまた反論がありました。それは、こんなような話です。

「いやいや話は分かるけど、例えばクジャクのオスって羽根を広げて求愛行動するよね。で、結局、羽根がキレイなオスが子孫を残せるじゃない?でも羽根がキレイかどうかって生き残るのに関係ないじゃん。っていうか、むしろ不利な気がするよね。そう考えると自然選択って微妙じゃない?」

これまた言われてみれば確かにその通りの話です。この結果、ダーウィンは改版の中で「性選択」という概念を導入します。性選択とは「子孫を残すための異性をめぐる競争においても選択が生じる」というものです。

<補足>
ここでひとつ、これらを違った方向から見てみます。長い歴史の現象として見た場合、「選択」という言葉でこれらを表現できますが「いざ子孫を残そうとする生物の立場」からこれらを見たらどうなるでしょうか。自然も性も子孫を残すための「超えなければならない障壁」です。つまり、圧力といえます。この見方をすると、自然選択において自然環境は「自然という厳しい環境が自身を淘汰しようとする圧力」、すなわち「自然淘汰圧」と考えることができます。そして同様に、性選択は「性淘汰圧」と考えることができます。つまり、進化の過程を俯瞰してとらえ、分岐・進化の観点からこれを見た場合は「選択」という言葉で表現され、進化のメカニズムとしてこれをとらえた場合は「圧力」という言葉で表現されることになります。この「淘汰圧」という言葉も進化生物学で頻繁に使用される用語のひとつです。以後、淘汰圧という言葉も頻出しますので、頭の中に入れておいていただければ幸いです。


さて、自然選択という「選択」メカニズムで生物を考えた場合、何ら疑問は生じないと思いますが、議論はいつしか淘汰圧にもとづいた「生物の行動メカニズム」へと移行していきます。自然選択によって「生き残りやすい生物が残り、進化を続けた」とするならば「生物は淘汰圧に対してポジティブな行動をおこす性質を持つはずだ」という話です。つまり「ものすごく俯瞰した目で現象をとらえながら、個々の生物の行動を説明してみよう」という試みです。まさに今、我々が「人間の行動メカニズム」を説明しようとする試みに似ています。デザインの話でありながら、進化生物学の知恵をお借りしようと考えた理由もここにあります。

ということで、話は「生物の行動メカニズムと進化の関係」へと移っていきます。自然淘汰と性淘汰によって生物の行動メカニズムを説明しようと試みたダーウィンでしたが、この理論だけではどうしても説明できないことが2つありました。

ひとつはアリやハチなどの社会性昆虫にみられるワーカーの存在です。実は社会性昆虫の中には、我々人間からすると想像しにくい不思議な生態を持つ種類がいます。それは真社会性(Eusociality)という生態です。ちなみに最も身近な事例はミツバチです。

ミツバチの世界では女王バチのみが交配して卵を生みます。そして、残りのハチの多くは働きバチとしてせっせと働くのですが、そのほとんどがメスです。ちなみにオスバチは働かないので、正確に言うと働きバチはすべてメスです。ミツバチの世界におけるオスとメスの割合は概ね1対9といわれています。ほぼメスですね。ところがこの働きバチの皆さんは子孫を一切残しません。つまり「子孫を残せる女王バチのためだけにせっせと働く」のです。ちなみにオスバチには、子孫を残すために女王バチを奪い合う闘いが待ち受けています。

さてこのミツバチの生態ですが、「生物は淘汰圧に対してポジティブな行動をする性質を持つはずだ」という前提で考えた場合、働きバチの行動が全く説明できなくなってしまいます。なにせ「働きバチ自身は子孫を残す可能性がゼロ」なのですから。彼らの存在は淘汰圧に対して完全にネガティブです。困ってしまいました。

そしてもうひとつ説明できないことがありました。それは利他的行動です。これは「他人のために尽くす」という行動です。利他的行動については「感動できる映画」といわれている類のものを観るとすぐに見つかります。例えば大ヒットを記録したタイタニックという映画に着目してみましょう。レオナルド・ディカプリオが演じる主人公のジャックは、ヒロインであるローズのために最後は命を投げ出します。それまでの行動は性淘汰で説明可能かもしれませんが、命を投げ出してまでローズを求めても子孫は残せません。「生物は淘汰圧に対してポジティブな行動をする性質を持つ」というルールで考えたら、どこかでジャックも子孫を残す行動へと舵を切らなければなりません。でも、そうしませんでした。

「結果、子孫を残せなかったから『利他的行動を起こすような生物は淘汰された』っていう理解でいいのでは?」と思うかもしれませんが、もしもそうであれば人間はもれなく利己的でなければなりません。なにせ、利他的行動を起こす生物は子孫が残せないはずですから。ですが多くの映画が物語っているように、人間には利他的行動を起こす個体が沢山存在します。こうした利他的行動は映画だけではなく、例えば「席を譲る」といった日常的な行為の中にも多く存在します。つまり、人間にとって利他的行為はごく一般的であり「生物の特性として生得的に持ち得ている」と言えるレベルにあるでしょう。そしてご存知の通り、利他的行動を行う「人間」は種族として十分に確立しています。まったく説明がつきません。さて、どうしましょう。

ちなみに先ほどの働きバチの事例も冷静に考えてみると、働きバチの行動はまさに利他的行動そのものです。そう考えると、ダーウィンの進化論において「生物の行動メカニズム」を説明しようとした場合「利他的行動をどう説明するか?」が大きな課題として残されてしまったといえます。

群選択のアイデアと子殺しの謎

ダーウィンが説明できなかった利他的行動ですが、多くの研究者が様々な理論でこれについて説明しようと試みました。その中でひとつのアイデアが登場します。それが群選択です。群選択それ自体の考え方はダーウィンの頃からぼんやりとあったのですが、これを力強く主張しひとつの説として提唱したのがウィン・エドワーズ(Vero Copner Wynne-Edward)の著書「社会行動に関連した動物の分散(Animal Dispersion in Relation to Social Behaviour)」だといわれています。ただし、この時の彼の主張は大反論を呼び、最終的にこの主張は撤回されています。なので、群選択については少しばかり慎重に話をしなければなりませんが、重要な説でもありますので、説明をしていきます。

さて、エドワーズの提唱した群選択の理論はいかなるものかというと「生物は種の保存、維持、繁栄のために行動する」というものです。ダーウィンの進化論は個体を基本単位として考えていたのですが、これを「種という単位に拡張した」という解釈だと言えば分かりやすいかもしれません。単位を「種」に広げれば、働きバチの行動や生態は説明することができるかもしれません。他にもプレーリードッグなどのように「自身の身を危険に晒しながらも種を守るために見張り役を行う」といった利他的行動も説明できるような気がします。ところが、瞬時にこんな疑問が浮かびます。

「働きバチの場合、そもそも働きバチは自分で子孫を残せないから何となく分からなくもないけど、プレーリードッグの場合、たとえ見張り役であっても個別に子孫を残すんだよね?そうしたら、見張り役を買って出るような利他的な性質を持つ個体は結果として子孫を残せないじゃん?そしたらその種の中にいる利他的な個体はすぐにいなくならない?」

人間の事例と全く同じ話ですね。確かに言われてみれば矛盾しています。ということで群選択の考え方はあっさり棄却されます。さらに群淘汰で考えた場合、上手く説明できない行為がもうひとつありました。それが子殺しです。子殺しとはその名の通り「子供を殺す」という行為ですが、例えばライオンなんかは子殺しをします。

ライオンは「プライド」という群れを作って行動します。プライドはボス的な位置にある少数のオスと多くのメス、そしてその子供たちで構成されています。この群れの中で育ったオスは、大人になると群れを追い出され放浪を始めます。この放浪を始めたオスをハナレオスと呼びます。ハナレオスは放浪をしながら違う群れを見つけると、新たなボスとなるべく闘いを挑みます。そして見事勝利を収めると、今度は悲劇が起こります。それが子殺しです。新たな群れのボスとなったハナレオスは、その群れの中にいる子供を躊躇なくすべて噛み殺します。一説にはメスの発情を促すために行われる行動といわれていますが、我々はライオンではないので、その真意はよく分からないのが実際です。

これは人間にとって中々受け入れ難い行動だと思いますが、子殺しを行う種はライオンだけではなくサルや鳥類をはじめ数多く存在しており、動物界の中でさほど珍しい現象ではありません。

群選択は「生物は種の保存、維持、繁栄のために行動する」が原則なので、子殺しはこれに真っ向反対した行動といえます。困ったものです。生物の行動は実に複雑怪奇です。

血縁選択の登場と細菌の魔の手

利他的行動を説明すべく登場した群選択もあっさり矛盾が見つかってしまい、いよいよ手詰まり感が漂ってきました。ところがひとつの朗報がやってきます。それが遺伝子という存在です。そもそも遺伝に関する研究は進化生物学とは違う分野で行われていました。遺伝の研究で最も有名なのは、理科の授業で教わったであろう「メンデルの法則」です。ちなみにメンデルの法則が論文として発表されたのは1866年ですが、当時はあまり注目されず、メンデル没後の1900年代に入ってようやく注目されることとなります。

メンデルの法則のうち、最も有名なのが「優性の法則」かと思います。いわゆる「遺伝子には優性と劣性が存在する」という話です。今となってはDNAが当たり前になってきたので説明に憂慮することはありませんが、当時はDNAも発見されていなかったので、植物を含めたあらゆる生物には「形質を決定する粒子のようなものが存在し、これが親子間で引き継がれる」と考えられていました。その後、この「親子間で形質を引き継ぐための物質」に対して遺伝子という名称がつけられ、1953年にはジェームズ・ワトソン(James Dewey Watson)とフランシス・クリック(Francis Harry Compton Crick)によって、この中心的な機能を持つものとして「2重らせん構造をもつデオキシリボ核酸(DeoxyriboNucleic Acid)」が発見されます。皆さんにとってお馴染みのDNAです。

エドワーズが群選択を提唱した年が1962年なので、DNAの発見は時代として概ね同時期といえるでしょう。群選択でも説明ができなかった「進化のメカニズム」と「生物の動態」に関する説明にDNAという道具が与えられたのです。希望の光です。

ということで、当時の進化生物学者もDNAにもとづいた説明を試みました。その結果、登場したのが血縁選択という理論です。血縁選択はドナルド・ハミルトン(William Donald Hamilton)が1964年に発表した論文「社会行動の遺伝的進化(The Genetical Evolution of Social Behaviour)」によって提唱されました。ハミルトンがこの論文を書いた時、彼はまだ大学院生だったというから驚きです。さらにこの論文、あまりに先進的だったため学者の方々に中々受け入れてもらえず、とある論文誌では却下されてしまい別の論文誌に再投稿するものの、そこでも査読で物議を醸し、最終的に掲載されるまで約2年かかったそうです。これまた驚きです。

と、余談が入ってしまいましたが、血縁選択について説明したいと思います。ですがこの血縁選択、遺伝子の説明なくしては語ることができません。ということで、まずは遺伝子についてザックリ説明します。これまたややこしいのですが、少しばかりお付き合いください。

まず、先ほど登場したDNAですが、簡単にいうと「タンパク質を作るための金型」のような存在といえます。細かく説明するとややこしいので割愛しますが、生物個体の細胞ひとつひとつには「その生物のDNA」としてすべて同じものが入っています。そして、細胞の各位置に適した金型を自動判別し、その金型を用いてタンパク質を生成します。この金型は生物毎に異なるため、様々な生物種や個体が生まれます。そんなDNAですが、いわば金型の集合体みたいなものなので、ものすごく長いです。でも、それをとても小さな細胞の中に収めなければなりません。それを知ってか知らずか、DNAは細胞に収まることができるように「ヒストン」というタンパク質にどんどん巻き付いていきます。こうして何個ものヒストンに巻き付きながら最終的には短い棒状になります。これを「染色体」といいます。イメージ的には「DNAという糸を編み込んだ1本のマフラーみたいな棒状のものが染色体」だと思っていただければ分かりやすいかと思います。

そんな「DNAマフラー」こと染色体ですが、有性生殖(いわゆるセックス)によって繁殖を行う生物の多くは「2本で1対」を成します。いわゆる「2本で1セット」というヤツです。2本で1セットなので、この構造を持つ生物を「2倍体」と呼びます。もちろんすべての染色体の中身は、異なる金型の集合体です。ちなみに人間であれば23対、つまり46本存在します。すなわち人間の場合、細胞毎に46本の染色体が格納されていることになります。そして、この23対によって「人間の遺伝子」という単位になります。

これらをまとめると「人間は2倍体であり、23対46本の染色体構造を持つ生物」であるといえます。

では、この人間が「有性生殖によって子孫を残す」場合にどのようなことが起こるかというと、「2本で1セットのうち1本だけ」が子供に渡ります。つまり子供は父親と母親の各々から1本ずつを受け取り、2本で1セットを形成します。もう少し細かくこのプロセスを説明すると、人間は46本の染色体が基本ですが、精子と卵子だけは23本しか染色体がありません。これを減数分裂といいます。そして、それぞれ23本しか染色体を持っていない精子と卵子が合体することで受精卵となり、子供となります。つまり、精子と卵子それそれが持ち寄った23本の染色体を合わせて46本にすることで子供は構成されることとなります。

さて、遺伝子のメカニズムについてザックリ説明しましたが、頭に入れておいて欲しいことは「普通の生物は2本で1セットの染色体を持ち、子供は父親と母親から半分ずつこれを受け取る」ということです。この前提を踏まえ、いざ血縁選択の説明へと突入していきましょう。

血縁選択は先に挙げたミツバチの事例で真価を発揮します。遺伝子に関する知識が蓄積された結果、ミツバチの遺伝子について大きな事実が判明するのです。それはオスバチがメスバチの半分しか染色体を持っていないということです。この理由は単純で、ミツバチの性別は受精卵か否かで決定されるからです。受精卵であればメス、未受精卵であればオスになります。この事実を踏まえ、ハミルトンは血縁度という概念を導入します。ちなみに血縁度の説明はやや難しいので、以下の説明で理解が難しい場合は「半倍数性」という言葉で調べていただければ様々な解説を発見することができると思います。

さて、血縁度とは「本人から見て同じ遺伝子が含まれるであろう度合い」を指します。例えば、女王バチから生まれたオスバチは遺伝子量は半分ですが、中身はすべて女王バチの遺伝子なので、オスバチから見た女王バチの血縁度は100%、つまり1となります。一方、同じようにして誕生したメスバチは女王バチの遺伝子を半分、精子を提供したオスバチの遺伝子をそのまま引き継ぎます。そうすると、メスバチから見た血縁度は女王バチに対してもオスバチに対しても0.5になります。ちなみに人間であれば男女関係なく、親と子の血縁度は0.5になります。

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