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読書日記『パーラ 上・下』(三ラルフ・イーザウ,2004)

ミヒャエル・エンデに設定が近くて、(ついでに置いてある棚も近くて、)詩が章扉に書いてあって、その詩が物語の鍵になっていく児童文学が好きだった。もう一度読みたかったけれど、タイトルも作者名も思い出せずにいた。一縷の望みを賭けて、地元図書館の児童文学コーナーで探したら、拍子抜けするほど簡単に見つかった。それがこの本。

これはパーラという想像力と創造力が豊かな少女が、町の人の「ことば」を取り戻すための冒険譚。ストーリーやキャラデザは『モモ』に似ている。

大人になってから読み返して、気づいたことが2つある。

一つは、児童文学は大人が読んでも面白い、ということ。というより、児童の時よりも、色々な視点で読むことが出来るようになっているから、違った楽しみ方になる。寂しいような、嬉しいような。
この作品では、小学生の頃はパーラにだけ感情移入していたけれど、パーラの父母や悪の親玉・ジットに共感できるようになっていた。パーラの目から見れば、理解が遅く、古ぼけて、残酷すぎる大人たちという側面が際立つけれど、大人になるってたぶんこういうことだよなぁと思った。自分の感情に蓋をしたり、富や名声を追求したり。傷つく経験を積みすぎるから、そうなってしまうのかも。

二つは、想像の世界を忘れてしまっていたということ。
子どもの頃、ファンタジーの世界は、もっと近くに潜んでいなかっただろうか。例えば、ベッドの下、箪笥の引き出しの中、廃校、テストの余った時間、夢の中……。現実の世界と地続きで、色鮮やかなもう一つの世界で、実体のない私は縦横無尽に遊んでいた。
いつからその世界に行けなくなってしまったんだろうか。もう思い出せない。
この本を読んで、そういう世界があったことを思い出した。今の私には「あった」ということしか思い出せず、そこに遊びに行けないので、写真を眺めるようにその世界を眺めるだけだ。
気づき①と重なるけれど、児童文学には、少女時代にしかできない楽しみ方が確かにある。もう一回味わってみたいと思うのは傲慢だろう。大人の私にできるのは、その世界があることを覚えておくことくらいだ。


たまには、児童文学の瑞々しさに触れるのも良いな〜と思った。



読了日:2023/01/15


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