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公教育の限界か、 インターナショナルスクールという選択

人は集団の中でしか生きられない。人は常に、自分がどのような人間であるか、性格や醜美も含めて、自分と人を比較して相手が自分より上か下かを、見比べながら生きている。

ゆえに私たちは、所属する場所(アイデンティティ)を求める。それは、国家、民族、人種、生誕地、言語、宗教あるいは会社、家族など人によって実に様々だ。通常、同一環境にいる集団が他の集団とまみえたとき、差異を異質と捉えてこれを排除(差別)する動きが起きる。

そう。差別とは、生き物の本能と密接に結びついている。たとえ不条理、無意味、根拠の無いものであっても、集団社会がある限り差別は無くならない。

だが、これを放置すれば、グローバル化が進展する中でのアンチグローバリズムと結びつき、社会不安や治安悪化、ひいては地域紛争、民族紛争、宗教戦争を引き起こす。

異質を差別する根底には無知がある。知らない者を潜在的にこわがる本能がそうさせる。しかし無知だからと許されるものではない。やられた側の人生に重しをつけてしまう。ゆえに「無知は罪」となる。知ろうともしない傲慢さが、摩擦を引き起こし、人を傷つける。

同和問題、沖縄の基地問題、在日外国人排斥、ニューカマー問題、そしてパワハラ、セクハラ、ジェンダー、イジメなど、全ての根っこは同じだろう。大集団の中の小さなグループ「マイノリティ」排斥をもたらすものは、我々の「無知」だと自覚することが、1人ひとりのアイデンティティ確立に繋がっていく。

隣国と国境を接していない日本は、同化圧力が強い国だ。由緒正しきニッポン人以外は、居ないも同然の扱いを受ける。しかしもはや、外国人無くして経済が成り立たないほど、マイノリティに属する人たちが日本を支えているのも事実。

ニッポン人の同化・同調圧力は、日本人自身にも跳ね返る。「みんなと違う」だけで排除の対象となってしまう。そして大人社会のいびつな構造を子供社会はダイレクトに反映させている。学校に行けない子供たちの数は増え続けている。

インターナショナルスクールで学ぶ

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