父の定年

オリンピックが知らぬ間に開幕した。
それと同じくらいの認識の範囲内で、父が定年退職を迎えた。60歳だ。

明日そのお祝いで食事に行くのだけど、なんかまた悲しくなってきてしまったので、ブログを書くことにする。

私は「お父さんに似てるね」と言われて育った。女の子としてはだいぶNGである。色の黒いのと上半身が虚弱なところだけ母に似て、その他のぱっちりした目とか、整ってるっぽい鼻とか、なんかそういうのは一切引き継がずに、顔立ちは全体的に、超日本人的な父の子供だった。

教育ママである母と対比して、父は私の教育に一切口を出さなかった。
ただ、私が小学校受験に失敗し、滑り止めの私立小学校に入ったとき、私は1年間の学費の額を告げられて言われた。
「中学校は、国立に行きなさい」

父は私立進学校の親にありがちな、弁護士だとか医者だとかではない。ただの中小企業のサラリーマンである。

だから家計としては、私を母の希望通り私立にやり続けるのは厳しかったのだろう。結局中学受験でいわゆる私立の進学校に私が合格してしまった結果、私は大学に上がるまで、両親が贅沢しているのをほとんど見たことがない。

その家計の厳しさに比例するように、父はどんどん外に出なくなっていった。

父はもともと、お出かけ好きで、新しいもの好きの性格のはずだった。母が厳しかったぶん、初めて私を吉野家に連れて行ってくれたのも、スタバに連れて行ってくれたのも、109に連れて行ってくれたのも全部父だった。

でも、私が中学3年生くらいになって、どこかに出かけよう、という話になると、父は決まって、「家が一番なのだから、どこにも行かない」と言った。
父は亭主関白気質で、強情な人だったから、そうなると家族の総意も、「じゃあどこにも行かないってことで…」となる。私は徐々に父のことがあまり好きではなくなっていた。

父はゲームが好きだった。私がドラクエとゼルダに執着するのは、こっそり私にコントローラーを渡してくれた父の影響だ。
でもその頃は、何回クリアしているのかわからない戦争ゲームばかり毎晩毎晩やっていた。よく飽きないね、と言ってしまったことがある。「お前が私立に行ってるから買えないんだろ」と返された。そりゃそうだ。そりゃそうなんだけど。

それ以来、父のことはあまりよくわからない。

私が会社員になった途端、実家の家電が全部新しくなった。それで「家が一番なのだからどこにも出たくない」と父は言う。父は私のことをどう思ってるんだろう。

定年だしな、と思ってプレゼントを買いにデパートに行く。ネクタイ売り場に行って、「あ、違うじゃん、定年じゃん」と思う。でも他に、父の必要とするものとか、好きなものとかがもうわからない。私はちゃんと明日、「お疲れ様」と言えるだろうか。


【追記】

これには後日談があるので、父と私のためにも追記しておく。

先輩がやっている料亭にご飯を食べに行って、そのあと喫茶店でお茶をした。

食事自体はくだらない話をしてつつがなく終わったし、連れて行った渋谷の喫茶店はすごく雰囲気がいいところで、「お前もいい店知ってるな」と父は上機嫌だった。父は学生時代に上野の喫茶店でアルバイトをしていて、年をとったらこういう喫茶店をやるのもいいなと思っていたんだ、なんてことも言い始めた。

しかし、父と会ったのもちゃんと話をするのも久しぶりだ。だから私と会う機会が多く、近況をよく知る母は、ここぞとばかりに父に言った。

「ねえ、この子よくわからない友達とか彼氏と起業したのよ」

確かにそうなのだが、「起業」だけでもキャッチーなのに、「よくわからない友達」とか「彼氏」(その「彼氏」とは、この話をした数週間後に、仕事関連で大揉めして別れてしまったのだが)とかいう刺激的なワードを入れてくるのは止めてくれるか。

ただ、いずれ話さないといけないことではあるし、私が起業なんて人生の予定になかったものを切り抜けられているのはひとえに両親の教育のおかげである。私はビビりながら、2015年から友人の事業を手伝ってそのまま起業に至った経緯と、今、確かに変わり者ではあるがちゃんと芯がある仲間4人と頑張っているという旨をとりあえず硬いテンションで説明した。父は言った。

「いいね、俺の子だね」


▼「Father & Daughter」SATO-C & Yasco.





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?