対抗心が好奇心の邪魔をする (皐月物語 46)
藤城皐月はいつしか算数に没頭していた。窓の外は暗くなり、問題集の文字が見えにくくなくなった。天井のシーリングライトをつけると虫が入ってくるので、明かりを点けなくても動けるうちに2階の窓を全て閉めた。9月はまだ暑い。湿度が高いのでエアコンをつけなければやってられない。
今晩は母の小百合と住込みの及川頼子にお座敷が入っていて、家にはもういない。頼子の娘の祐希が高校から帰ってくるまでの間、皐月は算数の勉強を続けることにした。
『応用自在 算数』の「重要点の基礎チェック」で基礎知識の確認をし、「例題をマスター」で解法を覚えた。例題ごとに書かれている「攻略法」が重要で、解き方を闇雲に覚えるよりも考え方を身につけた方が応用が効く。ページ右側にある「アドバイス」や「図解」は攻略法をさらに具体化しているのでわかりやすい。教科書と違って、参考書は自習のしやすいところが良い。
早く先に進みたかったので、じっくりと問題に取り組むつもりはなかった。例題の解き直しはせず、単元ごとにある「入試問題にチャレンジ」にも手をつけなかった。
皐月はこのやり方を本来的な勉強法とは思っていなかった。中学受験のために勉強しているわけではないので、できるだけ早く全範囲を終わらせたいから仕方がないと割り切っている。今は先に進みたいという気持ちの方が、難問に挑戦するという探究心よりも強い。目の前の喜びよりも未来への好奇心が皐月の集中力を高めている。
「皐月、ただいま」
「うわっ、びっくりした! なんで祐希がここにいんの?」
「さっきから何度も声をかけたよ。勉強の邪魔しちゃった?」
「別にそれはいいけど……」
皐月はシャーペンをノートの上に置き、深呼吸をした。スクバを肩にかけた制服姿の祐希が少し申し訳なさそうな顔をして立っている。
「あっ、そういえばおかえりだったね」
「ふふっ。すごく集中してたんだね。何の勉強をしてたの?」
「算数。祐希は高3だから算数なんて余裕だよね。わかんないとこ教えてもらおうかな」
今のところ皐月にわからないところはない。
「さすがに算数なら私だって……嘘! これって等差数列じゃん。今時の小学生ってこんなこと勉強してるの?」
「普通の小学校じゃこんなのやらないよ。祐希って等差数列知ってるんだ」
「へへっ、ちょっと前に授業でやったからね。数列って覚える公式が多くて嫌い」
「高校でこんな算数みたいなこと勉強してるんだ」
「いやいやいや。高校の数学はもっと難しいよ。等差数列だけじゃなくて等比数列や階差数列ってのもあるからね」
「何それ? 数学の教科書って見てみたいな。見せてもらってもいい?」
「いいよ。ちょうど今持ってるから」
祐希が通学バッグの中から取り出したのは数学Bの教科書だった。透明なブックカバーがしてあり、きれいに使われている。学校では隣の席の二橋絵梨花も教科書にカバーをしていて、感心したのを思い出した。祐希は思ったよりも繊細なのかもしれない。
「皐月が勉強していた数列はここ」
そのページにはアルファベットの k やら n、ギリシア文字の Σ を使った式が書かれていた。
「何だ、これ? 変な文字の式ばっかじゃん!」
小学校で習った x や y 以外の文字を使った式を見て、皐月はワクワクしてきた。ついさっきまで勉強していた難しい算数よりも、高校生が習う数学の方がずっと面白そうだ。
「祐希、こんなのわかるの?」
「そりゃ授業で教えてもらっているからわかるよ、一応」
「凄いじゃん! 祐希」
「別に全然凄くないって。だってこの数学Bって普通は高2で習うんだよ。私の学校じゃそれを高3で習ってるんだから」
「えっ? そんなことあるんだ」
「私は進学クラスじゃないからね。勉強系よりも体験学習や資格取得の授業の方が多いかな」
なんとなく祐希が恥ずかしそうにしているように感じたので、皐月はこれ以上勉強の話を続けるのをやめなければならないと感じた。
「ねえ、数学の教科書ちょっと借りてもいい?」
「いいけど、そんなの見てどうするの?」
「高校生ってどんなこと勉強するのかなって思って」
「へぇ~。皐月って勉強好きなんだね」
「勉強じゃないよ、ただの遊び」
皐月の部屋を通り抜けて祐希は自分の部屋に戻った。
皐月は算数の勉強を中断し、祐希に借りた数学の教科書を読み始めた。最初こそ好奇心で楽しく読んでいたが、内容がまるでわからないのですぐにつまらなくなった。だがこれを祐希が理解していると思うと、テストで真理や絵梨花に負けた時のような悔しさが湧き起こってきた。
モヤモヤした気持ちで勉強をする気がなくなったのでベッドで横になってイヤホンをつけ、名鉄名古屋本線を疾走する初代5000系の走行音を聞くことにした。皐月は「たまご」の愛称で親しまれていた、この美しい車両を愛している。伊奈から名電赤坂までは私鉄最長の直線区間と言われていて、そこを初代5000系はぶっ壊れるんじゃないかという勢いでかっ飛ばしていたという。
皐月はもう、とっくの昔に廃車になったこの古い車両に乗ることは叶わない。名鉄の初代5000系はネットでも動画が見当たらない車両なので、音だけ聞いて想像の世界に浸るしかない。頭の中に芽生えた嫌な感情を祓いたい時、皐月はいつも鉄道の走行音を聞く。
対抗心が好奇心の邪魔をする。もう勉強に集中できない。急に勉強がつまらなくなった。誰かに負けたくないという気持ちがやる気を起こさせることがあるけれど、淡白な皐月はそれだけでは情熱が続かない。皐月にだって負けん気がないわけではないが、すぐに負けてもいいやと諦めてしまう。
電車がレールの継ぎ目を通過する時に発生するジョイント音は癒し効果があるけれど、高速走行をする初代5000系はBPM上がりまくりで興奮しかない。実際に乗っていたらこれに振動が加わる。非冷房車なので夏は開け放たれた窓から入る風を浴びれば、冷房がなくても最高に気持ちがいいのだろう。
ジョイント音に身をゆだねていると、取り留めのないことが次から次へと頭の中に浮かんでは消えていく。
小田渕駅から国府駅の間の景色、比呂志と始発に乗った時の豊川駅のホーム、筒井の笑いながら怒った顔、博紀からの送球、好きなアイドルたちの MV の映像、飯田線の下地駅で下りた階段、豊川進雄神社の摂社末社、近所の肉屋のジャガイモしか入っていないコロッケ、狐塚の狐、千智のはにかんだ顔、中学生になってつまらなそうな顔をした近所の森下君、千由紀の緩んだ顔、聡のスラッとした足、頼子に見せられた昭和のスターの若い頃の写真、絵梨花の背筋の伸びた座り姿、秀真の家の本棚、永井のタクシーの車内、真理の心配そうな顔、顔にかかってくすぐったい明日美の髪……。
そのひとつひとつが思い至らせる暇もないくらいの速さで流れていく。自分の悪い癖なのかな……と皐月は思う。一つのことに集中して深く考えることができない。ただ猛スピードで頭が回転するだけだ。
こういう時の皐月は目を閉じているので、傍から見ると寝ているように見えるらしい。その時しっかりと意識があるのかといえば、自分ではよくわからない。ただ、こういう時に声をかけられてもすぐに反応することができる。眠っているような起きているような、よくわからない状態だ。
「皐月、起きてる?」
祐希が二人の部屋を仕切る襖を開けていた。
「うん、起きてるよ」
眠くはないのでパッと目を開けて身体を起こした。
「私、おなかがすいちゃった。そろそろご飯を食べに行きたいな」
「何か食べたいものある?」
「特にないけれど、行ってみたい店ならあるの。お母さんたちがいつもモーニングしているパピヨンなんだけど、いい?」
「そういえば俺も最近行ってなかったな。俊介の奴、俺があまり行かなくなったから、経営危機だって泣いていた」
祐希はすでに私服に着替えていた。制服姿の祐希と一緒に出かけたかったなと一瞬思ったけれど、さすがに恥ずかしくて口には出せなかった。
祐希と二人で外食をするのは初めてだ。一緒に暮らしている祐希は皐月にとってお姉さんのような存在なのかもしれない。でも皐月にはまだ素敵な女子高生だ。恋人がいる祐希だが、二人で喫茶店に行くなんてちょっとデートのような気がして背徳感がある。部屋着じゃない祐希は妙に可愛いので、異性として意識をしてしまう。
皐月はパピヨンなら部屋着のままでいいかと思っていたが、デートにふさわしい服に着替えた。それは千智と出かける時に着ようと思っていた、最近買ったTシャツだ。