
卒業設計を終えて。
卒業設計が終わった。
ここで一度、振り返っておこうと思う。
いまの率直な気持ち
卒制の提出も学内講評会も、スケジュールとしてはもちろん終わったのだが、はっきり言って、私の卒制は始まってすらいないのではないかと思う。
尊敬する同期たちが、あれだけの熱量をもって取り組み、期限内にあれだけの物量と密度の成果物を間に合わせていて、「ああ、なんて素敵な人たちなんだろう」と素直に感じたことを覚えている。
発表練習でそんなみんなに自分の提出物を見られるのが、恥ずかしくて仕方なかった。自分の卒制を恥ずかしいと思ってしまう状態のものしか形にできなかったことも情けなく、そして手伝ってくれた人たちに申し訳なかった。
客観的に見つめる
とはいえ、感情だけにとらわれていても仕方がないので、きちんと冷静に振り返っておく。
敷地への思い入れ
私が今回設計対象としたのは、近所にある市民ホール。
市民利用のさかんな地域密着型の多目的ホールと市立図書館などを有する複合文化施設である。
私自身も幼稚園時代から中学の合唱コンクール、成人式の同窓会に至るまでお世話になってきた。かれこれ18年ほど知っていることになるらしい。
建築自体に対して「好きだー!」という気持ちはないのだが、節目節目に利用する機会があったこともあり、思い出が建築に紐づいているようなところがあるのかもしれない。
方針転換
最初は建て替え計画を提案しようとしていた。
というのも、あちこちで多目的ホールの建て替え計画が頓挫したという話を聞く中で、あえて新築をつくる意味を考えたかったからである。
しかし、これは中間にて「この時代にホールを建て替えるのは費用的にも大変なことだ。なんでわざわざ建て替える必要がある?」とのご指摘をいただき、改修計画に変更することとなる。
後々考えると、私は「なぜ今の時代にわざわざ新築を建てるのか」という問いに向き合いたかったので、指摘を受けて方針を変える必要はなかったのかもしれない。「成果物で教員を黙らせてやる!」くらいの気概があってもよかったのかなと今は思う。
改修というもの
改修、というものを私は最後までつかめなかった。
既存のプランに囚われすぎて、新しいモノが全然出てこなかった。
ASIBAで「建築学生には妄想力がある」、それが素晴らしいのだ、と散々耳にしていたのに、ワクワクするような妄想の種を、自分のつまらないものさしで切り捨ててしまっていたように感じる。
思考のボールを遠くに飛ばしつつ、手綱は握っておく。塩梅が難しい。
アイデアの発展
今回はホールを広義の意味で「ひらく」ことを試みた。
(これをうまく「ひらく」に代わる言葉で言語化できるといいね、とアドバイスいただいた)
活発な市民利用により稼働率90%近くを誇るにもかかわらず活動を公にしていないものも多いことから、そこまでホールが使われているのだという事実を知らない市民も多い。
そこで、当該施設の大きなボリュームによって妨げられている街中の自由な往来を、建築内にチューブを通して道をつくることで実現し、さらにホール内にもチューブを通すことで、「街を歩いていたらいつの間にかホールの中だった。思わずホールでやっていた催しを見てしまった。」という瞬間をつくりだすことを試みた。
と、目指す未来までは描けていたのだが、それを形にするまでは至らずタイムアップ、といったところだ。
建築にチューブを通すと言ったはいいが、既存の建築にチューブを挿入するという大胆な手法は、あちこちが成立しなくなるのも想像に難くない。また、チューブと言っても直径や断面形状(正円/楕円)、素材(ガラス/コンクリート等)など変数が多く、検討の余地が大いにある。
また、チューブのような何かを通すという概念は持ちつつ、チューブに囚われすぎずに提案を発展していくことも必要に思う。パネルディスカッションにて「減築でもいいのでは」とのご意見もいただいたので、それに対しても納得のいく回答ができるようにしておきたい。減築する案を一度考えてみてもいいかもしれない。
そして、これから。
だから、この卒制は、もう少しだけ頑張ってみようと思う。
この先建築を設計する機会があるか分からないのだから。
提出の日の朝にはじめて感じた、「あ、これいい感じかも」というあの興奮をもう一度感じたいから。
頑張ってやり切ったときにしか訪れない、ふとそれまでの全てのことが報われる麻薬のような瞬間を、もう一度味わいたいから。
これだけは口だけになりませんように。