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東大寺大仏殿と二月堂裏参道(皐月物語 146)

 東大寺中門ちゅうもん)の前にいた稲荷小学校の児童たちは興奮気味だった。社会の授業なんか好きではない子たちも、大仏のことはなぜか好きなのだ。いよいよこれから授業で習った奈良の大仏に対面することになる。
 中門は入母屋造の楼門で、1716年に再建されたものだ。塗装の剥落した南大門と比べ、丹塗りの柱も白壁も保持されている中門は、南大門のように古色蒼然としてはいないが、清浄さが俗世と隔てる結界の役割を果たしている。
 中門はくぐることができなくなっている。東大寺の中心堂宇、金堂こんどう(大仏殿)に安置されている盧遮那仏るしゃなぶつ像(大仏)を拝むためには廻廊に沿って左端の拝観入口まで行き、チケットを買って中に入らなければならない。
 6年1組から3組までは中門に入らず拝観入口へ向かったが、4組の前島先生は児童たちを連れて中門の下に入った。4組の児童たちは他のクラスよりも早く、中門の柵越しに大仏殿を見ることができた。入口から廻廊の中に入れば間近で見られるが、児童たちにいち早く大仏殿を見せたいという前島先生の心遣いだ。
「左の仏像は持国天じこくてんで、右にある仏像は兜跋毘沙門天とばつびしゃもんてん。どちらも方角の守り神です」
 前島先生は児童たちに持国天を兜跋毘沙門天を見せて、説明を加えた。
「持国天は鬼を踏みつけていますが、兜跋毘沙門天は鬼を踏みつけているだけでなく、大地を司る地天じてんという女神に支えられています。よく見ると女神が手で足を支えていますよ」
 4組の児童たちは先生の言葉を確かめようと兜跋毘沙門天像に集まった。先生の言う通り、いかにも地天が踏みつけられているように見えるが、確かに地天は兜跋毘沙門天を支えていた。
 藤城皐月ふじしろさつきは前島先生が仏像の説明をしたことに驚いた。淀みなく神名を言えるのは定着した知識があるからだ。皐月も修学旅行前に神仏について調べてはきた。神道の神々なら主だったところなら多少は頭に入っているが、仏教の神々はバラモン教由来のものもあり、複雑すぎてカバーできなかった。先生に負けたと思った。
「なあ、秀真ほつま。持国天とかなんちゃら毘沙門天とか知ってた?」
 皐月はオカルト好きの神谷秀真かみやしゅうまに知識の確認をした。
「四天王のことでしょ。須弥山しゆみせんっていう仏教の世界の中心にそびえる山に住んでいて、仏法を守る神様のことだよね。まあ、僕はその程度のことしか知らないけれど」
 さすがに秀真の方が自分よりもよく知っている。皐月は秀真に知識量で負けても悔しいとは思わない。
「前からずっと思ってたんだけど、仏教に神様っておかしいよな。釈迦の教えって、苦しみから抜け出して仏陀になるってことだろ? 神様なんて関係ないじゃん」
皐月こーげつは釈迦の教え以外認めたくないんだね。原理主義みたいに」
「いや……俺はそもそも仏教のことなんて何も知らないし。ただ、気持ち悪いなって拒否反応があって……」
「皐月は神経質なんだよ。仏教でも神道でも、人なんて神様のこと何てよくわからないで手を合わせているんだから。神話を真に受ける方がおかしいんだよ。ファンタジーとして楽しめば?」
 皐月は秀真の発言に目を見張った。秀真のことをもっと狂信的な奴だと思っていたからだ。だが、秀真は皐月の想像以上に醒めていた。秀真の神話に対する熱狂的な態度は信仰ではなく娯楽だったのだ。
「ま~た二人で楽しそうな話をしてるのね」
 皐月たちの傍らに栗林真理くりばやしまり二橋絵梨花にはしえりか吉口千由紀よしぐちちゆきの三人が来ていた。真理は皐月がマニアックな話をしているのを楽しそうで好きだと、小さな頃からよく言っていた。
「二橋さんは持国天や毘沙門天のこと知ってた?」
「あまり詳しくはないけど、知ってるよ。もしかして藤城さん、東大寺の正式名称のことを知らないの?」
「あれっ? 何だっけ?」
 皐月はど忘れしていた。恥ずかしくてへらへら笑っていると、皐月の代わりに秀真が答えた。
 東大寺は正式には金光明四天王護国之寺こんこうみょうしてんのうごこくのてらという。意味は「金光明最勝王経」という仏典に描かれている四天王によって国を護る寺だ。国分寺の正式名称でもある。
「私はここの中門の四天王像もいいけど、戒壇院戒壇堂かいだんいんかいだんどうにある四天王像の方を見てみたいな。教室の漫画に載ってたの、憶えてない?」
「いや……憶えていない。真理は?」
「白黒の写真があったってことは憶えているけど、その程度しか頭に残っていないよ。絵梨花ちゃん、よくそんなことまで憶えているね」
「興味がなかったら記憶に残らないよね。で、その戒壇院の四天王像は国宝なんだって。見てみたいな……。でも、戒壇院は二月堂や法華堂と反対方面にあるから、今日は両方見るのはさすがに無理だろうな……」
 6年4組も大仏殿入堂口へ向かい始めたので、皐月たちは列の最後尾にいて行った。

 廻廊の中に入った児童たちの歩みが遅くなった。立ち止まる者や声を上げる者もいた。みんな大仏殿を見て何かを感じているようだ。
 皐月も瞬時には言葉にできない感動があった。社会の教科書や授業で見た「歴史にドキリ」という番組、学級文庫にあった「少年少女日本の歴史」という漫画で奈良の大仏や大仏殿を何度も見ていた。その実物が目の前にあるのだ。興奮しないわけがない。
「廻廊を歩くだけでタイムスリップしているみないな感覚になるなぁ」
「私はしばらくここでじっとしていて、この天平時代の風景を飽きるまで見ていたい」
 千由紀は珍しく夢見るような表情をしていた。パッと見では普段と変わらない顔でわかりにくいが、皐月には目と口に微かな変化を感じていた。
 稲荷小学校の6年生たちは大仏殿正面の参道にいた。建物に近づくにつれて顔が上向きになり、その巨大さがリアルに迫って来た。都会に行けば大きなビルなんていくらでも建っているが、世界最大の木造建築は別の凄さがある。
 大仏殿正面にある金銅八角燈籠こんどうはっかくとうろうは、これだけが東大寺創建当初からここにある物で、国宝に指定されている。この燈籠には楽器を演奏する音声菩薩おんじょうぼさつが彫られていて、この燈籠は大仏開眼式に合わせて制作されたという。開眼式の演奏会はとても華やかなコンサートだったと伝わっている。
「ねえ、皐月。大仏殿って江戸時代に再建されたんだよね。これで創建当時の6割の大きさって、凄いね」
 真理が無邪気な顔をして大仏殿の大きさに驚愕していた。東大寺では班行動ではなく学級行動のはずなのに、なぜか皐月の班の6人はかたまって歩いていた。
「昔は東寺の五重塔よりも高い七重塔が東西にあったんだって。重機もないのに、よくそんなでかい建物ができたよな……」
「ほんと、感動しちゃうよ」
 真理の目が潤んでいた。真理はすれたところがなく、感動するとすぐに表情に現れる。皐月はそんな真理のことが大好きだ。

 児童たちが続々と大仏殿の中に入って行った。多くの児童が「おお~っ」と感嘆の声を上げていた。皐月も胸を躍らせて開かれた巨大な扉の間から御堂の中に入ると、他の児童のように思わず「うわっ」と声が出た。
 堂内は朱塗りの太い柱で組まれていて、須弥壇しゅみだんが太陽の光に照らされていた。その奥に巨大な盧舎那仏像るしゃなぶつぞうという、いわゆる奈良の大仏が鎮座している。顔の辺りが少し陰になって暗くなっている大仏だが、背後の光背が弱い光を拡散して輝いていた。
 須弥壇の四隅にある柱には銅板の大きな御幣ごへいが掛けられていた。これは紙垂しでと一体化されていて、皐月には子供の工作のようにちゃちに見えた。手抜かれた御幣に皐月は興醒めしてしまった。
「皐月、この大仏って何ていう仏様?」
 大仏のおっさんみたいな顔を見た直後に見る真理は美しかった。
毘盧舎那仏びるしゃなぶつ。宇宙の真理を全ての人に照らし、悟りに導く仏なんだって」
「ふ~ん。概念みたいな仏様なんだね」
「概念か……。真理は面白いこと言うね。確かに最上位の信仰対象を作ったって感じがするよな……」
 皐月はみんなから離れて、一人で入口の柱に背中を預けた。盧舎那仏像を見上げながら、少し考え事をした。

 東大寺の前身は金鐘寺こんしゅじという聖武天皇の皇子、基王もとおうを弔うために建てられた小さな寺だった。この時、光明皇后が救いを求めたのは観音菩薩の変化身へんげしん十一面観音じゅういちめんかんのん菩薩だった。
 その後、聖武天皇は741年に国分寺・国分尼寺建立の詔を発し、金鐘寺を大和国の国分寺こくぶんじ兼、総国分寺と定め、寺名を金光明寺と改めた。光明皇后が幼少期から住み慣れた邸宅を法華滅罪之寺ほっけめつざいのてらとして、総国分尼寺とした。
 国分寺と国分尼寺は国家鎮護のために聖武天皇が日本の各国に建立を命じた寺院だ。国分寺では仏教の教えを広めるために金光明経と法華経が写経されていた。
 金光明経は四天王などの古代インドの神々が国を守護すると説き、法華経では観音菩薩を信じてその名前を唱えると必ず人々を救うと説かれている。観音菩薩は法華経において創作された、人工的な信仰対象だ。
 聖武天皇が盧舎那仏像るしゃなぶつぞうを造像しようとしたきっかけは後の東大寺初代別当となる良辨ろうべんが金鐘寺に審祥しんじょうという華厳宗の僧を招き、華厳経を経典とする華厳宗の講義を行ったことだ。その講義に感化され、聖武天皇は743年に大仏造立の詔を発した。
 華厳宗では毘盧舎那仏を釈迦を超えた宇宙仏(法身仏)とし、宇宙の真理を全ての人に照らし、悟りに導く仏としている。聖武天皇は国家鎮護を祈願するためには、人々の救済のための現世利益を祈願する四天王や観音菩薩ではなく、さらにその上位の存在である毘盧舎那仏を信仰しなければと考えたのだろう。聖武天皇は国家鎮護という大望のため、華厳宗に宗旨替えをした。

 皐月は聖武天皇と光明皇后の思いが現代まで残り、こういった形で人が集うことに感動を覚えた。だが、その信仰は皐月の納得できるものではなかった。
 インドの神? ファンタジーの神? 人工的な最上位の概念? もともと信仰心のない皐月だが、信仰とは何なのかと考えていると不愉快な気分になってくる。
「また変なこと考えてるの?」
 いつの間にか真理が隣にいた。今日は絵梨花も千由紀もいて、秀真までいる。
「なんだよ、変なことって。さっきは楽しそうなって言ってたのに」
「だって機嫌悪そうな顔をしていたから」
「そう? そんなことないんだけどな……。ただ、東大寺の成り立ちと聖武天皇の信仰のことを考えていたら、いろいろ考えることがあって……」
皐月こーげつは神話を嫌っているところがあるからな」
 秀真と皐月の神仏に対する姿勢は真反対だ。秀真はとりあえず信じてみて、皐月はまず疑ってみる。
「あまりこういうことは言いたくないんだけど、東大寺盧舎那仏像は美しくはないよね。大きくて凄いけど」
 絵梨花は仏像を見る時に宗教的な関心よりも耽美的な喜びを求めているようだ。皐月は絵梨花の盧舎那仏像に対する評価には全面的に賛成だ。
「聖武天皇に関わる人たちって、人間関係が結構ドロドロなんだよね。私は信仰には興味がないけれど、歴史的背景には興味がある」
 皐月には千由紀の言う歴史的背景がわからなかった。修学旅行前に東大寺のことを勉強したが、付け焼刃の知識を頭に入れるだけで精いっぱいだった。
「みんな先に行っちゃったから、私たちも追いかけようよ」

 真理に促され、皐月たちは大仏殿の中を左回りに進んだ。途中、盧舎那仏像の左隣に虚空蔵菩薩こくうぼさつ像があったが、絵梨花は思っていたよりもそれらに興味を示さなかった。
 その先に四天王の廣目天こうもくてん像があり、さすがに絵梨花も足を止めた。その隣に東大寺の模型が展示されていて、岩原比呂志いわはらひろし栗田大翔くりたひろと、他にも男子たちが模型を食い入るように見ていた。男子はみんな模型に目がない。
 創建当時の東大寺には東西に100メートル級の七重塔が立っていた。その横には新旧の大仏殿の模型が展示されていた。現在の大仏殿と比較してみると、昔の大仏殿はかなり大きい。廻廊から大仏殿を見て想像するよりも、模型を並べて比較した方がわかりやすい。
「さっき見た大仏殿は天平時代のとは全然違うんだね。七重塔はいいね。復元すればいいのに」
 夢中になって模型を見ていた皐月に千由紀が話しかけてきた。
「東大寺の伽藍の大半は1180年の南都焼き討ちにより焼失しちゃったんだよね。人間ってバカだな」
 平清盛のせいで東大寺が灰塵と化したと思うと、悔しくて腹が立ってくる。結局この後で平家も滅びたのだから、まさに諸行無常だ。
「藤城君は七重塔を再建してほしいって思う? それとも新しい物にはあまり価値を見いだせない?」
「俺は……再建してもらいたいかな。新しくてもいいけど、スケールダウンしないで原寸大で復元してほしい。平安神宮の社殿みたいに、平安京大内裏を縮小して復元するのは勘弁してもらいたい……」
 皐月は千由紀と話をしていると不思議な気持ちになる。現実の世界だけでなく、過去の時代や小説の中のような幽玄の世界でも繋がっているような感覚になる。

 さらに進むと、大仏の左背後に多聞天たもんてん像があり、その前の朱塗りの柵で囲われた柱に稲荷小学校の男子の人だかりができていた。みんなが騒いでいたのはいわゆる「柱の穴くぐり」だ。
 柱に開いた四角い穴は大仏の鼻の穴と同じ大きさだと言われている。この穴をくぐると無病息災、祈願成就、頭がよくなる、などのご利益があるらしい。皐月たちはここで遅れを取り戻すことができた。
秀真ほつま、俺たちもやるか?」
「やろうやろう」
 皐月たちが列に並ぶと、皐月たちの班の女子では絵梨花だけが柱の穴くぐりをするつもりでいた。
「あれ? 女子はあまりやらないみたいだけど、二橋さんはやるんだ」
「うん。だって私、小さいから簡単にくぐれると思う」
 絵梨花は楽しそうに笑っていた。スカートを穿いている真理と千由紀はやる気がなさそうだが、絵梨花だってスカートを穿いている。
「藤城さんの前にくぐらせてね」
 絵梨花が皐月の順番を抜かして穴をくぐった。皐月はお尻を見ないよう、絵梨花から視線を外した。絵梨花は何のストレスもなく穴を抜けた。
 次に皐月が穴に入ると、微かに絵梨花の匂いが残っていた。真理や祐希や明日美とも違う、上品な香りがした。皐月の理性が飛びそうになった。
「鼻くそ~」
 皐月は穴を抜ける前に、顔だけ出して笑いを取ろうとした。おちゃらけることで平常心に戻したかったからだ。
「あんた、バカでしょ? それに、つまんない。そんなくだらないこと、今日だけで100人は言ってるよ」
「なんだぁ、お前……俺に厳し過ぎじゃね?」
 真理にボロカスに言われ、皐月は惨めな思いで柱の穴からのそのそと這って出た。柱を出たところの床はつるつるに磨かれたようになっていた。

 盧舎那仏像の左隣には如意輪観音にょいりんかんのん像がある。この辺りは堂内に土産物や御朱印の受付があり、参拝客が大勢とどまっていた。北川先生と粕谷先生が稲荷小学校の児童たちを大仏殿の前に誘導していた。
「この後、勉強班は前島先生の前に集まってください。観光班は私のところにね」
 粕谷先生が6年4組の児童たちに声をかけていた。3組までの観光班はすでに大仏殿を出ていた。これで大仏とはお別れだ。皐月は最後に大仏を目に焼き付けて、前島先生たちと大仏殿の外に出た。
 大仏殿の前の広い参道には観光班と勉強班が分かれて集まっていた。勉強班の人数は極端に少なかった。皐月は野上実果子のがみみかこ江嶋華鈴えじかまりんが勉強班の集まっているところで話をしているのを見た。
「江嶋と野上じゃん。お前ら、勉強班なんだ」
「藤城はどっち?」
「俺はもちろん、勉強班」
 実果子と華鈴の顔が一度に明るくなった。二人が喜んだのは自分と一緒に東大寺を回れるからだ、と確信していた。皐月はもう、このくらい図々しく考えられるようになっていた。
 他のクラスの男子は数人しかいなかった。しかも、皐月とは今まであまり関わりのなかった者ばかりだった。女子の数も少なかった。
「勉強班って人気ないんだな」
「そりゃそうでしょ。鹿とも遊べないし、お土産だって買えないし」
「江嶋は鹿とかお土産の方が良かったのか?」
「私は東大寺をもっといろいろ見てみたいから勉強班にしたの」
 5年3組で同じクラスだった時、皐月ほどではなかったが、華鈴も勉強はよくできた。6年生になって社会の授業で歴史の勉強をして好きになったのだろう。
「あれっ? 水野さん?」
 水野真帆みずのまほが遅れて勉強班に加わった。どうやら班決めはまだ確定していないらしい。
「委員長も勉強班なんだ。意外だな……」
「なんだよ、意外って。俺、こう見えても寺とか歴史とか好きなんだぜ」
 真帆は皐月のことを良く知らないし、皐月も真帆のことを良く知らない。皐月と真帆は今まで修学旅行実行委員会くらいしか接触がなかった。だが、真帆は皐月が入屋千智いりやちさとと二人でいる時に会っている。皐月は真帆にチャラいイメージを持たれているのかもしれないと思った。
「江嶋もいるし、これじゃ委員会で集まっているみたいだな」
「黄木君もいるよ」
 華鈴と同じ6年1組の男子の実行委員の黄木昭弘おおぎあきひろは勉強班の最前列にいた。
「お~い! 黄木君」
 皐月が昭弘に手を振ると、昭弘は笑いながらやって来た。
「黄木君も勉強班なんだ。歴史とかお寺とか好きなの?」
「そうでもなかったんだけど、栞の表紙で八坂の塔の絵を描いたじゃん。で、実物を見に行ったんだ。それで感動しちゃってさ……。ああいう昔の建築物をもっと見てみたくなったんだ」
「やっぱ実物は違うよね。これから行く二月堂なんだけどさ、その途中で裏参道ってのがあってね。そこ、うちの前島先生が奈良で一番好きなところなんだって」
「へぇ……前島先生のお気に入りなんだ。それは期待が持てるな」
「八坂の塔の辺りが京都を象徴する風景なら、これから行く二月堂裏参道は奈良のイメージなんだって」
 前島先生から集合の号令がかかったので、学習班の児童が集まり始めた。意外なことに、月花博紀げっかひろき村中茂之むらなかしげゆきが勉強班にやって来た。
「博紀って歴史に興味あったっけ?」
「なんだ。俺が歴史に興味持ったらおかしいのか?」
「いや……意外だなって思って」
 皐月は真帆に言われたことを博紀に言ってみた。博紀も皐月と同じく、憮然とした顔をしていたのがおかしかった。
 博紀が勉強班に来たのは絵梨花目当てに違いない。博紀が勉強班に来たらファンクラブの女子たちがなだれ込んでくるのかな、と思ったらそうでもなかった。
「俺が学習班に行こうかなってつぶやいたら、月花が『俺も行く』って言い出したんだ。俺は藤城に『今日は昨日よりもっと昔に遡るぞ』って言われたから、もっと寺を見たくなったんだけどね……」
 茂之は照れているのか、恥ずかしそうに笑っていた。茂之は今朝、皐月に歴史を好きになったと話した。だからスポーツ少年の茂之が勉強班に来ても意外だとは思わなかった。皐月は茂之が自分の言ったことを気にしてくれていたことが嬉しかった。
 観光班が先に移動を始めた。北川先生に率いられ、大勢の児童が整列して中門にも買って歩き始めた。列の最後尾にいた太田先生が3人の女子児童と話をしていて、彼女らを残して行った。残った3人は4組の松井晴香まついはるか筒井美耶つついみや、3組の中澤花桜里なかざわかおりだ。
「筒井も勉強班にしたんだ」
「うん」
 美耶は家族が修験道を信仰している。美耶は家族の信仰生活を嫌っていて、宗教に対して嫌悪感を抱いている。だから、皐月には美耶がこの場に残るのが不思議でならなかった。さすがの皐月も美耶が自分を追って勉強班に来たとまでは思わなかった。

 勉強班も移動を始めた。前島先生に率いられ、20人にも満たないグループで二月堂へ向かい始めた。
「奈良仏教って修験道とは全然違うよな。どっちかって言えば密教に近い。どうしてもっとお寺を見ようと思ったの?」
 美耶の事情を知らない周囲の者たちに配慮して、皐月は最低限の言い方しかできなかった。
「奈良仏教と修験道は遠いから、逆にお寺のことを楽しめるかなって思ったの。それに逃げてばかりもいられないから……」
 美耶の言い方は多くをぼかしていてわかりにくかったが、家族の宗教との関わりでいろいろと考えているようだ。美耶の「逃げてばかりもいられない」は興味深いと思ったが、この場で込み入った話を聞くわけにもいかない。
「中澤さんも勉強班なんだね。本当、これじゃあまるで実行委員会みたいだ」
「私は純粋に歴史が好きなだけだからね。それより藤城君がこっちにいる方が不思議だよ。歴史の勉強よりも、鹿とたわむれて遊んでいる方が似合うのに」
「確かに勉強は俺のイメージとは違うかもな。ハハハ……」
 花桜里といい、真帆といい、自分のことをよく知らない女子からはあまりいい印象を持たれていないんだな、と皐月は笑いながらも少し寂しくなった。
「花桜里ちゃん。藤城ってバカだけど、めっちゃ頭がいいんだよ」
「そうなの?」
「意外だよね。教室じゃエロ岡とバカ話ばかりしてるのに、勉強だけはできるんだよね」
 晴香はボロクソ言いながらも、皐月のことをフォローしていた。ただ、皐月は悪友の花岡聡はなおかさとしが女子からエロ岡と呼ばれていることを、この時初めて知った。あまりにもひどい言われようで笑えたが、こんなことは聡には絶対に聞かせられない。
「松井がほめてくれるなんて珍しいな。いつもはバカしか言わないくせに」
「あんたはいつも私のことを褒めてくれるから、お返ししてあげただけ」
 デレる晴香は今日も可愛かった。表情だけでなく、着こなしも可愛かった。
 晴香はトワルドジュイ柄のブラウスに白のボリュームフレアミニスカートを合わせ、大人ガーリーなコーデで決めていた。ハイウエストで足が細く見える。だが、今日は人の目が多過ぎて素直に褒めることもできない。
 皐月たちは中門を左に折れ、廻廊を歩いて東の端の出口向かった。廻廊には土産物屋が並んでいた。大仏殿の中にも店が出ていて、外から見る印象とはまるで違っていた。廻廊も金堂も外から見ると聖なる雰囲気を醸し出しているが、内から見ると俗世間そのものだ。
「なあ、秀真ほつま。東大寺って表裏が激しくないか? 外から見えないところに店がいっぱいあるな」
 皐月は寺よりも神社を好きな神谷秀真に同意を求めた。
「観光地だから商売に熱心だよね。でも駐車場から本殿まで距離が短すぎるから、境内に店を出すしかないんじゃないかな。皐月はこういうのって好きじゃないかもしれないけど、僕は不思議と下品な感じを受けないんだよね。上手くやってるなって思う」
 秀真に言われてなるほどな、と思った。公共交通機関を利用して東大寺を訪れる人は門前町を通って来るけれど、修学旅行のように隣接する駐車場から境内に入る人にとっては買い物をする場所が少なすぎる。だから稲荷小学校の児童たちも班分けで観光班に集中した。皐月は秀真の目の付け所に感心した。
 皐月は出口から出る前に東廻廊をよく見ておこうと思った。そこには売店もなく、丹塗りの柱と白壁と瓦の屋根、そして石の敷かれた白と灰色の廊下が続いていて美しかった。左手には樹木や芝の緑が、上には青空が広がっていて、皐月はここにこそ天平時代の息吹を感じた。気が付くと吉口千由紀が皐月の隣で同じ景色に見入っていた。

 前島先生の率いる勉強班は廻廊の外に出た。目の前には鏡池があり、松の木の周りに鹿がいた。皐月は廻廊の前の松並木や、鏡池のほとりの紅葉を見ながら、こんな所で一日中ぼ~っとしているのも悪くないと思った。
 勉強班はこれから二月堂と法華堂に向かう。東大寺の守り神である手向山たむけやま八幡宮の方からはまわらず、東廻廊に沿った後、裏参道を歩くルートを取る。
 東廻廊沿いの参道は緩やかな弧を描くような上り坂になっていた。勾配に合わせて廻廊がしなるように浮く感じが美しい。連子窓れんじまどの隙間からさっきまでいた大仏殿が見えた。次に東大寺に来られるのはいつになるのだろうか……皐月は少しメランコリックになっていた。
 廻廊の門の前を右に曲がると広くて緩やかな石段がある。それが猫段だ。猫段は段差が低く、一段が広い。階段に敷かれている石は御影石ではなく、適当に集めたような大小さまざまな形をしたものだ。統一感のない模様が味わい深い。猫段の両側に植えられている樹々は様々で、紅葉の季節になっても全てが赤く染まるわけではない。だが、それが美しいんだろうな、と皐月は想像した。
 猫段を鹿が降りてきた。これではまるで鹿段だ、と一人笑っていると博紀が話しかけてきた。
「お前、何ニヤニヤしてるんだよ?」
「鹿が普通に階段を下りてくるんだぜ。こんな世界ってあるか? 面白いじゃん」
「まあ、面白いな」
「この石段のことを猫段って言って、ここで転ぶと猫になるんだって」
 博紀と茂之のすぐ後ろを歩いていた美耶が皐月の話に興味を示した。
「私も転んだら、猫になれるかな?」
「転んだくらいで猫になるわけがないだろ?」
 博紀が美耶につまらない突っ込みを入れてきたので、皐月は美耶をフォローした。
「まあ、そうなんだけどさ……。人が転んで猫になるんじゃなくて、鹿が転んだら猫になるっていう話なんじゃないかな。今はいないけど、この辺りに猫が住み着いていた時があったんだろうね」
 皐月は博紀が美耶に話しかけても、ファンクラブの会長の晴香が博紀に全然話しかけていないのが気になっていた。晴香が博紀に気を使っているのか、それとも晴香と博紀の間に何かがあったのか……。
 皐月は鯉の泳ぐ長池沿いを歩きながら、博紀と茂之に東大寺の成り立ちについて知識の確認をしてみた。すると、二人とも学校の教科書の知識も怪しいレベルだった。もっとも、教科書の内容を隅々まで覚えているような小学生は滅多にいない。
 突当たりに案内板があり、左に曲がると正倉院に、右に曲がると二月堂に至ると書いてあった。先頭を歩く前島先生と皐月の距離が少しずつ離れてきた。
 皐月は博紀たちに東大寺の前身の金鐘寺こんしゅじから国分寺になり、東大寺になった経緯をかいつまんで説明した。この時、博紀と茂之だけでなく、美耶と晴香、そして由香里も話を聞いていた。
「藤城、お前すげえな」
 茂之が尊敬の眼差しで皐月を見ていた。茂之がこんな目をするのはドッジボールでファインプレーをした時だけだ。
「教科書程度の知識だと、面白い背景を全部カットしちゃうからつまらなくなるよね。俺が話した内容だって、そんなに大したことないし。ネットで勉強しながら、気になったことを芋蔓式に調べたり、本でまとめられた知識を読んだりすると、面白い発見がたくさんあるよ」

 皐月が話し終わる頃には溝の脇にある並木道を抜け、築地塀ついじべいの美しい路地に入ろうとしていた。ここは分かれ道になっていて、溝の手前にバラエティーに富んだ石仏が並んでいた。花や水や菓子が御供えされていて、石仏には前掛けがされていた。
 この分かれを右へ行き、築地塀に沿って歩くと、双幹の赤芽柳あかめやなぎがある。その樹の下に大湯屋おおゆやという、僧侶たちが身を清めていた浴場がある。ここも見所の一つではあるが、前島先生は立ち寄ろうとはしなかった。
 皐月たちは分かれ道を左の道なりに進んだ。大きく右へ曲がっている水路をで鹿の親子が水を飲んでいた。公園の中で鹿を見るよりも、こういう路地で見る鹿の方が趣がある。皐月は鹿目当てで観光班を選んでは出会えない光景だと思い、嬉しくなった。
 すでに裏参道に差し掛かっていた。右手には竹の柵があり、供田くうでんという神仏に供える米を作る田がある。稲穂の上には雀よけの網が張られていた。網の上に留まっている雀たちが皐月には物悲しかった。
 皐月たちが分かれ道で見た築地塀は供田を囲ったものだった。供田に隣接する寳珠院ほうしゅいんの塀からは木蓮もくれんが溢れ出ていた。花が咲く季節に、もう一度この道を歩いてみたいと思った。
 皐月は博紀たちのグループを離れ、左手の築地塀沿いを走って、一番前を一人で歩いている前島先生の隣へ行った。
「先生。ここが二月堂裏参道なんですね」
「そう……あら、ヤダ。みんなに一言添えておけばよかったかしら」
「何も言わなくてもいいんじゃないですか? 黙って歩いていた方が感じることも多いと思うから」
「じゃあ、藤城さんも私になんか構わないで、静かにしたら?」
「あはっ、そうですね。黙っています。でも、先生の隣にいてもいいですか?」
「どうぞ」
 皐月は前島先生の隣にいることで女子と話すことから逃げたかった。勉強班には皐月が気にしている女子と、皐月を気にしている女子が複数いる。一対一の対応は得意だが、一対多になるとどうしたらいいのかわからなくなる。
 それだけではない。皐月は誰にも干渉されず、東大寺の空気を感じたかった。修学旅行だから仕方がないのは分かっているが、ここで見たこと感じたことを語り合うのは、全ての見学が終わってからの方がありがたい。
 緩やかな坂道は少しきつかった。三叉路を右へ進んで溝を超えると、正面に二月堂が見えた。勾配が大きくなったこの路地の両側には左手に石垣の上に瓦屋根のある白壁があり、右手には練った泥土と瓦を交互に積み重ねて築かれた練塀ねりべいがある。
 皐月はこここそが東大寺で最も趣があるところだと胸が震えた。前島先生もこの景色が見たくて自分たちを連れて来たんだと思い、そっと横顔を見てみた。すると、教室では絶対に見せないようなうっとりとした顔になっていた。この時、皐月は初めて前島先生に生々しい女を感じた。
 皐月は昂る気持ちを紛らわせるために黄木昭弘のいる位置まで下がった。
「黄木君。ここはいいね」
 昭弘は少し間を置いて答えた。
「うん。二寧坂や三寧坂も良かったけれど、二月堂裏参道の方が僕は好きだな。いつかここで水彩画を描いてみたい」
「水彩画か……それっていいかも」
 皐月と昭弘は少しだけ言葉を交わしたが、この路地を歩いている間、誰からも強制されていないのに、班の誰もが沈黙を守っていた。皐月は前島先生の色気に惑ったことを恥じ、それに昭弘を巻き込んだことを悔いた。


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音彌
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