優しさか冷たさか
いろいろな外部刺激を自分に与えようと試行錯誤したのが奏功したのか、少し脳が覚醒してきたのを感じる。何か物事を受け止めた時に、きちんと思考が働く感覚。この数ヶ月失われていた感覚だっただけに安堵するところがある。
言い換えると、よしなしごとにたいして「言えること」が増えた、ということでもある。noteやソーシャルメディアもその発露の一形態だ。
ただ、「言えること」が増えたことは、「言いたいこと」が増えることとイコールではない。
人に何かを伝えようとすれば、何を伝えるか(what to say)は「伝える」というプロセスのごく一部ではなくて、どんなタイミングで(when)、どのようなやり方で(how)といった要素の方が大きく作用することすらある。
ビジネスの場面においてはwhat以外の変数があまりに大きなウェイトを占めるのは困ったことなんだけど、仕事を離れたプライベートな時空間においては「言ってることは正しいけど全然受け入れられない」みたいな局面は多々ありうるし、あっていいわけで、そうなってくると「言いたい」なんて独りよがりな欲望はほとんどなくなってくる。少なくとも俺はそういうタイプだ。個人であれ組織であれ社会であれ、伝えた対象が動いたり変化したりしないコミュニケーションにあまり意味を感じないから。
ただ、それってあまり優しい姿勢じゃないのかな、と思い始めてもいる。
もちろん、相手に受け入れ態勢ができていない状態で「助言」を決めて悦に入るなんてのは醜悪だ。それを原則として、しかし、「私は準備okです」なんて状態が垣間見えることなんてほとんどないのがコミュニケーションという奴だ。受ける側も、予期せぬタイミングややり方で投げかけられた言葉が響くなんてことはザラにあるし、むしろその方がハマった時のインパクトは強いことすらままある。
そういう「不意打ち」の効用を捨て置いて、タイミングを測るのは難しいから、あるいはタイミングがズレた時に嫌われるリスクをゼロにできないからと「言いたいことはない」姿勢を貫くのが、相手のことを真に思いやっていることになるのかは怪しい気もする。
あるいは、自分の視野で判断できる範囲でしか相手を見ず、相手のキャパシティや変質可能性を考慮しないのはある種のコミュニケーション不全であって、自分の冷たさを表しているし、その結果が今の孤独に繋がるんじゃないかと落ち込みもする。
では結局「優しさ」ってなんだろうと思いを巡らすと、そういえばそんなようなことを歌っていた歌手がいたな、と、斉藤和義「やさしくなりたい」の歌詞を読み返してみた。
やさしくなりたい やさしくなりたい
自分ばかりじゃ 虚しさばかりじゃ
愛なき時代に生まれたわけじゃない
キミといきたい キミを笑わせたい
愛なき時代に生まれたわけじゃない
強くなりたい やさしくなりたい
「自分ばかりじゃ」と危機感を表明しつつも、発されるのは「やさしくなりたい」「強くなりたい」「キミといきたい」「キミを笑わせたい」という自分が主語の願望ばかりで、こういうことだよな、と思う。
自分以外の誰かのことなんて、そう簡単にはわからない。結論は出ない。だから、いかに優しくなりたくても、基本的には「やさしくなりたい」と何度も繰り返すしかない。焦るように、祈るように。
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