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ガラケー愛を少々

実は、と改めて言うほどでもないのだが、私はガラケーを使っている。中学生の頃に初めて親に買ってもらったものから数えて3代目。ずっとCASIOの固そうな防水の機種を乗り継いできた。この形が大好きだ。

高校2年にもなると、気合の入った友人たちは早くもスマートフォンを持ち始めていた。私はその当時、スマートフォンなんか一過性の流行りで絶対にすぐ廃れると思っていたので、皆こっちに戻ってくるだろうと意地悪くニヤニヤしながら待っていたのだが、ガラケーユーザーはどんどん減っていき、取り残されたのは私の方だった。
大学生になると、最初の1年はガラケーの者もまだそれなりにいたので、部活や学年関連の一斉連絡にはメーリスが飛び交っていたけれど、それもあっという間にスマホの天下となり、メーリスは姿を消してLINEになった。そうなれば「えっ、まだガラケー?」と聞かれることは日常茶飯事、明治維新後にちょんまげで歩いているような扱いを受けていたが、更にそこから10年も経つと、今度は逆に肯定的な意味で珍しがられることが増えてきた。

年下の知り合いから、自分のスマホの電池が切れてしまったが電話をかけたい、ついては電話を貸してもらえないか、と頼まれたことがある。いいよ、とガラケーを貸すと、その人はしばらくガラケーをパカパカして眺めたのち「これ、どうやったら電話できるんだっけ?」と困った顔をして尋ねてきた。

しかし一方で、未だにガラケー人気は根強い。大学に入ってからもガラケーを頑固に使っている友人は数人いたし、社会に出てからも私物がガラケーの人に時々出会う。そもそも私がいま3代目で使っているガラケーも、2021年モデルの最新式だ。今になって新機種が出るのは、一定以上の需要が見込まれている証左である。
ちなみに本機は機種代0円でゲットした。電波の切り替えがあって前使っていたのが使えなくなるというので、auが最新式をくれたのだった。

スマホで溢れかえっているこの社会で見知らぬガラケーユーザーとすれ違う時、私は全力で連帯の意を表明することにしている。すなわち、私も状況が許す限りガラケーを取り出し、それとなくポチポチ操作してみせるのである。

ガラケーの何がそんなに良いの、と訊かれることは多い。そういう時は、そんなカマボコ板の何が良いんだ、と先方のスマホを指して一応カウンターパンチを試みる。ただし、それだけだとコンビニの支払いに和同開珎を出した人を見る目で見られるだけなので、急いで次のように演説をぶつ。

つるつるのスマホは、目視しない限り電話もメールもできないではないか。
物理ボタンだらけのガラケーは、キー配置さえ指で覚えればノールックでメールを送れる。10年以上使っているうちに私はその能力を獲得したので、いくらそれがガラケーでしか通用しない”ガラパゴス化”した技術だったとしても、今更それを捨てる気はない。私は物理ボタンを強く信用していて、タッチパネルは全然信用していない。
そして、ガラケーは相当に頑丈である。二つ折りなのもあって「落として液晶を割る」事故はスマホより格段に少ないはずだ(ほら、と実演することもあったが、これまで全部無事だったものの内心はヒヤヒヤしながらやっていたので、もうしません)。
電池の持ちだって桁違いだ。いま私が使っているガラケーは、それなりに電話をしていても4日は持つ。電話の少ない週なら1週間はいけるだろうと思う。
以前勤めていた会社からは新品の社用スマホを支給されていたが、疲れ果てて充電し忘れたまま寝たら、翌朝5%と絶望的な数字を突き付けられたのを思い出す。
電池パックが交換できる点も素晴らしい。デカいモバイルバッテリーを担いで歩いたり、コンビニでバッテリーを借りたりしているスマホヘビーユーザーの衆には気の毒だが、ガラケーならば電池パックを1つ予備で持っておけば、1日で充電がすっからかんになることはまずない。どれだけスマホに比べ環境負荷が低いか、ぜひ考えてほしい。

はあ、どうや恐れ入ったか。

しかし、、、私にも弱点があって、そこを突かれると弱い。

「スマホをつるつるの板とか言ってるけど、アンタiPad使ってない?」

ぐっっ……、、iPadでLINEやっています。。YouTubeも見てます。

「ほんで、国内ではガラケーガラケー騒いでイキッとるけど、海外ではビビり倒してスマホ握っとるらしいのう」

……、先年ついにSIMフリースマホを買ってしまいました…。でも、ほら、中古で6000円で買ったやつだから、セーフでは。。。ないです、かね。。

LINEなどのアプリケーションの勢力は凄まじく、最初はPCでやり取りするなどそこそこ頑張っていた私も、結局は色々と飲まれたり説得されたりしてiPadを買ってしまった。また海外では、あらゆる所でスマホの使用を求められることが判明し、中古スマホも買ってしまった。一つ言い訳するのであれば、国内SIMは持っていないので、国内ではこの海外用スマホはコンデジ用途とナビゲーション以外には使っていない。
帰国して思うのは、もしスマホが無ければ、それはパスポートが無いのに匹敵するくらい面倒なことになっていただろうな、ということだ。本邦でも今後ますますスマホが必須になっていくであろうことを実感し、ヤレヤレとため息を吐くしかない。

当たり前だが、通信機器は相手がいてこそ成立する。だから誰かと機械を使ってコミュニケーションを取りたければ、地団駄を踏みつつも、結局は時代の趨勢に合わせてLINEをインストールするしかない。
そして同時に、一人だけLINEに登録しないのは、それ以外の全員に面倒をかける、ということと同義でもある。その他者への負荷を、LINEに登録していない本人がどれほど受け入れられるかは、なかなかセンシティブなところだ。それが本人の意思であればいいが、もしそうでない力ゆえだとしたら、また別の問題が生じているようにも思う。

しかしそれは、ここぞという時にどれだけ突っ張れるか、というのを試されているところでもあるのだ。

私は、使える間は、ガラケーを大事に使っていこうと思う。



※「ガラケー」にはだいぶ卑下されたニュアンスも伴うので、ちょっと注意が必要な言葉ではある。そもそもスマホが出てくる前、この機械は「ケータイ」と呼ばれていたはず。なぜそこに何も関係のない「ガラパゴス」(スペイン語でgalápagoはリクガメの意味らしい)が否定的な意味を押し付けられて投げ込まれるのか、勝手にその語源とされてしまった、ガラパゴスで一生懸命生きてきた生態群には本当に申し訳ない思いだ。
しかし一方で、ケータイとかfeature phoneなどと言ってみても、長年ガラケーガラケーと呼び慣れてしまった私には、もうピンとこない。この文中では、ある種の開き直りと反省、そして親しみを込めてガラケーと呼んだ。