己の才能のなさに鈍感な人が最後に勝つ

 昨今の、「四の五の言わずに、とにかくやれ」教に拒絶反応を示し続け、気づくと何もしないままここまできてしまった。
でも、今さらやってバカを晒すのはごめんだ。そうした考えが足に鎖をかけ、ますます行動しなくなり月日が流れ情熱もなくなってきた頃、「ま、やらなくて良かったということだよ」と自己正当化し酸っぱい葡萄を振りかざす。裏で歯軋りをしながら。


 私もまさにこのタイプだった。だが、今ではほんの少しだけ考えを改めてみようと思うようになった。
 バカが勝ってしまう世の中になったからだ。やらない利口よりも、やったバカ。あの北朝鮮には「座って本を読む貴族よりも、動き回るバカのほうがマシ」(앉아서 책읽는 량반보다 돌아다니는 똥싸개가 낫다)という諺があるという。その精神が北朝鮮社会のどこら辺に発揮されているのかは私にはわからないが、一理あると思う。

 だが、やらない人間にだって一抹の主張がある。
 あえてやらないことは、自身の謙虚さを示す美徳なのだ。

  それを植え付けたのは、私の母親だと思う。母親は小説家を目指していた。というより「夢見ていた」というのが正しい。
 ことあるごとに小説家になりたかったと漏らし、自身と同年代の作家が芥川賞を取ろうものなら、そのぼやきはひときわ深くなった。

 私はそのような母親を気の毒に思い、何度も「書く機会」を作ってあげようと努力した。ツイッターのアカウントを開設してあげたり、手の筋力が衰えて書けないというのでタイプライターを購入してあげたこともある。だが、結局書かなかった。
 今でもそれが私にとって心苦しく、気に病んでしまうことがある。

 書けなかった一番の理由は「私には才能がないから」というものだった。さらに言うと、「才能なき者は動いてはならない」という彼女の信念がそうさせていた。
 若い頃、ロシア語と国語の教師をしていた母は言葉には敏感で、それ以外の事柄についても完璧主義者だった。きっと村上春樹や松本清張など圧倒的な大御所と比べていたのだろう。小説を書きたいという衝動より、自律心と俯瞰が勝ってしまっていたのだ。とはいえ衝動はたやすく抑え込めるわけではなく、長い間せめぎ合いをしていた。

 仮に才能がなかったとしても、彼女はあまりにも自分を厳しく評価しすぎた。才能という語彙に対し、図々しくなさすぎたのだ。そもそもプロの小説家など狭き門であり、目標として現実性がない。ひょっとしたら母は別に小説家になりたかったわけではないかもしれない。
 彼女の時代には公に自己表現ができるツールがなく、何かを発表できる人間は限られていた。小説家という概念しか知らなかったのだろう。
 それでも書いていればSNSで評価されたり、誰かの心を動かすなどの機会を得て、書くことの目的は達成されたはずだ。


 そんな母親の影響を受けたのか、私も誰かのお墨付きを得なければ容易には動かない人間となった。ただ、そんな母親の自身への徹底した厳格さは良い影響も与えてくれた。「身の程を知らない人間にならなかった」という点と、他者の才能にいち早く気づき、見抜く力を得た点だ。これは今の仕事に生きていると思う。そして自己評価の低さは翻って、鬼のような努力をする方向に自分を鼓舞してくれる。

 余談だが今だに数十万、数百万のフォロワーがいるインフルエンサーが紙の本をKDKWの誘いに乗って粗製濫造する傾向はよくわからない。本なんか読んだこともなさそうな人々が紙の本で箔をつけようとするのは不思議でならない。もちろん全員ではないが。


 お前がなんぼのもんじゃいというツッコミが来るのは承知で、あくまで定点観測者としての考察であることを前提に聞いてほしい。
 約20年、日朝韓のメディアで編集者の末席にいた身としては、まさに「本を読む貴族より動き回るバカ」のほうが共通して大成している。こう言ってはなんだが、むしろ自分自身の能力や才能に意図的に鈍感さを保ち、かつ戦略的な人が生き残っている。

 謙虚さなどクソほどの役にも立たない。どんなに素晴らしい選球眼も、自分に適用した時点で終わる。それで名選手になれなければ監督を目指せば良いのだが、それでも愚直に名選手を目指し続ける「バカ」がなんとなく最終的に勝っているような気がする。


 なぜバカが勝つのか、アウトプットの法則のおかげだ。行動量が多ければ勝手に上達していき、後付けで先天的な才能があったことに「なる」。ここにパレートの法則やら、入り組んだ話になっていくのだろうが割愛する(そもそも、専門用語や故事を引用する文章が本当は好きではない)。

 金正恩氏がミサイルを開発しまくって最終的に大陸横断弾道ミサイルを作り上げてしまったのも「動き回るバカ」理論なのかもしれない。
 下手なライターも何百回、何千回もリテイクをされていると2年くらいしたらまともに書けるようになる。あとは目のつけどころとか、「引き」の強さ、自己プロデュースの上手さになってくる。

 はるか昔、「このスキルの低さでよくその職業を名乗れるな」と密かに思っていて、業界でもそのような評価だった人が、今ではテレビにYouTubeに引っ張りだこの存在となっている。今でも、世に顔を出している人の中には自己の才能に対しツラの皮が厚い人が8割混じっているように思う。


 さて、ここまで書いても私はきっと、行動しない。行動しない人間がいたっていい。動かざるを得なくなる衝動を待ち続けるのも悪くない。これは一種の賭けなのだ。そのまま一生を終えたとしても、賭けに負けただけ。それに、あの世だって楽しいかもしれない。

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