誰よりもあなたを愛する(皐月物語 163)
藤城皐月は家を出る時に母から飲食代を二千円渡された。この日は母の小百合から同僚の芸妓の明日美と外食するように言われている。食事代は明日美が払うことになりそうだから、この飲食代を使うことはないだろう。
芸妓組合組合長の京子は体調を崩しがちな明日美の暮らしぶりを心配している。明日美は京子の言うことを聞かないが、皐月の言うことなら耳を傾ける。そのことを知った京子は明日美の世話の一部を皐月に頼るようになった。
小百合は京子から明日美の話を聞き、皐月に明日美の付き添いをさせることに協力することにした。小百合も明日美の体調を心配しているし、明日美が皐月のことをかわいがっていることをよく知っている。そして、皐月が明日美に懐いていることもよくわかっている。
皐月にとって、明日美に会えることは嬉しいに違いなかった。だが、小学生の自分が大人の明日美に寄り添わなければならない状況に困惑た。もしかしたら明日美の体調が悪くなったんじゃないだろうか、と気が気ではなかった。
皐月は明日美のマンションの前まで来て、足が止まってしまった。明日美に会える嬉しさよりも、明日美の体調の異変への不安の方が大きくなっているからだ。
だが、いつまでもこの場に立ちすくんでいるわけにもいかない。意を決して、皐月はマンションのエントランスに足を踏み入れた。部屋に辿りつくまでの一連の手順にはもう慣れた。
「皐月だよ」
「今、開けるね」
明日美は白いブラウスと紺のチノパン姿で皐月を出迎えた。髪を後ろで一つにまとめ、薄くメイクをしていた。飾り気のないシンプルなスタイルだったが、明日美は皐月の付き合う女子の誰よりも美しかった。
「ただいま」
皐月が家に帰ってきた時のような言い方をすると、明日美が嬉しそうな顔をして抱きついてきた。
「おかえり。よく来てくれたね」
明日美の抱きしめる力が強くなり、髪や頬に何度もキスをしてきた。これは皐月がまだ小さかった頃にかわいがられていたやり方だ。しかし、皐月は今の明日美にその頃よりもわざとらしさを感じていた。
「明日美。俺、もう子供じゃないんだよ?」
そう言うと、皐月は明日美の唇にキスをした。軽くキスをしただけだったが、明日美ははしゃぐのをやめ、穏やかなテンションに戻った。
「上がって」
皐月をリビングに通すと、明日美はキッチンへ消えた。この家のリビングはあいかわらず物のない、真っ白で殺風景な部屋だった。
「お茶、入れるね」
明日美は冷蔵庫から特保の緑茶のペットボトルを取り出して、グラスと白のマグカップにお茶を注いだ。皐月がラグマットの上に座ると、明日美が両手にグラスとマグカップを持ってきて、テーブルに置いた。
「なんか変な組み合わせだね」
「だって自分の食器しかないから。これからも家に来てくれるなら、皐月の食器も置こうかな」
「たくさん来るよ。入り浸っちゃおうかな」
「じゃあ、後で皐月の食器を買いに行こう」
夕食の時間はまだ先だ。皐月はずっと家にいて、明日美のそばにいたかった。できることなら明日美に体をくっつけて、離れたくない。だが、明日美が外に出ようと言うので、付き合うしかない。
「修学旅行のお土産を持ってきたんだけど、見る?」
「見たい。何を買ってきてくれたんだろう……」
皐月はノートPCの入った手提げ袋から小さな箱を取り出して、明日美の前に置いた。
「これは?」
「開けてみて」
皐月がこれを買う時は絶対の自信を持って選んだが、いざ開封となると気に入ってもらえるか自信がなくなった。だが、箱の中身を見た明日美は珍しく歓声をあげた。
「ピアス?」
「イヤリングだよ。清水寺へ行く途中の五条坂にあるお店で買ったんだ」
「かわいい……。このガラスの花はフリージア?」
「そう。明日美の好きなフリージア。透明なフリージアの花言葉は『誰よりもあなたを愛する』」
花言葉は皐月が咄嗟に思いついたものだ。そもそも透明なフリージアなんてこの世界には存在しない。
「どうしたの?」
明日美が泣いていた。流れる涙を拭おうともしなかった。
「これじゃ、お土産じゃなくてプレゼントだよ……」
指で涙を拭い、明日美は笑顔になった。
「これ、高かったでしょ? お小遣い、なくなっちゃったんじゃない?」
「こっそり多めに持っていったよ」
「無理させちゃったかな……」
明日美は箱から透明なフリージアを取り出して、手に取った。
「このイヤリング、どういう仕組みになっているんだろう?」
皐月が買ってきたイヤリングはガラス玉のついた特殊な金属で耳を挟むものだ。普通のイヤリングのようにネジでとめるものではないので、ピアスのようにスマートな見た目になっている。
「つけてみるね」
イヤリングには付属の専用の器具があり、明日美はマニュアルを見ながらつけ始めた。
皐月の選んだイヤリングはガラスの透明なフリージアで、花弁の奥が黄色く、外の縁が紫色になっている。フリージアは明日美の好きな花だ。
「明日美、よく似合ってる。世界で一番きれいだよ」
「ありがとう」
二人の交わす台詞は皐月が小さかった頃と同じパターンだった。だが、その後に口づけをする場所がその頃とは変わった。以前の明日美は皐月の頬にキスをしていたが、今は唇を重ねている。
明日美が疲れていると言うので、寝室に移動した。明日美はベッドに入り、皐月はその横の床に座った。
「明日美、大丈夫? ママに明日美と晩ご飯を食べに行けって言われた時は何事かと思ったよ。体調が悪かったんだ」
「昨日の仕事でちょっと疲れただけよ。お母さん(京子)の言う通り、頑張り過ぎないようにしているんだけどね」
「どうせ仕事や稽古を抑えていても、大検の勉強を頑張っているんでしょ?」
「横になりながら勉強しているから、そんなに疲れないはずなんだけどな……」
明日美のベッドサイドには大検のテキストが山積みにされていた。皐月は夕食までの間、明日美が勉強をしている横で、ノートPCで修学旅行の紀行文を書くつもりでいた。
「体の調子がこんなだと、勉強なんかやる気にならないな……」
「休んだら? ダメなの?」
「うん……。休んだ方がいいかも」
皐月には明日美の顔がやつれているようには見えなかったが、少し生気が失われているような感じがした。
「ご飯、ちゃんと食べてる?」
「ふふっ。食欲は正常なの。たくさん食べてるよ。お母さんも百合姐さんも心配してくれるんだけど……」
「それなら、いいんだ。良かった」
皐月は明日美の疲れを勉強の頑張り過ぎだと判断した。明日美は何にでも根を詰めると京子が言っていた。皐月は明日美の頑張り過ぎを邪魔して、休ませるようにしなければならない。
「修学旅行の話をしたいんだけど、聞く?」
「うん。聞かせて」
「じゃあ、横に入ってもいい?」
皐月は明日美のベッドに入って、体を寄せたかった。
「いいけど、服がシワになっちゃうよ? ベッドに入るなら、服を脱いで」
「全部?」
「バカ! 皐月はいやらしいな~。服がシワになったら、外に出られなくなるでしょ?」
皐月は明日美に買ってもらった服を脱ぎ始めた。明日美に見つめられながら服を脱ぐのは恥ずかしかった。
「皐月。私の選んだ服、よく似合ってるね」
「カッコ良過ぎて、修学旅行ではモテ過ぎちゃったよ。もう困って困って」
「そう……」
明日美の顔が曇った。
「バカだな……。冗談に決まってるじゃん」
皐月はTシャツとトランクスになって、布団の中にもぐり込んだ。
「明日美は脱がないの?」
「私は出かける時に着替えるから、いい」
相手が幼馴染の栗林真理なら「お前も脱げよ」と言えるけれど、皐月は明日美にまだそこまで気安く言えなかった。
明日美が皐月の胸の中に入ってきた。体のサイズは真理や祐希とあまり変わらない。
「修学旅行のお話をしてよ」
皐月は明日美を軽く抱きながら修学旅行の話を始めた。話したいことは山ほどあった。いろいろな人たちに何度も話していたので、話し方が上手になっていたようで、明日美はよく耳を傾けてくれた。
話し続けていると疲れてしまい、皐月はときどき明日美の髪を撫でたり、キスをしたりした。一度キスをすると話の中断が長くなり、なかなか話が先に進まなくなった。
長い話になってしまった。話が終わるころには、明日美も下着姿になっていた。いつの間にか日が暮れていた。
明日美は皐月を連れて、皐月のマグカップとグラスを買いにショッピングセンターの食器売り場に来た。皐月の私物が明日美の部屋に置かれるようになれば、明日美の部屋が皐月に解放されたことになる。皐月はこれで何のためらいもなく明日美の部屋に行けるようになる。
「皐月。好きな物を選んで。本当は食器の専門店か百貨店に連れて行ってあげたかったんだけど、私もここで食器を揃えたから、他の店を知らなくて……」
「そんなの全然気にしていないよ。明日美と同じ店で自分の物を買えるなんて嬉しいよ。でも、部屋に合う物の方がいいよね。明日美の部屋って真っ白だし、俺だけ清水焼とかにしちゃったら、部屋の雰囲気に合わないでしょ?」
皐月は修学旅行で清水寺へ行き、土産物の清水焼を見ているうちに陶器に興味を持ち始めた。
「私に気を使わないで。皐月が気に入ったのを選べばいいから。陶器が欲しかったら、また別の機会にどこかに買いに行ってもいいよ」
「いい。ここで買う。それで、買ったグラスでもう一度、明日美の部屋でお茶を飲むんだ」
「家を出るの、遅くなっちゃったからね。あんなことしてたから……」
「俺は家を出たくなかったけどね。ずっとああしていたかった。早く買い物を済ませて、家に戻ろうよ」
「あれっ? 私と外食するんじゃなかったの?」
「じゃあ、早く晩ご飯を食べちゃおう」
皐月が選んだのは耐熱ガラスのダブルウォールタンブラーだ。これなら一つでマグカップの役割も兼ねている。
「白い部屋なら透明な食器が似合いそうだと思ったんだ。明日美のイヤリングもガラスのフリージアを選んだし、俺って透明な物が好きなのかもしれない」
透明な物は向こうが透けて見えるので、どこか儚げだ。白くて無機質な明日美の部屋を透明に近づけていくことに、皐月は何か間違いを犯したんじゃないかと、心に引っかかるものがあった。
ショッピングセンターを出た明日美と皐月は国道沿いにある牛丼チェーンの吉野家に入った。
明日美はまだこの手の店に入ったことがないと言う。皐月も吉野家には来たことがないが、小学校の近くのすき家には一人で何度も行っていた。小百合寮に及川頼子が弟子として住み込みをする前は一人で外食をすることが多かったからだ。
明日美と皐月は二人掛けのテーブルに着席した。店の角にある、人目のつかない、落ち着く場所だった。
皐月はメニューを見ながら、明日美が元気になるためには何がいいかを考えた。明日美には栄養バランスが良く、できるだけスタミナがつきそうなものを食べてもらいたいと思っていた。
「俺、『チーズ牛丼』がいいな。あと『お新香セット』も。明日美は?」
「どうしよう……。何かおすすめはある?」
「そうだね……この『牛すき鍋膳』ってのはどう? お肉も野菜も食べられるよ。しかも温かいし、1食で半日分の野菜が摂れるんだって」
「皐月のおすすめなら、これにしようかな。鍋なら大蒜は入っていないよね? 私、大蒜ってダメなの」
「大丈夫だよ。入っていないから。明日美も大蒜が嫌いなんだね。俺と同じだ」
皐月はテーブルに備え付けのタブレットから注文した。皐月のチーズ牛丼とお新香セットはすぐにやって来た。
「明日美って、家で肉とか魚って食べてるの?」
「お肉はあまり食べていないかも……。お魚はスーパーの総菜で買うようにしているけど」
「家では料理をしないんだ」
「お座敷のある日に料理をするのは無理かな。お弁当を買ったり、レトルトや冷凍食品で済ませちゃうことが多いよ」
明日美の注文した牛すき鍋膳がやって来た。すき焼きの匂いは牛丼と違って、こっちも美味しそうだ。皐月が一人で外出する時は安い単品を頼んで、お釣りをお小遣いにしているので、牛すき鍋膳のボリュームが眩しく見えた。
「こんなに安くて、こんなにたくさん食べられるなんて、吉野家ってすごいね」
明日美は初めて食べる牛すき鍋膳を気に入ったようだ。皐月の思い描いていた少食のイメージとは違い、明日美の美味しそうにすき焼きを食べている姿は健啖家に見えなくもなかった。
明日美の部屋に戻って来たのはまだ19時前だった。皐月は21時までに家に帰らなければならないので、あと2時間は明日美と一緒にいられる。皐月は明日美の部屋に着くなり、明日美に抱きついた。
「どうしたの?」
「外じゃ、こういうことってできないでしょ?」
皐月が明日美に口づけをすると、いつものように柔らかくできなくて、情熱的になってしまった。
「本当にどうしたの?」
明日美は笑っていた。皐月も自分のしていることに恥ずかしくなり、我に返った。
皐月のしていることは真理と同じだった。皐月が真理の家に行くと、真理はいつも皐月に抱きついてきて、激しくキスをしてくる。皐月は真理と同じことをして、真理の気持ちがわかったような気がした。
「外で会うのって寂しいんだって、初めて知った。近くにいるのに触れることさえできない」
「皐月は甘えん坊さんだね。大きくなっても、かわいいところは全く変わらない」
珍しく明日美から大人のキスをしてきた。立ったままでいるのがもどかしくなり、買ってきたタンブラーでお茶を飲まずに寝室へ移動した。
家に帰ると、母の小百合が一人で皐月を出迎えた。
「おかえり。明日美の具合はどうだった?」
「ちょっと疲れが出ていたみたいだけど、体調は悪くなさそうだったよ。食欲もあって、夕食は吉野家で牛すき鍋を食べた。普段はあまり肉を食べないって言ってたけど、美味しそうにすき焼きを食べてた」
皐月は自分の部屋に戻らずに、居間で母にこの日の報告をした。男女のことは一切話さず、差し支えのないことと、皐月の創作話の虚偽報告だった。
「明日美は俺と一緒に勉強をしていると、根を詰めないですむみたいだ」
「どうして?」
「だって俺の集中力が続かないから、つい話しかけて、勉強の邪魔をしちゃうんだ」
皐月は本当に明日美と一緒に勉強するつもりでいた。しかし、成り行きでそうはならなかった。
「あんた、5年生の時と何も変わっていないのね……」
皐月は5年生の時の通知表に、授業中に友だちとおしゃべりをすることが多く、注意力が散漫だと書かれていた。皐月はその悪癖のせいで、半年間も座席の位置と班のメンバーを固定された。
「でも、この前うちに来た千智も俺と同じタイプなんだって。千智も集中力が続かなくて、勉強する時はあちこちつまみ食いをするように教科を変えるって言ってた。気が散った時は気持ちの切り替え時だから、その方が集中力が上がるんだよ」
「あんたは気持ちの切り替えじゃなくて、おしゃべりをしちゃうんでしょ? 千智ちゃんとは全然違うじゃない」
「いいんだよ。俺は明日美が集中し過ぎて疲れないようにしてくれって、お母さん(京子)に言われてるんだから」
頼子がお風呂から上がってきた。齢は母の小百合と同じでおばさんだが、上気した顔がなかなか色っぽかった。
「皐月。あんたが先にお風呂に入りなさい。私は最後に入るから」
「祐希は?」
「祐希ちゃんはとっくに入ったよ」
皐月はずっと明日美と過ごしてきたけれど、家に帰るとどうしても祐希のことが気になる。
「今日はあんた抜きの三人で夕食だったんだけど、新しい発見をしちゃったのよね~」
「何だよ。その新しい発見って?」
「あんたはやっぱり男なんだなって思ったのよ」
「何言ってんの? 俺は男に決まってんじゃん」
小百合は女子だけの夕食が楽しかったようだ。男の皐月がいないと、女だけの話ができるらしい。その時に皐月が小学生でも男だということを再認識したようだ。
「あんた、これからも日曜は明日美と晩ご飯を食べてきなさいよ。私から明日美に頼んでおいてあげるから」
「それは別にいいけど、明日美に迷惑にならないかな?」
「もちろん、明日美の都合のいい時だけに決まってるよ。ただ、今日みたいにあの子が普段行かないような店に一緒に行ってもらえたらいいなって思って」
小百合は明日美のためのような言い方をしているが、皐月は自分が疎外されているような感じがして、明日美に会えるにしても気分が悪かった。
「でも、飯代はどうしよう……」
皐月は小百合から預かっていた飲食代の二千円を返した。
「やっぱり受け取らなかったか……。わかった。今度明日美に会った時に、私から直接お金を渡しておくよ」
皐月は好都合な展開に喜んだが、親に邪魔者扱いされるのは悲しかった。感情の振れ幅が大きくて、この場ではまだ事態を飲み込めていない。食事代の話をしながら時間を稼ぎ、少し落ち着くと、悪い話ではないことが理解できた。
小百合は皐月と明日美の関係を全く疑っていない。皐月はこの時、初めて自分が小学生で良かったと思った。家でいつまでも子供っぽく振舞っていれば、いちいち親の許可をもらわなくても明日美に会えるようになりそうだ。
「学校帰りにも、ときどき明日美の様子を見てくるよ」
「いいけど、あまり稽古や勉強の邪魔をしちゃダメだからね」
「わかってる。明日美ん家でおやつを食べてくるだけだから。検番に寄ったって婆菓子しかもらえないからね。明日美とはお菓子の好みも似てるんだ」
「あんた、明日美の家は駄菓子屋じゃないんだからね」
「玲子さんのクラブに行けば、チョコを食べさせてくれるんだって」
「バカッ! あそこは子供の行くところじゃないのっ」
あまりしつこいと目論見がバレるかもしれないので、皐月は話を切り上げて自分の部屋に戻ることにした。