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養う女、養われる男日記


養う女
2022/10/31
 美しい天才を養うことにした。最近私が友人2人にそう伝えたところ、「理解できない」と言われた。なぜ、「理解できない」のだろうか。その理由を分析するために、経緯と経過を記す日記を始めることに決めた。

 私は今年30になった女で、都内の出版社に勤務している。独身である。派手な生活はしていないが、堅実な訳でもなく、多少の浪費癖がある。基本的に面白みがないという致命的な欠陥がある以外、どこにでもいる30の女だが、先月末から、息子でも恋人でもない6歳年下の男性を養うことにした。養うことにした相手は芸術家で、良き絵を描き良き文を書く、自分の意志と思考を持った青年である。
 そもそも、「養う」とは何か。手元にある学研の現代新国語辞典をひらくと、第一義として,次のように書いてある。
 ①生活のめんどうを見る。ア 子供などを育てる。養育する。 イ 家族などを扶養する。生活させる。 ウ えさを与えて飼う。 エ 自分の手元において,技術・芸などを仕込み育てる。また、自分の配下として育てる。
 私たちは誰しも、誰かに養われた経験がある筈だ。子どもの時など,自分でお金を得ることができない場合に、誰かに衣食住を支えてもらう。そうでなければ、この現代社会で生きていくことは難しい。そうした「養う」という概念の基本に立った時、アとイについては、一般的な家族における「養い」関係を示しているようである。ここにおいて養いが成立しているのは、養い養われる両者に血縁ないし法的親子・婚姻関係が認められているからである。養い養われることに、理由のいらない関係であるとも言える。
 ウで取り上げられている養いは、対象が動物か何かだろう。人同士についての記述ではおそらくない。エは、たとえば芸子さんや徒弟制度など、どこか師匠のもとで起居を共にし、そこで生活を保障されながら、芸事や技術を学んでいくような、養い養われ関係のあり方であると思われる。
 私が始めた「養う」は、このどれとも少し違う。血縁関係ももちろんないし、彼は人であるし、私は彼の芸事の師匠ではない。家族同然の仲であるかというと、彼を養うことになったのは、知り合って10日後のことで、そう言うにはまだ日が浅すぎる。だからこそ、養うというからには理由がいる。
 養う理由を考えようとすると、そもそも、「養う」のベクトルが女性から男性に向いているから理由を考えなければならないのではないかということに思い至る。ベクトルが男性から女性へ向いている時には、とりたてて違和感のない場合が多い。もちろんわざわざ「養っている」等と公言したりすればこの共働きが一般的な現代においてやや前時代的な雰囲気を帯びるだろうが、その程度である。ベクトルの向きが逆になると、途端に理由が必要に思われる。それは多分あまり一般的でないことと同時に、女性から男性へ向けて金銭の授受が発生する時点で、不健全な香りがするからではないか。だから、友人達も理解できないと言ったのではないか。
 たとえば、私の友人達が、私が彼を「養う」と伝えた際に、連想したであろう言葉を挙げてみよう。まずは、「貢ぐ」だろう。ホストに入れあげる、危険なヒモ男に入れあげる。「推し活」も浮かんだかもしれない。推しを応援するために、金額を可能な限り積んでいく。さらに直接的で現代的な言葉だと、金で若い男性の時間を買い束の間の恋人気分を味わう「ママ活」も浮かんだ可能性がある。また、大仰な言い方では、芸術家を支援する「パトロン」が浮かんだかもしれない。しかしこのどれも、今回の「養う」関係を言い表すのにはあまり適切でないと考える。
 まず、「貢ぐ」の場合、その行為は見返りを求める場合がほとんどだ。相手からより関心をもってほしい、好意を抱いてほしい。その思いが、金銭という形をとる。私は彼を養うにあたって、こうした見返りを求めていない。30の独身女というと一番想定されやすいケースかもしれないが、私には前提として、結婚願望や子供をもちたいという願望がない。彼が暮らす上での不要な雑音を可能な限り取り除きたいだけであり、特に彼との関係性が発展することや、彼からの好意を求めるものではない。また、「養われる」にあたっての彼の態度も、ホストやヒモのそれとはまったく異なる。貢がれて当然とも思っていない。金銭の使い道も、享楽的でなく、使う目的がすべて芸術に収斂していく。
 「推し活」は、どちらかというと日常では接点のない推しに対して、応援する気持ちを表す最も直接的な形が金銭という「養い」の形態である。金額を積むこと自体が、同じ推し活をする同志達の中でのステータスとなる場合もある。これは資本主義経済の中で成立する1つの商法に則った図式ともいえ、やはり当てはまらない。
 「ママ活」は、若い男の子に給料を支払って、デートなどに付き合ってもらい、非日常を楽しむ行為で、「パパ活」の男女逆転版である。だが、私は彼にデートをしてほしい訳ではない。もしも、今後二度と会えないとしても、彼には健やかであってほしいし、私は彼を養い続ける。彼の時間を私が買い上げるよりむしろ、私が払う金によって、彼が働く時間をカットし、彼が絵や文筆業にいそしむことのできる時間を確保したい、と思っている。私に使ってくれる時間なんてものは最小限でかまわない。
 若き天才芸術家を養う、と言う点では「パトロン」が最も近いかもしれないが、歴史上、芸術家のパトロンは富裕層であることが一般的だ。しがない一般の会社員の女がやるという事例は、あまりないだろう。
 こうなってくると、どんどん人に説明しづらくなってくる。端的に言えば、引かれ始める。私の目指す「養い」行為の実態が不明だからだ。やろうとしていることは、血縁関係のある親から子への養いに近い。見返りを求めず無償で自分が稼いだものを渡す、その対象が名前のついた関係性を持たない、会ったばかりの他人であるせいで、話がこんがらがってくる。
 養われている本人も、私のことをわかりやすい言葉で「ゲテモン」と言っており、「理解ができない」と言っている。
 そう、そもそもが、今回の養いは、彼からではなく、私発信なのである。養うことを宣言したのは、instagramのDMだった。

実際のDMのスクショ

 一度会った時、彼はアート系のバイトをしていた。その時、仕事が好きである、と同時に、じっとしていられない自分について言及していた。その9日後のDMで、唐突にバイトを探していると言われた。出版社勤務の私に、絵の仕事の口がないか声をかけたのだと思う。私は彼にすでに仕事を依頼していたが、その他にも出版社から仕事を得る方法はないかと言う。仕事はどうしたのか問うと、辞めたらしい。そこからの、この流れである。  
 どう見ても、相手が冗談で言った「ほんまにやばかったら助けてな 笑笑」に対して、私は即答で「養う」と言っている。「はなしのながれ?」とも言っているように、話の流れ上、養うが何のためらいもなくでてきたのである。出会って10日、この時点で直接会ったのは一度きりである。見ればわかる通りに、彼がまず、私のこの申し出に引いている。完全に半信半疑の状態だ。私自身もよくわかっていなかったかもしれない。それにもかかわらず、この後、私と彼で押し問答があった訳でもない。しごくスムーズに、翌日には、養うことが決まった。

 結局、現時点で、この「養う」という関係性に、堂々と説明できるような正当な社会的理由は見つかっていない。そこで、この日記をつけていくにあたって、自分が彼を養おうと思った動機について、4つの仮説を立てることにした。今最も自分の中で確からしいと思える仮説である。今後生活する内に、よりたしかな動機が見つかるかもしれないし、立てた仮説がより深まっていくかもしれない。

 1つは最もシンプルで、彼の人生に関与する数あるアプローチの中のひとつであった、というものである。私は一度彼と会い、やりとりをした中で、彼の人生に関わりたい、と思った。そのやり方が、友人や恋人であろうとすることを飛び越えて、困っているなら養う、だったのかもしれない。
 2つ目は、自分がされて嫌なことは人にするな、自分がされて嬉しいと思うことを人にしろ、という両親の教えである。私は、働かずに、自分がしたいことをして暮らせたら最高だと思っている。だから彼に対して、自分がこうだったら嬉しいな、と思うようなことを実現しようとしているのである。現状のところ、彼は嬉しいと思うよりも不気味がっているかもしれないが。
 3つ目は、海外セレブの寄付と同じ感覚である。海外の富裕層は、給料の一部をためらいなく寄付にあてる。それが社会的に正しいと信じているからだ。私は、自分が稼いだお金を私本人が使うよりも、彼が使った方がより社会のためになる、と感じる。彼が生み出す作品や彼自身によって幸せになる人の総数は、私が直接に働きかけて幸せにできる人数よりも確実に多い。だから、稼ぎの一部を彼に使ってもらう。自分の給料の一部が確実に社会に貢献している、と思うと、働く上での張合いがちがってくる。公共の福祉であり、道義心でもある。自分でも人の役に立てるかもしれない、という感覚。
 4つ目は婚活市場からの離脱である。私は、結婚願望がない癖に、恋人がいない人というレッテルが貼られるのをおそれていた。だから、周りにいる異性を、今後関係が発展していくかもしれない相手として見なければならず、そのことに疲れていた。誰かに気に入られなければいけない、と思うと、自分は常に判断される側であるような気持ちになる。そのせいで、他人の目ばかりを気にしていた。だが、養うと決めたことで、そうした煩わしさがすっぱりと消えた。幸せにしたい相手がすでにおり、幸せにする方法が明確に確立されているからである。そのため、不安定な関係性の中で異性と関わる必要性から解放された。異性のことを今後どうにかなる人として見なくていい、という安心感。何より、孤独な人生からも解放された。なんてったって、私は天才を養っていると思えば、人生をひとりだけで歩んでいるとは思わなくなるのだから。それは恋人という不確かなものを得る以上に、私にとって重要なことに思われる。

 ここまで読んでくると、カルト宗教、洗脳なんかが頭をよぎった人もいるのではないか。私という人間に対してネジが飛んだ思い込みの強いやばい30女という印象を持った人も多いと思う。
私もそう思う。
 だがここで、私は洗脳されていないです、なにもヤバくないです、と言い募るほどに、より疑いを深める結果になるのは目に見えている。
 だから私は、この日記を重ねて、自分の行動で、この関係が真っ当であることを伝えていくしかないと思っている。
 何よりも、持続することでしか、こういう関係性が当たり前に成立することを主張することはできない。

 今後違和感なく伝えられるように、そして、この人に養ってもらえてよかった、と彼にも思ってもらえるような養い手として、成長していく所存。
 どこかの誰かがこれを読んで、今疲れている関係性から解放されたり、こういう関係もありなんだな、と納得してくれたとしたら、これほど嬉しいことはない。


養われる男

2022/10/27


僕が養われ始めて早くも一ヶ月以上が経つ。
まさか初対面の女性を一回家に上げた次の週には自分が養われているなんて思ってもいなかった。
その日から毎日が不思議で、この先もこの関係が続く限り僕はその感覚が失せることなく毎日不思議に思うべきだと思う。
どういう経緯か確かなことは覚えていませんが、僕が「働くのが得意ではない」と言って彼女が「働かなくていいよ」と言って数日後には僕の口座にお金が振り込まれていた。まるで今日家に泊まって良いかと親友に聞く時のような、もうすでに養われることが決まっていたような、そんなスピード感だった。
彼女は正直に友達にこの状況を説明したらしく、当然だがあまり良い反応もなく奇妙がられていたらしい。
これを読んでくださっている人に勘違いされたくないのは、僕自身も皆さんのように彼女を面白おかしくも奇妙に思い、皆さんと同じような感覚を抱いていると思います。
カルトや洗脳をあまり肯定的に捉えていないので、毎日のように彼女に「洗脳されていないか。いつ辞めても良いんだぞ。」と問いただしています。
恐らく、彼女自身も「なぜ僕を養うのか」を感覚的にもハッキリとはまだ理解できてはないし、もちろん周りの人に上手く説明するのも困難だと思います。
恋愛でも友情でもない何かがモヤッとした新たな概念のような物がありそうな彼女に感謝をしながら興味もあります。
僕を養うことによって経済的にも世間的にも彼女的にも、どの方面からでも、一瞬でも生きにくさを感じるとそれは養われる身としては大問題だと思います。
この関係を続ける上で色んなことが起きそうですが、こうやって世の中に発信して、未だかつて無い文学エンターテイメントになればそれはそれで良いのかなと思っています。
読んでくれた方達にも良いことがありますようにと思いながらAmazonのほしい物リストを作る今日の僕でした。

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