他者の悲しみを消費する者たち
『窓の外の結婚式』
原作:柳美里
演出:堀川炎
芸術監督:平田オリザ
これは、日本における「ケア」観念の欠如による加害の連鎖の物語である。
利賀創造交流館のおおきなブラックボックス。舞台下手には洗濯ロープがゆったりと張られ、大きな白いシーツがかかっている。中央手前にダイニングテーブル、イスが向かい合わせに2脚、背もたれのない二人掛けのチェアが1つ。下手奥にスタンドライトが置かれている。上手には流し台。そして中央上手よりに、白い格子窓がぽつんと浮かんでいる(正確には、黒い足をつけて立ててある)。雨の音が聞こえる。
客席に入ると、すでにダイニングテーブルで男が何か読んでいる。開演時間を過ぎたところで白いワンピースを着た女が現れ、洗濯物を干しはじめた。外は雨が降っているのに、女は窓を開ける。窓の向こうには結婚式場があるらしい。再婚同士の女と男だが、女は東日本大震災の津波で両親と夫を亡くしていた。女は再婚相手の現夫と過ごしていても、その悲しみがかなり頻繁にフラッシュバックしており、彼と適切に接することができない。どれだけ理不尽な仕打ちを受けても、現夫は根気強く女が正気に戻るのを待ち続け、あるとき唐突に女が希望へ向かったところで幕となる。
この作品の上演は、「悲しみ」というものの扱われ方について、現在の日本社会がもつ「ケア」の機能不全の構造をまざまざと示した。
本来、「喪失の悲しみ」とはケアされてしかるべきものであり、慰めや傾聴などの「誰にでもできるケア」ももちろんあるが、行政による支援や、専門的な「医療行為としてのケア」も非常に重要である。女は明らかに、現夫以外からの適切なグリーフケアを受けているとは思えない震災遺族であった。現夫がたまたま忍耐強く女が正気に戻るのを待ち、傾聴できる人間であったから、この話のこの時間軸においてうまくいったにすぎない。そしてどれだけ忍耐強かろうが、女に適切なケアを受けさせようとしていないという点で、現夫も家族として不適切である。最後の「行こう」というシーンも、偶然回復期への兆しが見えただけであって、また何度も喪失の悲しみに引き戻されるだろうことは想像に難くない。女は、家族全員を一度に亡くすという壮絶な悲しみを、未だ処理することもできずに喪失のショックのなかに閉じこもっており、現夫にも発作的な激情をぶつけ、そして時折正気に戻ってはなんとかやり過ごす日々を送っている。この、未処理のままの「悲しみ」を、今回の上演では明らかに「(かわいそうな)見世物」として提示し、観客のカタルシスを誘っていた。また、原作では「女1N(ナレーション)」という、女のモノローグを想定して書かれただろう女の両親のセリフは、今回の上演ではそれぞれにキャストが宛がわれ、彼らによって発話される。また、両親や亡くなった夫が時折シーツの影や、窓の外や、あるいはどこからともなく現れて、嘆き叫ぶ女を見守っている。女が自分自身の内にみる家族の姿を現実世界に置くことは、彼らを喪った女への暴力装置ではないだろうか。適切なケアを受けていれば、例えば「現夫を苦しめてしまっていること」に苦しむ、ということもできたはずである。しかし、ケアの機能不全によって「ありがとう」も「ごめんね」も言うことが(最悪の場合は感じることさえ)できなくなった女の、ただひたすら自分の悲しみの精神世界にいるさまを、さも美しいもののように提示にして、涙を誘う行為もまた、女と観客への暴力装置である。日本はいまだに、適切なケアがなされなかったという「社会の失敗」による悲しみからくる言動の理由を、「ごく私的なもの」として片付け、そしてそれを美しく貴いものだたとらえてしまう。また、つまりこれを「美しい」と感じてしまう観客も女への暴力をはたらいているといっていい。喪失から立ち上がろうとする人々を、高い視点から見下ろして自らの情緒を揺さぶるのは知性ではない。それは他者への寄り添いの真逆にあり、他者の感情、人権、生命を自分のために消費しているにすぎない。
今回の上演は、上記のように、ケアの機能不全による、(「本来はケアされてしかるべき)悲しみ」を、「美しいもの」として提供してしまっている点で反知性的である。これを演出の堀川が所属する青年団の主宰の である平田オリザが「震災を描いた演劇の中でも五本の指に入る」とSNSで発言しているのは、演劇というメディアにとって非常に由々しい問題だと感じた。