(一話紹介)忠犬番長

30年程前、西郷宙太という口髭がよく似合う、初老の紳土がいました。
その紳士は電車通勤をしていたので、平日は、朝、番犬と夫人と一緒に駅まで歩いて行き、駅に着くと、紳士は番犬の頭と顔を撫でて、「行って来るな」と言うと、番犬は一声「ワン」と挨拶し紳士が駅に入って行くと、悲しい声でもう一度「ワン」と吠え、主人が見えなくなると、夫人と一緒に帰り、主人の帰宅時間が近くなると、しっぽを振りながら、夫人と一緒に駅に迎えに行くのが、日課でした。
紳士の家で飼っている犬の種類は、純粋な土佐犬ですが、性格の優しい犬でした。
紳士は、家の中では、「ワニ」と呼び、外では「番長」と呼んでいました。
家の門には表札があり、家族の名前が右から順番に縦書で、はっきり分るように楷書体で書かれてありました。
表札の一番左には、赤い文字で番犬 鰐と書かれてあり、その表札の左側には、表札と同じ大きさの木に赤い字で大き目に、放し飼い 注意、と書かれ、取り付けられてありました。
呼び鈴の押しボタンも取り付けてありました。
ある日、この家に表札も見ず、勿論、呼び鈴の押しボタンも押さずに、押し売りがやって来ました。
新品のタブルカセットラジオテープレコーダーを三台と、新品の生テープを30巻と、新品の一眼レフカメラと、新品の望遠レンズと接写レンズと赤外線レンズを各三台と、新時の自動フラッシュを三台など、全てメーカー品ですが、これをすべて売ろうと、玄関の接客用の廊下に並べて、押し売りが夫人に言いました。
その日、家にいたのは、西郷夫人だけだということを知った上で、押し売りは入ってきたようでした。
「これは、みんなメーカー品でね、メーカーから仕入れた新品だよ。保証書も付いてるよ。ほら見て、分かるだろ。街の電器屋やカメラ屋より安くしておくから、買わないか。大きい家だからお金はあるだろ。大家族なんだろ。何人家族なの」
押し売りに、そう聞かれて、夫人は答えました。
「あなた、表札を見てこなかったの。家族の名前と生年月日も書いてあるから、年齢に合ったものを出して下さいな」
「表札、出てるの」
「門の所に出ていますよ。気づかなかったの。ちょっと、見て来て下さいな」
そう言われて、押し売りは表札を見に行きました。赤い文字で、番犬 鰐、放し飼いと書いてある表札を見た押し売りは、番犬を猛犬 鳄、放し飼い、と思い込み、急に足がガクガクしてきて、額から汗が流れ出てきて、声を震わせて門の所から夫人に問いかけました。
「奥さん。番犬ワニ、放し飼いって何ですか」
「書いてあるとおりですよ。うちのペットですよ。そこいら辺にいるでしょ。家の敷地内での放し飼いだから、問題ないでしょ。門の所に赤い字で『注意』とも書いてあるし、呼び鈴の押しボタンもつけてあるしね。うちに入って来る時に、見掛けたでしょ。そんな所にいないで、こっちに来て商談しましょ。商談しないなら、早く、これ持って帰って下さいな。置いて行かれても困るし。いたずらされたり、かじられたりしたら、あなたも、困るでしょ。
私は責任取れませんよ。だから、早く取りに来て下さいよ。私も用事があるんだから。いたずらしようとしても、私には止められないからね。うちのは土佐犬よ。大きい犬よ。早く入って来て下さいよ。私に門の所まで運ばせるつもりなの。あなたが、勝手に出したんでしょ」
「取りに行けないですよ」
「じゃあ、どうするの。持って帰らないの。いらないの」
「でも」
「後から言ってきたって、お金なんか払いませんよ。うちのペットがいたずらしても、弁償しませんよ。お金はいらないの。払わなくてもいいのかしら」
「はい。いいです。差し上げます」
「本当にいいのね。後から、お金を請求したりしないわね。証拠としてこのテープレコーダーに録音しますよ」
夫人は、テープレコーダーをセットして、マイクを押し売りに向けて、答えさせました。
「本当に、このテープレコーダーや、生テープや、カメラ一式は、全部、私たちへの贈答品ね。お金は絶対に請求しませんね」
「はい。絶対にお金は請求しません」
「もっと大きな声で、言いなさい」
押し売りは、声を震わせながら、言いました。
「はい。テープレコーダーも、生テープも、カメラー式も、全部、つまり新品のダブルカセットラジオテーブレコーダーと、とじゃない、テープレコーダーを三台と、新品の生テープを30巻と、新品の一眼レフカメラと、新品の望遠レンズと接写レンズと赤外線レンズを各台と、新品の自動フラッシュを三台など全部差し上げます。お金は、絶対に請求しません。置き忘れたものも、全部、差し上げます」
「ちょっと、待って。確認のためもう一度、同じことを言って下さい」
夫人に、そう言われ、押し売りは、声を震わせながら、大きな声で同じことを言って、逃げるように帰って行きました。
押し売りが帰った後、部屋の奥で隠れて夫人と押し売りの話を聞いていた番長は、安心して夫人にすり寄ってきて、じゃれつきました。


(おわり)


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