記憶と幻想のクロスオーバー(皐月物語 57)
藤城皐月は夕食でたくさん作ったキャベコロを紙袋に2つ入れ、及川頼子と祐希の母娘に見送られて家を出た。
小百合寮の行燈が暗い路地に浮かんでいる。皐月は家の前のような街灯のない、月明かりに照らされた暗い夜道が好きだ。暗闇の中でこそ得られる解放感もある。
だがそんな幽冥さも、少し歩けば商店街の照明でかき消されてしまう。それでも皐月は閉店後の寂しげなアーケード商店街も好きなので、解放感がなくなっても高揚感は徐々に高まってきた。
太陽の光の届かない世界にいると、家や学校にいる時とは別の自分になるような感覚になる。それは取り繕ってきたいい子の鎧が霧となって消えるような感じで、心が軽くなり、とても気持ちのいいものだ。
皐月は栗林真理の家に着くまでの数分間で頼子や祐希に見せていた仮の姿を閉じ、真理には本当の自分を見せることができそうだ。
「ご機嫌さんだね。どうしたの?」
「真理に会えたからに決まってんじゃん」
真理の腕が皐月の肩にかかり、二人は唇を重ねた。顔を合わせるなりキスをしたことで、皐月は急に照れくさくなった。
「外は涼しくて気持ちいいぞ。真理も出てみる?」
「夜遊びか……したいのはやまやまだけど、私は今、勉強してたんだよ。それに今日はお母さん、早く帰ってくるし」
「お座敷、近場だもんな」
玄関の掛け時計はもう8時を回っていた。宴席が8時までだとすると、あまりゆっくりとしていられない。
「コロッケ持ってきたんだけど、まだ食べられる?」
「もうお腹いっぱいだよ。でも家に置いておくわけにはいかないから食べるけどさ……皐月も一つ食べるの手伝ってよよね」
「俺も腹いっぱいなんだけどな。さっきこれ10個食べたし」
「10個! バカじゃないの? 食べ過ぎだよ」
「美味しかったんだよ。だから真理にも食べてもらいたくなって持ってきたじゃんか」
「ふ~ん。じゃあ食べなきゃだね」
会いたかった気持ちを見透かされていると思った。それならまわりくどいことは抜きにして、玄関を上がるが早いか真理を胸元に引きよせた。学校でも真理とキスをしたいと思う時があったが、ずっと我慢していた。
皐月から情熱的なキスをした。舞い上がっていたせいでつんのめってしまい、バランスを崩してよろけてしまった。
「皐月、慌て過ぎだよ……」
真理が妖しい笑みを浮かべながら首に手を回してきた。こんなに思いが募っていたのは自分だけかと思っていたが、真理も自分と同じようだ。もう一度、皐月から顔を寄せて、優しくキスをした。
「全部食べないで真理の分を残しておいたんだぞ。偉いだろ」
「全部食べちゃえばよかったのに」
「そんなことしたら家を出る口実がなくなくなっちゃうじゃん」
「理由がないと出られないの?」
「もう一人じゃないからな……」
今度は真理からキスをしてきた。真理に舌を入れられると、キャベコロのことなんかどうでもよくなってきた。
家に帰ると頼子に風呂に入るように言われた。これは皐月にとって好都合だ。
今日は前回よりも真理の残り香が髪や服に残っていたので、鼻のいい祐希にバレる前にさっさと湯船につかってしまいたかった。いつもなら面倒でやらないが、今日ばかりは洗濯物をネットに入れて証拠隠滅をはかることにした。
お湯に口までつかりながら、二人で抱き合っていた時に真理の口から漏れた言葉を思い返した。
「もうこの後、勉強する気になれないな……」
その時はただ愛おしいとしか思わなかったが、今思うと思いっきり真理の勉強の邪魔をしていたことになる。これでは夕食のおかずのおすそ分けを届けに行ったつもりが、真理の足を引っ張りに行ったようなものだ。真理は幸せそうだったが、さすがに受験生を誘惑するのは良くない。
真理は「お母さんがお座敷に出る日はいつでも家に来て」と言っていたが、行けば今日のように快楽に溺れるのが目に見えている。
皐月は自分が情欲を抑えられないことをよくわかっている。そして真理もきっと皐月と同じだろう。甘美な世界を知ってしまった二人はもう後戻りできない体になってしまった。
二人でキャベコロを食べていた時に「学校でキスしたいと思った?」と真理に聞いてみた。真理は恥ずかしそうに「思った」と答えた。それどころか「こっそりどこかで隠れてキスしようか」とまで言われた。
こういう性欲は男だけしか感じないのかと思っていたので、真理も自分と同じように欲情していたとは思ってもみなかった。真理も自分と同類だと思うと嬉しいような、哀しいような落ち着かない感情になった。
風呂を上がり部屋に戻ると、ベッドの上に古本屋で買った『歯車』が無造作に投げ出されていた。皐月は今すぐ読みたい衝動に駆られたが、その前にネットで『羅生門』を読まなければならない。『歯車』は明日の学校での読書の時間のお楽しみに取っておこうと思い、PCを立ち上げた。
『青空文庫』にアクセスして『羅生門』を開くと本文が出てきた。皐月がこの時開いたのは横書きの文章だった。漢字にはルビが振られていたので読むだけなら困らずに済みそうだ。PCで読むので、わからないことはすぐにネットで調べられる。
『羅生門』は情景描写から始まり状況描写に移るが、その無駄のないシャープな文章に皐月はシビれた。荒廃した平安京の様子が頭の中にありありと見えてきたのだ。それは決して映像のようなリアルさではないが、リアリティーがあった。芥川龍之介の小説の凄さは普段読書をしていない皐月にもすぐにわかった。
「皐月、今いい? 勉強してた?」
襖が小さく開き、及川祐希が顔を出していた。平安時代から一気に現代へ引き戻されてしまった。
「ネットで小説読んでた。どうしたの?」
「真理ちゃんの家から帰ってから、皐月とまだ何も話していないじゃない。どうだったのかなって思って……」
不安げな顔をした祐希が妙にかわいかった。女子高生なのに小学生の同級生の女子と何も変わらなく見えた。隣の席だった筒井美耶の時々見せる表情に良く似ていた。
「帰ったらすぐに風呂に入りなさいって頼子さんに言われたんだ。真理、キャベコロ美味しかったって言ってたよ。ありがとうって」
「そう。よかった……」
「なんで一個しかないのって言われた」
「あれ? 二つ持っていったんじゃなかったっけ?」
「俺が一つ食べた」
「皐月も食べたの? よく食べるね?」
「これで11個になったから、俺の勝ちだね。祐希が10個食べたって言ったら笑ってたよ」
「やめてよ、そういうこと言うの。恥ずかしいじゃない……」
祐希が部屋に戻ったので、皐月は小説の続きを読もうと思った。だが、脳内がまだ現代から平安時代に切り替わっていなかったので、もう一度冒頭から読み直すことにした。
自分もこんな風に栗林真理の勉強の邪魔をしていたんだなと思った。だが、さっきの真理との逢瀬のことを思い出すと、こんなものじゃないはずだと気がついた。
時間がかなり経過した今でさえ、あの時のことを思い出すと体が熱くなる。口づけをし合った直後の身も心もとろけるような状態からは、いくら真理でも簡単に勉強モードに切り替えられるはずがない。
真理の「勉強する気になれない」という言葉は重いものだった。本来なら自分こそが欲情を抑えなければならないはずだ。あの時は自分も真理も狂っていた。こうして人は堕落していくんだな、と皐月は小学生にして悟ったような気になった。
皐月はデスクから離れ、ベッドに横になった。もう小説を読む気分ではなくなっていたので、部屋の電気を消して頭まで布団にもぐった。
反省する気持ちはすぐに消え、今日の事や初めての時のことがリフレインし始めた。皐月はただじっとして、回想に耽った。
皐月の脳内に異変が起こった。
真理のことで頭がいっぱいになっていたはずなのに、祐希と話をしたことが引き金となり、記憶がクロスオーバーを起こした。真理とキスをしたのに、脳内では真理と祐希が入れ換わり、祐希とキスをしていることになっている。
この記憶のバグのせいで異常な興奮に襲われた。ついさっきまで真理とキスをしていただけに、この幻想は生々しい。皐月は祐希と話をしていた時、祐希の目を見るよりも、口ばかり見ていたことを思い出した。
今まで想像もしなかった世界を見てしまったからには、その妄想に沈んでいくしかない。後ろめたさを感じながらも、皐月は目を閉じた。祐希と体を求めあっている場面を妄想していていると、いつか祐希ともそういうことをしてみたいと、不埒なことを考えるようになっていた。
勉強机に置いてあるスマホの着信音が鳴った。ビクッとして布団から顔を出すと、部屋はPCの画面でそこそこ明るかった。皐月は部屋の電気を付けずにスマホを手に取った。
入屋千智からのメッセージだった。そこには塾で二橋絵梨花に声をかけられたことが書かれていた。
皐月は千智と絵梨花が同じ塾に通っていることを知らなかった。千智は絵梨花が同じ小学校であることと、皐月と同じクラスであることを知り、驚いたようだ。
千智からのメッセージで皐月は正気に戻った。もう一度部屋の電気を付け、開いたままのPCに向かって『羅生門』の続きを読むことにした。明日は絵梨花に『羅生門』の感想を話さなければならない。もう一度目を閉じたところで、皐月には千智や絵梨花との甘美な幻想を創り出すことはできそうにない。