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バチェロレッテの記事を読んで、「理解できないことは、無理に理解しなくて良いんだ」と思ったこと。

私はバチェロレッテにめちゃくちゃはまっているので、先週にバチェロレッテに関する記事を書き、他の方の記事も色々と見ていました。そして、Twitterでバチェロレッテに関するとある記事が議論を呼んでいることを知りました。

その記事の内容を私も拝見し、タイトルや表現について、私は不適切であるとは思いましたが、それ以上にその記事を「真理すぎる…」「火の玉ストレートすぎるww」と持ち上げている人が一定いることが気になりました。

いや、それって真理か??

そういった持ち上げている人を見て、なんだか、よく学校のクラスでいるような、本人が否定しているのにも関わらず「え~、絶対〇〇はXX君のこと好きなんでしょ~!」「ちょっとホントのこと言ったらかわいそうだよ~、秘密にしておいてあげなよw」と勝手に盛り上がっている中学生を想起させられました。

件の記事は、個人がバチェロレッテを見てどう感じたかという話が書かれており、特に事実に基づいているわけではなく、「この人はこういう人のはずだ」という推察に基づいて書かれています。当然、真理でも何でもありません。

私は個人のブログで真実だけを書いたほうがいいとか、そういう話をしているのではありません。個人的な意見を読めることがnoteをはじめ、個人ブログの良いところですから。

そこではなく、事実ではないことを、なぜ多数の人が真理だと感じて、あんなに賛同するに至ったのかということに私は関心を持ちました。

自分で理解しがたいことを前に人間は過激な極論に行きつく

そして、最終的には、人間は自分で理解しがたいと思ったことを何とか理解したいと思ったときに、すごく極端な考え方に行きつくのでははないかと思いました。

バチェロレッテは、私もそうでしたが、登場人物はどんなふうな気持ちなのか、なぜ最後にあの決断を下したのかということを、視聴者は理解するのが難しい内容でした。「なんで~!?どういうこと~!?!?」となるのが恋愛リアリティショーの魅力でもあります。

ただ、その結論をどうにかして理解したいと思った結果、特定の登場人物の人間性を否定したり、その家庭や生い立ちに問題があるという過激な考察を真理だと思いたくなってしまうことがあるのかもと思いました。

理解できないことは、無理に理解しなくて良いんだよ

今回のバチェロレッテに関する反応は、冗談半分だったりした人もいたのだろうと思います。逆に、恋愛リアリティショーにマジになって、登場人物の行動にマジレスしている人は、もうちょっと冷静にコンテンツを楽しむべきです。

でも、今回のことで、理解できないことを前にしたときに、過激な考察を真理だとして納得してしまいたく思いたくなる気持ちが、私を含め誰にでもあるのかもしれないことは自覚したほうが良いと思いました。

例えば、自分自身がすごく不運に見舞われ、「なんで自分ばっかりこんな目にあうんだろう…」と腑に落ちない状況に陥ったときに、「あいつがこういう風にしてくれなかったからだ」「あいつが悪いんだ…」と思い込み特定の人にヘイトを向けてしまったりすることはないでしょうか?

(そして、心の底で冷静になってみれば、自分自身の不遇の原因が本当にその人にあるわけではないことが分かっていたことはないでしょうか?)

何かわかりやすい結論に飛びつくことは分かりやすいし、それが一時の心の安寧をもたらすこともあります。でも、正しくないものに飛びついても、最終的には物事は改善しません。

もし、今後、私が理解できないことに遭遇した時には、決めつけずに理解できないまま置いておくことも、1つの賢く優しい選択であることを覚えておこうと思います。

さいごに

結局この記事で「理解できないことを無理に理解しなくて良い」と言っているわりには、今回の記事をめぐって私が理解できなかった反応について、私もある意味決めつけているので同じ穴のムジナかもしれませんね。

理解したいと思う気持ちは誰しも持っていますし、それが探求心や好奇心として良い方向に働くこともあると思います。でも、「理解できない人や物事にも何か事情があるのかもしれない」ということにことを少しでも心に留めることができるかどうかによって、自分の行動や気持ちは変わるかもなぁと思いました。

#ちなみに 、件の記事と同時に、福田萌子さんタイムループ説に関するTweetも拝見して、マジレスするのではなく、こういう楽しい発想で人を豊かな気持ちにできる人は本当に天才だなと思いました。


今後も継続的に記事を書き続けていく予定です。 100円くらい投げてやっても良いかなという方がいらっしゃったら、とっても嬉しいです。ぜひよろしくお願いします!