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火のこと

やはり火を見ると、どうも心が浮き立つ。
小さい頃火遊びをすると、「寝小便するぞ」と脅されたが、その言い伝えもあながち間違いではないだろうなと思う。

火は危なくて、そしてそれだけ魅力的だ。

小学生の頃はかなりの頻度で、好きに火を熾せるプレーパークという場所に行って、友人たちとただ焚火をしていた。今思い返すとプレーパークもなかなか興味深い場所なのだが、その当時は焚火ができる場所という認識しかなかった。ときどき火で芋を焼いたりすることもあったが、大事なのは焼芋ではなく焚火それそのものだった。火を熾して燃やし続けることに惹かれ、暑い日も寒い日も、ただ燃やしていた。
地面に直接穴を掘り、良さそうな廃材を見つけて火をつける、それだけで全く良かった。合板を燃やすと臭い煙が出るからやめたほうがいいとか、竹を割らずにそのまま燃やすと大きい音がするとか、落ち葉を燃やすと濃い煙になるとか、様々なことを色々燃やして知ったけれど、目的は燃やしていいものを体得するのではなく、火を燃やすことそのものだった。

自分でキャンプやBBQをするようになって気付いたのだが、ほとんどのBBQ場やキャンプ場は、地面に直火を熾すのを禁止している。これは火が燃え広がってしまうことに対する予防策であろう。地面から浮いた焚火台は、それそのものが燃やしてよい範囲として物理的に規定されている。責任のとれる範囲、と言い換えてもいいだろう。もしかすると、火の管理は人類において、かなり原初に発生した「責任」なのではないだろうか。

長野県にビーナスラインという道があって、昨年の春かなり大きな林野火災が起きたのだが、火災の一月後にたまたまそこに連れて行ってもらう機会があった。焼けた地面とその範囲を見ると、この大きさにまで延焼した火は、とてもではないが、個人ではどうにかなるものではないことが感じ取れた。

手前の黒い部分は燃えて炭化した植物だ

しかし、だからこそなのか、明らかに責任が取り切れなさそうな大きな火を見ると、形容し難い気持ちが湧いてくる。
革命の映像はなぜかいつも火が燃えている。映画『ジョーカー』も印象的なのは道の火と、それに照らされる街である。火は恐怖そのものであり、また畏怖すべき対象だ。でも、心に湧いてくるのは恐怖の気持ちだけではない。怖いのに惹かれてしまう、その気持ちがあるのは否めない。
革命だけでなく、祝祭も地獄もまた火のイメージだ。何かが大きく変化するとき、火は、ともにそこにあるような気がする。


『廻り神楽』という大好きなドキュメンタリー映画がある。毎年、岩手県の沿岸部を旅して神楽を舞う一座のお話で、神楽の人たちは津波の後も、権現様とともに太平洋沿いの町々を行脚し、春を知らせてきた。

映画の中に、火の話が出てくる。
昔から神楽の人たちを泊めてきた海辺の旅館は、1階が津波に遭ってしまったが、2階より上を避難所として開放したそうだ。そこに避難してきた人たちは、大きな火を、昼も夜も休むことなく旅館の前で焚いていたらしい。その火は、夜、真っ暗な湾の対岸にある大槌町の人から、灯台のように見えた、というのだ。

本編はこちらからレンタルできる
https://vimeo.com/ondemand/mawarikagura2021


夏は花火大会の季節。私も花火は大好きなので、これまでそれなりに色々な大会を見に行った。
でかい火の玉がでかい音で炸裂する、文字にしてしまえばたったそれだけの現象を見るために人が来る。先日の隅田川の花火には、なんと91万人もの人たちが忙しい日々の合間に集まり、打ち上げを楽しんだそうだ。

火に浮き立つ気持ちはきっと多くの人の心の中にある。花火大会に来た何十万人もの人も、色々来る理由はあろうが、その気持ちに後押しされた人も少なくないのではないだろうか。
その気持ちは花火大会が終わったとていつでも思い返すことができ、そしてそれは誰にとっても大きな原動力となり得るはずだ、ということは時々思い返していきたい。火に対する気持ちは、とても大事なものだと私は思っている。